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夜警の印とおぼしい、滑稽な三角形の帽子が近くに転がっていた。ヤフーは哀願するような目で見上げた
(美人さま。麗しきご婦人さまよ。どうかソレガシのため、お宅のヤフーを呼んでやってくださりませ。うっかり、マンドラゴラを追いましたところが、このていたらくであります)
(マンドラゴラ?)
むろんこの「生きた植物」のことは、ヘレナもよく知っていた。これを用いない魔法使いはおらず、当然ぼくも自宅に常備していた。ただし、地中から引き抜かれたとたん、枯れてしまうため、勝手に歩き回ったりはしない。魔法で動かすことはできるが、高等技術が要求され、ぼくでさえ、三度に一度は失敗する。
けれど、ヤフーの言い草によると、そいつは夜になると猫みたく、辺りをうろついているらしいのだ。そうしてどうやら馬人間どもは、マンドラゴラが好物らしい。
(夜警を怠って、追っていたのですね)
ヘレナがカマをかけると、馬人間は長い手足をばたつかせた。
(仰るとおりで。どうか夜警仲間にだけは、知らせずにおいてやってくだされ。さもないとソレガシ、仲間から袋蹴りの憂き目にあってしまいますに)
(あいにくですけど、家にヤフーは飼っておりませんの。かわりに、わたくしが起こして差し上げますわ)
(そんな……ご婦人の手に触れるなんぞ、めっそうもござりません。もしそんなところを仲間に見られましたら、袋蹴りどころか、皮を剥がれて、馬琴の材料に。いやいやそれ以前に、ご婦人の細腕ではとても……)
言い終わらぬうちに、ヘレナは箒でも立てるように、ヤフーを軽々と起こしていた。それから三角帽を拾い、黒い目をきょとんと見開いている、馬面の前に差し出した。
ヤフーはベルメエルと名のった。
「なるほど。きみはそのベルメエルとかいう馬人間の夜警から、情報を引き出してきたんだね」
ヘレナはうなずき、また軽く髪を掻き上げた。小柄な彼女に、ひょいと持ち上げられては、さぞかしヤフーも驚いたろう。ただ、彼女に出せる力も、それくらいが限度だろうし、瞬間的だったからこそ、発揮できたと思われる。
「ええ。どうやらこの街……いえ、この国の夜が静かなのは、理由があるようですわ」
「理由、ねえ。そいつは屋根から屋根へと飛び回る、化け物じゃねえのかい」
ル・アモンが眉をひそめたのは、例の赤マントの妖魔を、思い出したからに違いない。静かに、ヘレナは首を振った。
「それがよくわからないのです。姿のない影に怯えているとでも、申しましょうか。はっきりした形をとらず、静かな恐怖だけが、闇の中に潜んでいるようです」
「抽象的だね」
「申し訳ございません。ベルメエルも、具体的に言い表す言葉を持たない様子でした。もともとかれらの知能は高くありませんので、なおさら。ただ実際に、若い娘たちが消える事件が、頻繁に起こっております」
「消える? いわゆる神隠しとか、そういうやつ?」
町でも村でも、人が「消える」ことは、そう珍しくない。
原因は様々だろう。本人の意思で家を出る場合もあれば、人知れず竜に襲われるケースも多い。また、黒革で顔の下半分を覆った、恐ろしい鳥のような「人買い」にかどかわされる者も、どれほど王国が取り締まろうと、後を絶たない。時には、本当に鬼神に隠されることも、ぼくは知っている。けれど、鬼神による誘拐は、ごく稀にしか起こらない。
そうして人が消えると、町でも村でも、「探し屋」がやとわれる。町の探し屋は立派な店を構えているが、村では農夫が兼業していることが多い。かれらは革のベルトで太鼓を吊るし、それを打ち鳴らしながら、消えた者の名を呼んで歩く。日が暮れると、片手に松明を持って、入り組んだ路地や、暗い森の中へと分け入る。
かれらが名を呼ばわる声は、独特の哀調を帯びており、太鼓の音と相まって、松明の火の揺れる夜景に、もの悲しい音楽を添える。ヘレナは言う。
「とくに美しい娘ばかりが、消えるのだと申します。そうして、ひとたび姿を隠した娘が、見つかったためしはなく、だれ一人、二度と帰らないのだとか」
「これまでに、どれくらい、いなくなったのだろう?」
「サフラ・ジート王国が生まれて千年。その間もずっと消え続けていると申しますから、数えきれないほどでしょうし、当然、ヤフーにもそこまではわかりません。ただ、一年の間に、およそ百人の娘が、姿をくらませているようですわ」
国の規模を考えると、決して少ない数ではない。のみならず、緑色の繭に閉ざされ、外壁をミュルミドン蟻兵によって守られた都市で、原因不明の失踪が、そう頻繁に起こるのは不可解である。ヘレナは語を継いだ。
「ベルメエルは何度か、消えた娘とおぼしい幽霊を見たそうですわ。一人ではなく、その都度違う娘だったと」
「幽霊」
「ええ。そして娘たちの幽霊には、必ず首がないのです」