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勝手に任せられてもこまる。
「ぼく一人で行けと? この国の習慣も何も知らないのに、それは無理でしょう。魔法使いは、全能ではありませんよ。それに」
「それに?」
「複雑怪奇な女性の服を、どうやって着るのか、ぼくは知りません」
脱がせるのは得意だが。ともあれ、ヘタな着つけで外をうろつくのは、尻尾を出したまま得意になって人を誑かそうとする、未熟な妖獣と大差あるまい。たちまち馬人間、ヤフーを呼びつけられて、手足を引っこ抜かれるのがオチだ。
ならば、ボレやル・アモンに着つけができるかというと、かれらの当惑した表情からして、訊くまでもなさそうだ。耳の裏を掻きながら、ボレが言う。
「一理ございますな。それに魔法使い殿は、世慣れしない、深窓の令嬢という設定で服をあつらえましたので、一人歩きは不自然かと」
「ちょっと待て。そいつはどういう意味だ?」
「いかにも。伯爵さまには、ガヴァネス役がうってつけかと。ええ、いかにもお似合いでございますよ」
ガヴァネスとは、女家庭教師のこと。裕福な家に住み込んで、学問から行儀作法にいたるまで、令嬢に手ほどきする。ゆえにガヴァネス自身も、相当な教養を備えていなければならず、また上流階級出身であることが望ましい。必然的に、ほとんどのガヴァネスが「零落したお嬢さま」である場合が多い。
なるほど、一見粗暴なル・アモンであるが、とり澄ませば気品が漂う。頭が好さそうにも見えるし、実際、知能は高いのではないか。ボレの言うとおり、ガヴァネス役にはもってこいだろう。もっとも、本人は今にもボレに、噛みつきそうな勢いだが。
「家庭教師だと? おれだって、女の服なんか着たこともなければ、触れたこともねえ。自分がこんなものを着ているところを、想像するだけで虫唾が走る」
絶対似合うと思うが、そのことは口にしないまま。わかっていることは、早くも計画が暗礁に乗り上げたということ。いったいそれがどんな計画なのか、よく知らないのだけれど。ボレは言う。
「このままここで飢え死というのも、とんちんかんな話で。どうにかならないものですかねえ」
「だからぼくは全能では……」
きらりと光るものに、視界の隅を射られて、思わず口をつぐんだ。
まず右手の甲をかざしてみたが、薄情にも、透明な石に変化のきざしはない。次に左手をかざし、並んでいる四つの石を見つめた。うち、小指のグリーンの石は、主のいないことを象徴するように、輝きを失い、くすんで見えた。それでも、ハーミアとの契約は切れていないのだから、取り外すことはできない。
また光が走った。緑の石の、隣だ。善鬼とは反対の薬指に嵌められた、ブルーの石が、ごく一瞬輝きを放っては、また沈黙した。ヘレナ? これは逆リクエストと受けとめてよいのだろうか?
「どうした美少年?」
抜け目ない伯爵だが、指輪の変な光りかたには、気づかなかったようだ。なるほど、ヘレナなら、この状況でおおいに役立つだろう。戦闘能力は格段に衰え、まだまだハーミアに敗れたダメージから、回復していないと思われるが、当面、そこまで手強い相手と事を構える予定はない。
脳裏をちらりとよぎった鉱物人間の姿を、ぼくは強いて舞台裏に押し戻した。
「少し驚かせてしまうかもしれませんが、ここで初めて、魔法らしい魔法をお目にかけます。部屋の隅まで下がっていただけますか」
伯爵はゼモと顔を見合わせ、言われたとおりにした。好奇心もあらわに凝視されながら、左手の薬指の指輪に軽く触れた。エレキのような刺激が走り、青い火花が弾けた。ぼくは、ウンディーネの呪文を唱えた。
ヘレナの肌の上の傷は、すっかり癒えていた。けれど、完全に回復したわけではないことは、片膝をついて一礼するときの、身のこなしでわかった。相変わらず豊かな黒い髪は、つややかだが、青い燐光を放つほどの、往時のパワーは望むべくもない。さすがに伯爵は目をまるくした。
「いや、驚いたね。こいつはどんな手品だい?」
「魔法だと申し上げたはずです」
「いや、驚きましたな。噂には聞いておりましたが、これが使鬼というものでございますか。じつにお美しい。いや、ゼモはお世辞は申せないタチでしてな」
ヘレナみたいな娘が好みなのか、ボレは珍しく落ち着かない様子で、耳の後ろを掻いていた。彼女に輪をかけて幼い印象の、ヴィオラを見せてやりたい気もするが、まさかこんな所で、禁断の使鬼を呼び出すわけにもゆかない。顔を赤くしたまま、ゼモ族の男は語を継いだ。
「しかしまあ、これで晴れて婦人服を着ることができますなあ、魔法使い殿」
どうやらぼくは、自身の首を絞めたらしい。