36(3)
半透明な緑色の体はずんぐりむっくりしており、昆虫に似た四枚の翅が生えていた。角なのか触覚なのかわからない、二本の突起を動かして、樹木の精気を取り込むのだろう。下級精霊の中でも、個体化が強いほうだ。
呪文を唱えると、簡単に呪縛され、ふらふらと飛んで、ぼくの掌に落ちた。伯爵がその軌跡を目で追ったのには、少しばかり驚いた。
「見えるのですか?」
「なんとなく。しかし、そんな鼻提灯みたいなやつに、盗みができるのかい」
ぼくたちは再び雑踏にまぎれた。
果実店の前に、いかにも身なりの好い一行が、たたずんでいる。貴婦人らしい女が、数人の小間使いを従えている。この国に貴族階級があるのか、それはわからないが。小間使いたちが、あれこれ値踏みするのを、愉快そうに眺めている。
店先は、当然彼女らに占拠されてしまい、ほかの客の入り込む余地がない。それでも店の女が嬉々として応対している。よほどの上得意とみた。実際、小間使いたちが持つ大きな籠には、次々と果実が放り込まれてゆく。
三つの籠が一杯になる頃には、少なくとも、三分の一の商品が消えているだろう。威厳たっぷりに、時おり貴婦人が、値踏みに口をはさむ。
「そのラアタムは、色がよくなくてよ。取り替えてちょうだい」
ガラスのランプに灯が入れられ、様々な色彩を、夢のように浮き上がらせている。小間使いたちは誰もが若く、揃いの可憐なエプロンドレスを身につけ、上気させた頬もまた、果実をおもわせる。片っ端からまる齧りにしてやりたいと考えて、自身が今、少女であることを思い出した。
店の奥を覗くと、ここにヤフーはいない様子。邪魔者ナシ、と、店から少し身を引いた。見回すと、左隣の店との間に、五マリートほどの空間があり、果実店の裏手に、荷車がつけられているのが見えた。一匹のヤフーが荷車に腰かけ、煙草をふかしていた。
やはり、しゃんと背筋を伸ばした姿勢が、作りものじみている。やけに細長いパイプの柄は、馬面と同じくらい。さっそくぼくは、手の中の下級精霊に、長い呪文を与えた。
我が師ダーゲルドは、この過程を「プログラムする」という。そして「プログラムされた」下級精霊を、「ウィルス」などと呼んでいた。知られざる古代語なのか、それともかれの造語だったのか、さっぱりわからないが。レディ・アモネスが囁いた。
「なるほどな。だいたい魂胆が読めたぜ」
ぼくは悪魔的にほくそ笑むと、荷車に腰かけているヤフーに向けて、下級精霊を飛ばした。
精霊は不器用に翅をばたつかせながら、「プログラム」どおり、馬人間に向かって、まっすぐ飛んで行く。その鼻づらへしがみついたとき、体色が半透明の緑から青に変化した。とたん、ヤフーの体がエレキを浴びたように、びくりと震えた。パイプが地面に転がった。
口から泡を吹き、大量の涎を滴らせた。瞳が確かな狂気を帯びた。ヤフーはかん高くいななくと、宙を掻きながら飛び出した。荷車の倒れる音が、混乱の序奏のように響きわたった。
「暴れヤフーだわ!」
雑踏の中で、一人の女がそう叫ぶと、管楽器のような悲鳴が、たて続けに鳴った。
馬のいななきと、人間の男の唸り声を交互に上げながら、ヤフーは人込みに踊りこんだ。駆け出す者、立ちすくむ者、転倒する者、しゃがみ込む者が相つぎ、たちまち通りは、混乱を極めた。
ひととおり雑踏を掻き回したところで、しがみついている下級精霊の色が、青からオレンジに変わった。「プログラム」が第二段階へ移行したのだ。ヤフーはわき目も振らず、果実店の店先へ駆け込んだ。
通りが混乱する間、貴婦人の一行は、そこに釘付けにされていたのだが、泡を吹きながら突入してくるヤフーを見て、小間使いたちが一斉に悲鳴を上げた。果実の棚がひっくり返され、壁に穴が開き、柱がへし折れた。大量の果実が、辺り一面にぶちまけられた。
人を傷つけないよう、呪文で指示してあるが、これだけ果実が転がっているのだから、転倒するのは仕方がない。悲鳴を連発しながら、小間使いたちは、世にもあられもない姿で転げ回り、みずみずしい果実のような、色とりどりの下着を露わにした。
貴婦人はというと、独り、棒杭のように突っ立っていたが、やがてくるくると目を回し、そのまま大きな買い物籠の中へ倒れた。
金糸で刺繍された、ずしりと重そうな財布が、足もとに滑ってきた。もちろん、ぼくたちのほかに、気づいた者はだれもいない。恐怖のあまりしゃがみ込むふりをして、ぼくは財布をスカートの下に隠した。
「シッティング・ゲット」
レディ・アモネスを見上げてウインクしてみせると、さすがに返す言葉もなかった様子。