終わらせた男
内乱の火の粉が自国へ降りかからぬよう、手出し無用の沈黙を守り続けた周辺諸国が、新政権が樹立したとはいえ未だ慎重な姿勢を崩さずにいることは、当然といえば当然のことであろう。
若き外交家ライヴァンは、諸国との力関係や利害を踏まえたうえでの新たな条約締結にむけ、多忙な日々を送っていた。
「おかえりなさいませ」
「——」
夜もとうに更けたころ、疲弊した体を引き摺ってようやく帰宅したライヴァンは、思いがけない出迎えに面食らってまばたきを繰り返した。
「まだ起きていたのですか」
自分の台詞に、いやな既視感を駆り立てられる。
あの夜は娼館帰りだった。
そこで昔の仲間と落ち合う約束があり、遅い帰宅になる旨を言伝しておいたのだが、結局はこれも妻の役目と眠らずに待っていたノルエナに出迎えられた。
忘れられない、思い出したくもない夜である。
「ええ。ライヴァンさまをお待ちしておりました」
屈託なく微笑むノルエナは、もはや妻の顔ではない。
いわく、同志なのだという。
「わたくしに伝言をのこされましたでしょう。お話されたいことがあると」
「こうも伝えておいたはずです。帰りは何時になるかわからないので、あなたは先に休んでおくように。話は明日の朝に時間をとってもらえれば結構。侍従からそう聞いていませんか?」
「でも、気になって眠れなかったのです」
まっすぐに見上げられ、ライヴァンはつい視線を外した。この瞳に弱く、なにを言おうにもまず毒気を抜かれてしまう。
いまやノルエナから向けられるものは尊敬の念ばかりで、むしろ愛想を尽かされた方がましだったのではないかという苦い思いに駆られることがある。
どうやらライヴァンのことを教師かなにかのように思っているらしく、妻であるときには見せなかった無邪気さでやたらと懐いてこられては、いくら猛省中の身といえどたまったものではない。
(私はあなたの夫だ。——)
そう叫びたくなるのをこらえ、彼女の望む通りの振舞いに徹してきた。
「つぎはきちんと休みます。ライヴァンさまのご帰宅をお待ちしたりしませんから」
だからいま話してほしいと、まるで子どもがねだるような口調だが、内容だけを切り取るとなんとも切ない。
ライヴァンは肩をすくめて降参した。
「実は、しばらく家をあけることになりました。そのあいだの留守を頼みたいと思っています」
「しばらく?」
「おそらく一年ほど」
「まあ。……」
ノルエナが眼をまるくする。
「一年?」
「周辺の主要国を周ります。こちらの人員は訪問先の国ごとにやや入れ替えるでしょうが、私はその代表を務めるので、よくて一年」
「まあ……!」
興奮した声をあげ、ノルエナは表情を輝かせた。
「それでは、国交をひらくのですね? それも隣国だけではなく諸外国と。ライヴァンさまがその使節団の代表を? ――おめでとうございます。すばらしいことだわ!」
相変わらず話を飲み込むのが早い。
ちいさく滑らかな手が、流れるような仕草でライヴァンの手に添えられた。
(——ああ)
思わず心臓がはねる。
同志宣言をされて以来、かつてのように妻に触れることを赦されない男にとっては毒にも等しい熱だった。
触れあう手を凝視する。指、肘、肩とうつり、首筋を撫でるように見、ゆっくりと互いの視線が交わる。
かつての自分への後悔と、恨みがましい気持とが胸の内側を掻き回す。
(私は、この人を失ったのか)
久しぶりの接触に情けないほど感じ入ってしまい、
「ええ、まあ」
と喉の奥から上擦りそうな声をなんとか絞りだすだけで精一杯だった。
一年間離れ離れなるというのに、ノルエナが微塵も寂しがっていなかったことに気がつくのは、もう少しあとのことである。
水面下で粘り強く続けてきた交渉が実り、新政府が正式な国交を結びたりうる機関であると認められ、ライヴァンは国の代表として使節団を率い、条約交渉の役目に抜擢された。
——抜擢。
というが、予想できた人事でもある。
判断力と忍耐力、理想を現実に擦り合わせて妥協点を探る柔軟さ。そして商人あがりのこの男は、交渉の場でのなによりの武器が、一度交わした約束を必ず果たす誠実さにあると知っていた。
が、仕事のできる人間をそのまま家庭にもっていってもよい夫となるわけではないらしい。
事実、ライヴァンはこの歳になるまで結婚の二文字をまったく視野にいれたことがなく、妻帯後も我がことながらいまいち実感に乏しかった。
俗な言い方をすれば、自分が妻のものになったということも、その逆も、考えたことすらなかった。
夫という役割でみれば、ライヴァンはお粗末の一言に尽きるだろう。
離縁こそ免れたが、いっそ離縁を言い出された方が彼女の中に未練が見えてよかったのかもしれない。
革命のさなかより好色家で名の通ったライヴァンだが、ひとつには情報収集、いまひとつには仲間を失う寂寥を人肌に慰められていた面があった。
(何人死んだか)
思い出すままに指折り数えても、すぐに片手では足りなくなってしまう。
安酒を呷り、娼婦の膝に頭を置いて、他人の体温を感じながらようやく浅い眠りにつける日々が続いていた。
ライヴァンにとっての女とは、ただひたすらに温かく、柔らかいものでしかなかった。
そういう目で見ると妻はどうにも幼く、かたくなで、女というよりも少女のようだった。純粋ではあるのだろうが色気がなく物足りない。そう思っていた。
それを、あの煌めく黒い瞳に覆された。
遅い恋情に悶々としているライヴァンにとって、短く見積もっても一年は帰国できないであろうこの外交訪問のあいだ、ノルエナとの接触がまったく絶たれてしまうことが気がかりだった。
しかしノルエナの方にはそういった気持ちはないようで、それよりもライヴァンの仕事の中身に気をとられている。
なにか言わなければ、と思った。
「——手紙を」
「手紙?」
ノルエナが不思議そうに復唱する。
「そうです。手紙」
実際、気がかりというようなものではない。
その辣腕には誰もが一目置かざるをえず、国家の舵取りの一切を任され、不世出とも稀代ともいわれるほどの男が、心底焦っている。
「訪問中、手紙を書いても?」
「それは、もちろん……よろしいのではないでしょうか」
訝しげに答え、さらに続けた言葉が、一瞬喜色を示しかけたライヴァンの表情を固まらせた。
「どなたにお手紙をお送りになろうと、それはライヴァンさまご自身のことですもの。わたくしに許可をとる必要などありませんわ」
関係ないと言いきり、ついでながら興味もないことを態度に匂わせたノルエナに、悪気はない。
ことさらにライヴァンを遠ざけるのではなく、ごく自然な構えでの物言いであり、それが余計にライヴァンには堪えるものがあった。
が、ここで引き下がるわけにもゆかない。
「そうではなく、ノルエナ、あなたに手紙を書きたいのですが」
「わたくしに?」
思いがけぬことを言われた、というような顔である。
「なにか、お仕事のことでしょうか」
「いや」
と言いかけ、思いなおし、
「そう、仕事のことで。それにあなたの今後の活動についても内容を知らせてもらいたい」
「——そういえば、そういうお約束でした。重要なことはライヴァンさまにご相談すると」
ライヴァンの内心など露知らず、ノルエナはあっさり納得したようである。
とにかくも手紙の約束を取り付けたライヴァンは、翌日から準備に追われ、数ヶ月後、慌ただしく出立した。
手紙という手段は、果たしてよかったのか、悪かったのか。
数ヶ月を過ぎたあたりから頻繁に登場するようになる一人の男の名前に、ライヴァンは胸を掻きむしられるような嫉妬の念に苛まされることになる。




