終わらせた男 1
未満の妻(http://ncode.syosetu.com/n8052cq/)のささやかなうえに進展しない後日談です。前作をご存じないかたはそちらから先にご覧ください 。
内乱の火の粉が自国へ降りかからぬよう、手出し無用の沈黙をまもりつづけた周辺諸国が、新政権が樹立したとはいえ未だ慎重な姿勢を崩さずにいることは、当然といえば当然のことであろう。
若き外交家ライヴァンは、諸国との力関係や利害を踏まえたうえでの新たな条約締結にむけ、多忙な日々をおくっていた。
*
「おかえりなさいませ」
「――」
夜もとうに更けたころ、疲弊したからだを引き摺ってようやく帰宅したライヴァンは、おもわぬ出迎えに面食らってまばたきをくりかえした。
「まだ起きていたのですか」
自分の台詞に、いやな既視感をかりたてられる。
あの夜は娼館帰りであった。
そこでむかしの仲間と落ちあう約束があり、おそい帰宅になる旨を言伝てしておいたのだが、結局はこれも役目であるとねむらずに待っていたノルエナに出迎えられた。
忘れられない、おもいだしたくもない夜である。
「ええ。ライヴァンさまをお待ちしておりました」
屈託なくほほえむノルエナは、もはや妻の顔ではない。
いわく、
――同志
なのだという。
「わたくしに伝言をのこされましたでしょう。お話ししたいことがあると」
「こうも伝えておいたはずです。帰りは何時になるかわからないので、あなたは先に休んでおくように。話は明日の朝に時間をとっていただければ結構。侍従からそう聞きませんでしたか?」
「でも、気になってねむれなかったのです」
まっすぐに見上げられ、ライヴァンはつい視線をはずした。この瞳に弱く、なにを言おうにもまず毒気をぬかれてしまう。
いまやノルエナからむけられるものは尊敬の念ばかりで、むしろ愛想を尽かされたほうがましであったのではないかという思いにかられることがある。
どうやらライヴァンのことを教師かなにかのようにおもっているらしく、妻であるときにはみせなかった無邪気さでやたらとなついてこられては、いくら猛省中の身といえどたまったものではない。
(私はあなたの夫だ。――)
そうさけびたくなるのをこらえ、彼女の望むとおりのふるまいに徹してきた。
「つぎはきちんと休みます。ライヴァンさまのご帰宅をお待ちしたりしませんから」
子どもがねだるような口調だが、聞きかたによってはせつない言われようである。
ライヴァンは肩をすくめ、
「では言います」
と降参した。
「じつは、しばらく家をあけることになりました。そのあいだの留守をたのみたいのです」
「しばらく?」
「一年はかかるでしょう」
「まあ。……」
ノルエナは眼をまるくした。
「一年?」
「周辺の主要国をまわります。こちらの人員は訪問先の国ごとにやや入れ替えるでしょうが、私はその代表をつとめるので、よくて一年」
「ライヴァンさま!」
興奮した声をあげたノルエナは表情をかがやかせ、
「それでは、国交をひらくのですね? それも隣国だけではなく諸国と。ライヴァンさまがその使節団の代表を? ――おめでとうございます。すばらしいことだわ!」
あいかわらず話をのみこむのがはやい。
ちいさくなめらかな手が、ながれるような仕草でライヴァンの手をつかんだ。
(――ああ)
おもわず心臓がはねる。
同志宣言をされて以来、かつてのように妻に触れることをゆるされない男にとっては毒にも等しい熱であった。
触れあう手を凝視する。ゆび、肘、肩とうつり、くびすじを撫でるように見、ゆっくりとたがいの視線が交わる。
(この人を抱いていたのか)
かつての自分の気楽さへの後悔と、恨みがましい気持とが胸の内側をかきまわす。
(この人がいたのに。――)
好色で通してきた男だが、ひさしぶりの接触になさけないほど感じ入ってしまい、
「どうも」
と喉の奥からうわずりそうな声をなんとか絞りだすだけで精一杯であった。
一年間はなればなれになるというのに、ノルエナが微塵もさみしがっていなかったことに気がつくのは、もうすこしあとのことである。
*
水面下でねばり強くつづけてきた交渉が実り、新政府が正式な国交を結びたりうる機関であるとみとめられ、ライヴァンは国の代表として使節団をひきいての条約交渉の役目に抜擢された。
――抜擢。
というが、予想できた人事でもある。
判断力と忍耐力、理想を現実面にすりあわせて妥協点をさぐる柔軟さ。そして商人あがりのこの男は、交渉の場でのなによりの武器が、一度うなずいた約束をかならず果たす誠実さにあるとしっていた。
が、仕事のできる人間をそのまま家庭にもっていってもよい夫となるわけではないらしい。
事実、ライヴァンはこの歳になるまで結婚の二文字をまったく視野にいれたことがなく、妻帯後も我がことながらいまいち実感に乏しかった。
俗な言いかたをすれば、自分が妻のものになったということも、その逆も、考えたことすらなかった。
夫という役割でみれば、ライヴァンはお粗末の一言に尽きるであろう。
離縁こそまぬがれたが、いっそ離縁をいいだされたほうが彼女のなかに未練がみえてよかったのかもしれない。
革命のさなかより好色家で名のとおったライヴァンだが、ひとつには情報収集、いまひとつには同志をうしなう寂寥を人肌になぐさめられていた面があった。
(何人死んだか)
おもいだすままにゆび折りかぞえても、すぐに両手では足りなくなってしまう。
安酒をあおり、娼婦の膝に頭をおいて、他人の体温を感じながらようやく浅いねむりにつける日々がつづいていた。
ライヴァンにとっての女とはただひたすらにあたたかく、やわらかいものでしかなかった。
その眼でみれば妻はどうにも幼く、かたくなで、女というよりも少女のようであった。純粋ではあるのだろうが色気がなく、ものたりない。そうおもっていた。
それを、あの煌めく黒い瞳にくつがえされた。
*
みじかく見積もっても一年は帰国できないであろうこの外交訪問のあいだ、ノルエナとの接触がまったく絶たれてしまうことが気がかりであった。
しかしノルエナのほうにはそういった気持はないようで、それよりもライヴァンの仕事の中身に気をとられている。
なにか言わなければ、とおもった。
「――手紙を」
「手紙?」
ノルエナが不思議そうに復唱する。
「そうです。手紙」
実際、気がかりというようなものではない。
その辣腕にはだれもが一目置かざるをえず、国家の舵取りの一切をまかされ、不世出とも稀代ともいわれるほどの男が、心底あせっている。
「訪問中、手紙を書いてもよろしいですか」
「それは、もちろん。……よろしいのではないでしょうか?」
訝しげに答え、さらにつづけた言葉が、一瞬喜色を示したライヴァンの表情をかたまらせた。
「どなたさまにお手紙をお送りになろうと、それはライヴァンさまご自身のことですもの。わたくしの許可をとる必要などありませんわ」
関係がないと言いきり、ついでながら興味もないことを態度に匂わせたノルエナに、悪気はない。
ことさらにライヴァンを遠ざけるのではなく、ごく自然な構えでの物言いであり、それが余計にライヴァンにはこたえるものがあった。
が、ここで引き下がるわけにもゆかない。
「あなたにです、ノルエナ。あなたに手紙を書きたいのですが」
「わたくしに?」
おもいがけぬことを言われた、というような顔である。
「なにか、お仕事のことでしょうか」
「いえ」
と言いかけ、おもいなおし、
「そう、仕事のことで。それにあなたの今後の活動についても内容を知らせてもらいたい」
「――そういえば、そういうお約束でした。重要なことはライヴァンさまにご相談すると」
ライヴァンの内心など露知らず、ノルエナはあっさり納得したようである。
とにかくも書簡のやりとりの約束をとりつけたライヴァンは、翌日から準備におわれ、数ヶ月後、あわただしく出立した。
*
手紙という手段は、はたしてよかったのか、わるかったのか。
数ヶ月を過ぎたあたりから頻繁に登場するようになる一人の男の名前に、ライヴァンは胸を掻きむしられるような嫉妬の念に苛まされることになる。