第50話 突然の来訪は困るだろ
アスファルトに日が照りつけ、放射冷却による低下した地面の温度が徐々に熱を帯びる頃、繰生五織は自身の家へと辿り着く。
ランニングで汗滲んだ服を洗濯機に投入し、シャワーを浴びる。毎朝のルーティンをこなすと、五織はすぐに机へと向いた。
「今日は数学から始めるか」
――夏休み。
約一ヶ月の休暇を五織はここぞとばかりに勉強に費やしていた。
高校一年生の夏にしては不健全な気もするが、バイトがあったり、みんなと夏祭りに行くと約束したし、それに部活の合宿も予定されている。
五織としては十分に予定が詰まっている。どちらかと言えば勉強の時間に心許ないくらいだ。
今は夏休み明けの実力テストに向けて"打倒七瀬"を掲げている。
ちなみに夏休み前の期末試験は相変わらずの二位。七瀬菜月には勝つことができなかった。
他メンバーはと言えば――
三宮寺澪(前回八位→七位)。
一ノ瀬遥(前回十五位→十五位)。
東城四暮(前回圏外→圏外)
と大きく順位が変動することもなかった。
だが、一点気になるとすれば橘二麻のことだ。
前回、二麻は五織に続く第三位であり、ギャルでありながらその聡明さを見せて周りを驚かせていた(その実態は不知火家と呼ばれる名家の息女であったということは五織達数名しか知らない)。
何にせよ、彼女は名家に恥じぬ秀才であったのだが、今回の期末試験ではその順位を大きく落とし、二十八位という、貼り出し組ギリギリの成績であった。
と言っても、貼り出し組になっている時点で優秀なことには変わりないのだが、あまりの順位変動に五織も驚いてしまった。
『ちょっと色々あって勉強できなかったんだよねー! さすが名門緑英高校。気ぃ抜くとすぐこれかー!』
そう笑って答えていた二麻を思い出す。
五織と同じく、澪も遥もそんな二麻を心配したが、すぐに彼女は四暮の方を向いて、
『まぁでも、どっかのチビには勉強しなくても勝てることがわかって良かったよ』
と揶揄った。
その後はもちろんいつもの啀み合いが始まったため、五織達もそれ以上追及することはなかった。
「おっと……いけない。他人を心配している余裕なんてないだろうが」
気づけば二時間以上経っていたが、五織が開いていた参考書は開いた最初の数ページで止まったままだった。
そんな自分を叱咤して、今度こそとペンをはしらせようとすると、インターホンが鳴った。
「……なんだ?」
特に配達物を頼んだ覚えはないため、訪問販売やら勧誘やらだろうと予想し、五織は訝しみながらも玄関モニターを見た。
「…………なんで?」
ドアを開けて来訪者と向かい合うと、相手はスンとした態度で五織を通り過ぎて、有無も言わさずに部屋に入って来た。
「お邪魔しまーす」
「勝手に邪魔すんな。何だその荷物」
「しばらく家泊めてよ。お兄ちゃん」
そう。彼女は五織の二つ下の妹、繰生六叶だ。
六叶は持っていたキャリーケースを居間へと上げると、すぐさまそれを開き始めた。兄の了解など必要ないとばかりにどんどんと泊まる準備をする。
その様子を見て、五織はハァとため息をつくと、家を出て電話をかける。
2コールもしないうちに電話に出た母は、予想通りだと言ったように五織に頼んできた。
『ごめんね。五織。しばらく六叶をよろしくね』
「いや、良いんだけどさ。何があったんだよ?」
事情を尋ねると「うーん」と母は少し言い淀んだ。
『ちょっと言い合いになっちゃってね』
「言い合い?」
『六叶、緑英に行きたいんだって』
「へぇ? 良いじゃん、目指せば」
『そんな簡単に言うけどねえ。あの子は五織みたいに何でも出来る子じゃないのよ? 今の成績じゃとても……』
「二年生だし、まだこれからでしょ。何なら今から目指すなら時間は十分だと思うけど」
『私もそれだけなら、頑張りなさいって言うわよ。でもあの子、剣道部も冬まで残るって言うし……。次期部長になるから最後まで残るんだ! って』
「んー」
母の心配もわからなくもない。六叶はなんでも器用に出来るかと言えばそうではないし、要領も良くない。
だが、そこは大きな問題ではなく、問題なのは飽き性なその性格だ。なんでもかんでも中途半端に手をつけてはテキトーに辞める。そんなことばかりを繰り返している。
特に印象的なのは小学生の時、突然「中学受験をしたい」と言い出した。そんな六叶のために両親は塾に通わせたのだが、最終的にやっぱり受験辞めると言って、結局高い塾代が無駄になったことがある。
今回のことも思いつきで言い出したことかもしれないし、両親が簡単に頷けないのもわかる。
加えて、飽き性な性格だが、面倒見がいい性格の六叶だから、きっと剣道部は最後まで続けるのが目に見えている。
母は若干、六叶のことを勘違いしている節があるから、ちょっとした会話のすれ違いから言い合いになってしまったのだろう。母の断片的な話からそう想像がつく。
「幸い夏休みで都合がつくから、六叶はこっちで預かっておくよ」
『さすがお兄ちゃん。助かるわぁ』
そんなやり取りを終えて五織が部屋に戻ると、既に六叶は整理を終えて、勉強机の椅子に座っていた。何やら難しい顔を浮かべて五織のノートを見ている。
「お兄ちゃん、高一でこんな難しいことやるの?」
「いや、それは高三の範囲だよ。数Ⅲだし」
「なんで、高三の勉強してるの?」
「夏休み明けの実力テストは塾提携の全国模試だからな。普通に高三の範囲まで出るんだよ」
そう。実力テストは全国模試の模擬版のようなカタチで、普通に高一から高三までの範囲が出る。
高一でそれを受けるのは「大学受験はこんなに厳しいんだよ」というのを理解するための、あくまで記念受験的なモノになっている。だから五織のように高一から本気で挑む者などごく少数だ。
六叶は五織の説明を受けるとより一層の眉を顰めた。
「……相変わらず勉強熱心だね」
「まぁなー」
五織は冷蔵庫を開けると、水出ししておいたアイスティーを二つのコップに入れ、片方を六叶に手渡した。
「それで? いつまでいる気なんだ?」
五織が問うと、六叶は不機嫌そうに顔を顰めて、アイスティーを机に置いて口を開いた。
「……夏休み終わるまで」
「家事は折半だぞ?」
「そんくらいやるよ」
「勉強の邪魔はするなよ」
「しないよそんなの」
「言ったな」
言質を取ると五織は机の引き出しを開けて、その奥に入れていた鍵を六叶に渡す。
「合鍵。無くすなよ」
「……ありがと」
そんな淡白なやり取りを終えると、五織はしっしと六叶を勉強机から払いのける。
「それじゃ、俺は勉強するから」
「うん。あ、お昼ご飯はどうする?」
六叶にそう言われて五織はスマホの時間を見る。
11時12分。思ったより時間は過ぎていて、五織は額に手を当てた。
本来なら午前中には数学を終えて、午後からは物理の勉強をしようと思っていたのに完全に予定が狂ってしまった。
少しショックを受けつつも、五織は「まぁいいか」と諦めた。
「……そしたらつけ麺でもいいか? 最近できたところなんだけど、結構美味いんだ。昼になると混むから少し早く出ようと思う」
「うん、わかった」
六叶の了解を得ると、五織は椅子から立ち上がって、一緒に外に出た。
▶︎▷▶︎
『お兄ちゃん、夏祭り行くの?! 私も行きたい!』
六叶が突然押しかけてきてから一週間が経過した。明日は休み前から計画していた夏祭りに行く予定だ。
ちなみにメンバーは澪、遥、二麻、四暮、菜月だ。
周防一縷花や皇奏乃も誘ったが、どうやらそれぞれ他の友達と行くらしいので現地で会ったら写真でも撮ろうという話になっている。
妹を連れて行くことに若干抵抗を覚えるが、六叶はそこそこ人懐っこい性格であるし、澪あたりが上手く対応してくれる気がする。
なんなら澪もいることだし、澪の妹であるレイ。もとい三宮寺澪菜も呼べば良いのではと五織は思いつく。
彼女は六叶の所属する剣道部の先輩で、春頃に澪菜と六叶で遊んでいるところに五織は遭遇している。六叶と仲が良いみたいだし、妙案だと思ったのだが――。
「せっかくのお誘いだけど、断るわ。他に予定があるの」
洗い場に並び、五織が洗った食器を澪菜が丁寧に拭きながら、そう断られる。
何故か澪菜は姉である澪と会わないようにしているし、なんとなくそんな気もしていたが、あっさり断れてしまって五織は少し肩を落とす。
「そうか。また誘うよ」
「……悪いわね」
そう言った澪菜は珍しく本当にバツの悪い顔をしていて、五織は驚きながらも「いやいや」と首を振った。
「急な誘いだし、俺のほうこそごめん」
「なんでアンタが謝るのよ」
澪菜はフッと鼻で笑うと、「そういえば」と澪菜は口を開いた。
「こないだアンタと一緒に来た子。あの子も夏祭りは行くの?」
「え? ああ。七瀬のこと? 来るよ」
「そ。上手くやってるのね」
澪菜の返答の意味がわからず、五織は眉を顰めた。
「……どういう?」
「その七瀬さん? 好きなんでしょ?」
呆気からんとそう言われて、五織は手に持っていたグラスを落としそうになり、慌てて掴み直すと、澪菜も慌ててそのグラスを掴む。
五織の手に澪菜の手が重なる。
洗い物をしていて冷水に冷やされた五織の手よりも冷たく、繊細なその小さな手のひらに驚いて、またグラスを落としそうになる。
だが、グッと握られた力強さに、グラスは五織の手に留まっていた。
「なにやってんのよ」
「……わるい」
その青い双眸に見据えられ、五織はキュッと胸が苦しくなりながらも、そう言ってグラスを澪菜へと渡した。
「……あのさ」
「? どうしたのよ」
五織の言葉に澪菜は小首を傾げる。
その仕草、その口調、その容姿がどうしたって彼女ではない彼女に結びつく。
「……やっぱなんでもない」
「そう?」
声に出そうとしたが、喉の奥がグッと細くなり、五織はそれ以上言葉にすることができなかった。
「澪菜ちゃん、ちょっとお会計お願いしていいかい?」
するとマスターに呼ばれ、澪菜は「はーい」と返事をしてその場から離れていった。
一人残された五織は残った洗い物に手を伸ばして、スポンジをあてる。
――言葉が出てこなかった。
だってそれを聞いたところで何にもならない。だって彼女が彼女であるはずがないのだから。
万が一、億が一があって、彼女が自分を知らないフリをしているのなら、きっとそこには理由がある。
だから自分の問いに意味なんてない。それはきっと私利私欲を満たすための強欲で傲慢な問いだ。
――君はレイなのか。と。




