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日暮れまでには、まだ間がありそうだった。
気の早い鳥たちが、せわしなく店じまいを始めるなか、ゆったりした午後のまどろみが、まだ辺りを覆っていた。街路は意外に、ひっそりしていた。
メインストリートは、右へゆるやかにカーブしつつ、わずかな上り勾配になっている。貝殻の中にいるような、本当に螺旋形の街なのだ。磨り減った石畳が、古代帝国の旧道をおもわせる。家は建て込んでいるが、枝道があり、広場があり、樹木が感じよく配されているので、息苦しさは、まったくない。
「いかにも、女たちがこしらえた街だね」
ぼくがつぶやくと、小間使いの恰好をしたヘレナが、素早く口に人さし指をあてた。
「なりません、ご主人さま。もっと女性らしい言葉を使わなくては」
と、なんだかレムエルみたいな言い回し。
ル・アモンはといえば、世にも不機嫌そうに押し黙ったまま。
かれが最も忌み嫌う女の服を身に纏うという拷問に、懸命に耐えている様子だった。けれども、それがかえって、伯爵の粗暴さを緩和して、さらにガヴァネスらしさを添えているのは事実。美しくも気難しい女家庭教師といった風情。ヘレナの提案で、最近発明された「眼鏡」を、かけさせられていた。
(ヘレナさんとやらが付き添うんなら、おれは不要じゃねえか)
最初、伯爵はそう言い張ったものだが、街の様子を知る必要があるのでは? とボレに返され、二の句が継げなかった。無精ひげを剃り落とし、服を替えるだけで、どこからどう見てもガヴァネス然とした。もともと色白な肌はきめ細かで、美しい金髪がほっそりした顔のラインを縁どった。
この世界では、ぼくはフォルスタンテ嬢で、伯爵はアモネス先生と呼ばれることになった。
「商店街というのは、あるのかしら」
しぶしぶながら、「女性らしい言葉」でぼくは尋ねた。声変わりが始まる前で、一部を除き、成長が止まっているので、ソプラノまで容易に出せる。
周囲に建ち並ぶのは普通の住居で、何か売っている様子はない。何度か横丁を覗いてみたけれど、小さめの家が並んでいるばかり。相変わらず、仔猫一匹歩いておらず、干しっぱなしの洗濯物が、淋しげに揺れていた。
侵入者のうしろめたさが、そう思わせるのか、この街に拒絶されているような気がした。まるで街そのものが生きていて、ぼくたちが女でないことに気づき、嫌悪しているかのように。
ヘレナが答えた。
「もう少し先へ進めば、あるようですわ。なにしろ、メインストリートが一本しかございませんから、居住区と商業区が織り交ざっているようです」
彼女はボレから、この街の様子について、みっちり説明を受けていた。気乗りのしないぼくたちを仕込むよりはと、モグラ殿も考えたのだろうし、それは間違いではなかった。持ち前の献身的態度で、ヘレナは膨大な情報量を吸収していったから。
少し歩くと、立ち話をしている女たちの姿が目に入った。三名とも、おばさんと呼ぶにはまだ少し若い。ぼくたちが近づくと、ぎょっとした様子で目を見張ったが、すぐに柔和な顔つきにかわり、三人揃って、スカートをちょっとつまんだ。
ヘレナが素早く、同様な挨拶を返した。気難しい家庭教師と、世間知らずな令嬢は、ぼんやり突っ立っていても、不自然ではなかったろう。女の一人が尋ねた。
「お買い物でございますか」
「はい。お嬢さまの散歩がてら。ずいぶん驚きのようでしたけど、どうかなさったのですか?」
ボルシェマールの芝居にでも出てきそうな、いかにも機転の効く小間使いといった役どころを、彼女は発揮する。女たちが驚いた原因が、ぼくたちの「尻尾」を見透かしたせいでないことを、思わず念じた。
女たちは、一つの体に三つの首をもつ黄金竜のように、セリフを分担した。
「貝の外で、何か起きたみたいですの」
「兵たちが大勢、東の方へ向かったという、もっぱらの噂です」
「一部のヤフーたちまで、借り出されたと聞きますわ」
鉱物人間だ。そう直感せずには、いられなかった。やつ一人を鎮圧するために、ミュルミドン蟻人の大部隊が動いたに違いない。