37(1)
37
サフラ・ジート王国の夜は静かだ。
妖魔が満ちあふれている「壁」の外とは、空気がまったく異なる。街そのものが、休息を愉しむかのように。甘やかな闇の帳に、ひっそりと包まれていた。
むろんこの平和は、忠実で強力な軍隊があった上で、維持されたものだろう。今頃も「壁」の外では、夜番のミュルミドン蟻兵たちが歩哨に立ち、あるいは文字どおり、蟻の這い出る隙間もないほど、綿密な巡回を行っているに相違ない。
ぼくたちがここへ潜りこめたのは、たいへんな奇跡と言えた。
「鉱物人間は、どうなったのでしょう」
さほど寒くもなかったが、暖炉には火が入れられていた。耳を澄ませても、薪のはぜる軽い音が聞こえるばかり。屋外は、夢の淵にまどろもうとしていた。
おそらく普段は、「壁」の外の状況など意識されず、忠実な蟻兵たちも、王国の住民にとっては、空気のような存在なのだろう。平和とは、そういうものだ。けれど今回の騒ぎは、街の女たちが眉をひそめて噂しあうほどだった。
蟻兵が総動員されたのみならず、ヤフーたちまで借り出されたのだと、彼女らは囁きあっていた。今や女装をかなぐり捨て、伯爵に戻ったル・アモンは、黒猫の背を撫でながら言う。
「なんとかかんとか、撃退されたんじゃないか。さもなけりゃ、今頃呑気に、茶なんか啜っていられねえぜ」
「死んだのでしょうか」
「いや」
語気の強さに、ぼくは覚えず顔を上げた。ル・アモンは、唇を噛んでいた。その唇が、少し震えているのを見た。
「不完全とはいえ、理屈上、やつは不死身だ。蟻の姉さんたちは、仕留めたと思ったかもしれねえが、いずれまた、森の底から這い上がってくるぜ。おそらくな」
全身を切り裂かれた姿で、暗い森の底へ落ちてゆく鉱物人間が、いやに鮮明にイメージされた。
瘤だらけの幹。太い木の根が蛇のようにのたうつ湿地。緑に濁った泥の中に半ば埋もれて、死んだように横たわる姿が。
わずかな月光が、闇を青く染めている。無残な体の上を、鋏を振り立てて、沼蟹が這ってゆく。けれども、無数の深い傷は、少しずつ、そして着実に縫合されてゆく。
うっすらと、男は目を開ける。その口に、ゾッとするような微笑があらわれる……
「かれは、何者なのですか」
「古い知り合いさ」
吐き捨てるように、ル・アモンは言う。顔に浮かんだ嫌悪の表情に比べて、黒猫の背を撫でる手つきは、あくまで優しい。
「親友だったと言ってもいい。おれの趣味とは関係なく、いい友達だった。ともにフクロウ党に入るまでは、な。だが、不老不死の夢に憑かれて、やつはすっかり人が変わった」
黒猫が不意に顔を上げたので、伯爵は言葉を切った。しばらく、ぴんと耳を立てていたが、やがてかれを見上げると、可愛らしい声で、一度鳴いた。この家の先住者とおぼしい黒猫は、みょうにル・アモンに懐いてしまった。
ボレは暖炉のかたわらで、地べたに座り、眠っているのやら起きているのやら。薄く目を閉じたまま、ときどき耳を蠢かせた。ヘレナは使いから、なかなか戻らない。
あのあと……
夕方の騒ぎはすぐに収まった。目標を達した以上、ヤフーを暴れさせておく必要もなかった。ぼくが解放の呪文を唱えると、下級精霊は喜んで馬面から離脱した。きっとあんまり、居心地がよくなかったのだろう。
ちなみに、よほど離れていなければ、呪文は対象に聞こえなくても、効力を発揮する。もちろんそのためには、ある程度以上の腕前が要求されるけれど。
ヤフーは呪縛を解かれるとか、気抜けしたように、ふらふらとくずおれ、別のヤフーによって、太い鎖で捕縛された。
「どうなるのでしょう?」
ヘレナがわざとらしく尋ねたところ、
「あれは流しのヤフーでしょう。子飼いと違って、ほんと、荒っぽくていやになりますわ。ああして、お酒で目を回して暴れ出すのには、こまったものです。どうせしばらく繋がれただけで、放免されるのがオチでしょう。もっと教育を行き届かせなければ、いけないのですけどねえ」
例の小間使いたちはというと、まだ気絶している貴婦人を、荷物のように抱えあげ、一目散に逃げてしまった。財布の紛失に気づくのは、早くて翌朝だろう。