未満の妻
一国を覆い尽くした革命がついに成り、国は新たな指導者のもと、新たな秩序に向けて急速に平定されつつあった。
新政府における外交係として国の舵取りを任されたライヴァンは、二十七歳とまだ若い。革命以前は一介の貿易商人だったが、その能力はすでに諸外国にまで知れ渡り始めていた。
国内においても、この革命の功により、すでに爵位があたえられている。
体つきはさほど鍛えられていないが背が高く、なにより眼に力があり、一目で女が色めき立つような外貌の持ち主である。
そのライヴァンがこの度妻に迎えたのは、貴族ながら急進的な革命派の側につき、新国家での重役の地位を約束されたレボニュー伯爵家の長女で、ノルエナという。
夫婦仲は、悪くはない。
が、ライヴァンには遊び癖があり、頻繁に娼館へ出入りする姿を知らない者はこの城下にはいない。
当然、ノルエナの耳にもその噂は届いていた。
さわやかな朝の気配に目覚めたノルエナが一番初めに感じたのは、喉の乾燥と下半身の鈍痛だった。
かろうじて寝台から起きあがると、ノルエナの様子をうかがっていたらしい侍女が数名、洗面や着替えの用意を手にしずしずと入室する。
てきぱきとした手際に身をまかせ、ノルエナはなお気だるげにまどろんでいる。
そこへ続けて入室してきた侍女頭が、
「奥さま」
と恭しく挨拶した。
「旦那さまからの言伝でございます」
「なあに?」
「はい。今晩は帰りが遅くなるのでご夕食はご一緒できず、旦那さまのご帰宅をお待ちになる必要もなく、先にお眠りになられていてよろしいとのことです」
「そう。……」
その予定とやらを邪推し、ノルエナは消沈した。
十中八九、娼館であろう。
(昨夜も、わたくしはライヴァンさまを満足させてさしあげられなかったのね)
侍女たちによって着付けられた衣装の上から、腹部のあたりをそっと撫でる。
何度朝を迎えても鈍い痛みに慣れることはなく、むしろ夜を重ねるごとに憂鬱が募り、満足どころか行為への苦手意識ばかりが増してゆく。
(みんな、こんなものなのかしら。……)
夫以外に経験のないノルエナには、わからない。
ただ、結婚以前に夢想していたものとは、なにかがずれているような気がした。
「奥さま、隣国より珍しい冊子を入手いたしましたので、本日はお好きな読書をして過ごされてはいかがでしょう」
沈みこんだノルエナを見かねた侍女頭が、明るい声音で別の話題を持ち出す。
心配をかけてしまったことを察し、申しわけなく思いながら、ノルエナはその提案にうれしそうに頷いてみせた。
「ええ、ありがとう。持ってきてちょうだい」
「かしこまりました。それでは、朝食のあとに」
(なにかひとつでも、わたくしがお役に立てるようなことはないのかしら)
眉間のあたりを曇らせ、ノルエナは夫の姿を思い浮かべた。
(あの方に愛されたいと思うことが、なぜ、こんなにも苦しいの)
「おかえりなさいませ」
夜ふけ。——
娼婦の白粉の匂いを身にまとって帰宅した夫に、ノルエナは予想が的中したことを悟り、気取られぬ範囲で眉をひそめた。
ライヴァンはといえば、こちらは目を見開き、ノルエナの出迎えに驚いたようである。
「まだ起きていたのですか」
「夫を出迎えるのは妻の役目です。——たとえ」
と、そこまで言って自分がなにを口走ろうとしたのかに気がついたらしい。
恥じ入るように睫毛を伏せ、唇を噛みしめる。
(たとえそれが望まれぬことでも、わたくしは妻なのだから)
貴族の令嬢としての教育を受け、そのことに誇りをもつノルエナにすれば、そのような弱音が自分の中にあることすら堪えられない思いであった。
飲み込まれた台詞を察し、ライヴァンは苦笑した。
(不貞を働く夫——とでも言いたいのだろう)
よい夫ではない、と、自覚はある。
革命のための工作に奔走していたころは、仲間同士の連絡や、潜伏場所として、娼館は格好の隠れ蓑となった。
そのとき懇意にしていた連中には、理由があって表舞台に立てない者も多く、いまだ密会のために娼館へ通う必要がある。
ライヴァンにとってのノルエナはあくまで仕事上は部外者に過ぎず、自身の居場所や目的を漏らすわけにもゆかない。
当然、妻の目には、女遊びの絶えない軽薄な人物としかうつらない。これでは妻に恨まれても仕方がないだろう。
それでも、ライヴァンは悪びれず、むしろ妻を言いくるめようとした。
「いま、我が国は一新され、これは生まれたばかりの赤子のようなものです」
革命というのは成功したあとの方がよほど難しい。まず、理想と現実の差に苦しむ破目になる。
事実、革命派の過激分子が、成された改革により地位を得たことで突然保守化することもある。なにより旧王家派の処理もまだ済んではいない。
成立したばかりの新政権がわずかな刺激で簡単に天秤を崩しかねないことは火を見るより明らかであり、それを防ぐため、四方八方に飛びまわる日々が続いている。
「いまはとにかく国を軌道に乗せなければなりません。我が家をかえりみる余裕が私にないことは謝ります。しかし、あなたにもわかってほしい」
などと言いながら、それにしても我ながら身勝手な言い分だと、ライヴァンは内心おのれに呆れるような気分になった。
しかし、このときのノルエナの心情は、真逆である。
(そうだわ。これなら)
と、閃いた。
(ライヴァンさまのお役に立つことができる。——妻として望まれないのであれば、せめて)
世間知らずの令嬢の健気さは哀れなほどで、ノルエナ自身、白と思い込めば黒さえも白く見えるという、馬鹿に一途なところがある。
この瞬間、ノルエナは妻であることを自ら捨てる道を選び、それこそがライヴァンのためになると懸命に信じ込んだ。
要するに夫を個人として愛することをやめ、だだっ広く温度のぬるい情へ落としこみ、むしろ一個の人格をごく一般的な尊敬の対象として見た。
つまり、愛情の熱度を下げ、距離をとった。
娼婦との事後の匂いを濃厚に引きずり帰宅する夫への不安は胸を押し潰さんばかりに重く、そうでもしなければこの年ごろの娘の心は千々にちぎれていたのに違いない。いわば、無意識の自己防衛策だった。
「わかりました」
ノルエナは頷き、
「では、わたくしもお国のために働きます」
そうと決めたとたん、驚くほどの清々しい気分がノルエナの胸中に満ち、別人に生まれ変わったかのように気分も表情も一変した。
もともと、聡明で教養があり、幼少期の家庭教師をして女にしておくにはもったいないと言わしめる度胸もある。
これにはライヴァンも仰天した。
「……あなたは女だ」
思わず上から下までノルエナを見てしまったのは、まるで見知らぬ人物に対面したような気がしたからである。
ノルエナは心外そうに眉をあげた。
「あら、だって赤子を育てるのは女の仕事ですわ」
「あれは言葉のあやです。そのくらいわかっているでしょう」
「国の大事です。男も女も関係なく、おのれの役割を果たすべきではありませんか」
いままで当たり障りのない会話してこなかった夫婦である。間髪入れず言い返してくる妻の姿を初めて見たライヴァンは、これが彼女の聡明さからくるのか、無鉄砲さの現れなのかすらわからなかった。なにか得体の知れない者と相対しているようでもあった。
ライヴァンは辟易し、ついに折れた。
彼はノルエナがどれほど真剣にこの会話を始めたのかを理解していなかった。箱入り娘になにができる、とたかを括ったのもある。
「よろしい、勝手にしなさい。ただし危険なことは決してせず、重大なことはすべて私に相談するように」
ノルエナはその機を逃さず、すかさず言った。
「それでは、わたくしのことは今後、どうぞ妻とはお呼びにならないでくださいませ」
唐突ともいえる申し出にさすがのライヴァンも驚き、返答につまる。
「わたくしはもはや妻ではありません。同志ですわ」
そのライヴァンへ悠然と微笑み、
「同志と呼んでくださいますね? 勝手にしろとおっしゃったのはライヴァンさまですもの」
と、あどけなく首を傾げた。
「——それは、妻としての役割も放棄すると?」
慎重に言葉を選び、ライヴァンが訊ねると、ノルエナはかわいらしく声をたてて笑った。
が、その唇からこぼれる言葉は、辛辣である。
「跡継ぎを心配されていらっしゃるの? それなら杞憂ですわ。家を存続させることは、貴族としての義務ですもの。幸い、わたくしの兄の家には幼くて健康な息子が三人おります。その三男を養子にとりましょう」
世間的には新婚期間でありながら、ライヴァンと夜を過ごすことはノルエナにとって苦痛でしかなくなっている。
心の伴わない性行為は、つらい。
政略結婚ではあったが、互いを慈しみ穏やかな家庭を築くことを夢見ていた少女に、夫の纒う生々しい気配は刺激がつよく、芽生えかけていた想いをことごとく踏みにじられたも同然だった。
むしろ、それでもライヴァンの役に立ちたいと思いつめる精神の可憐さを驚くべきだろう。
(わたくしはもはや、旦那さまを愛さなくてもいいのだわ)
そう思うと、息苦しさから解放され身軽になったような心地になった。
(だって同志なのだもの。だから、愛されなくてもいい。わたくしだけを見つめてくださらないことを悲しむ必要なんて、もう、ない)
夫の前身は商人である。
たとえ愛情は得られずとも、ノルエナの能力さえうまく示すことができれば、損得勘定のうえからいっても性別や年齢の垣根を超えた信頼を得ることくらいはできるだろう。
その自信は、あった。
(養子? ——)
一方、受けた衝撃の大きさに、ライヴァンは思わずよろめきそうになる足腰を叱咤した。
「あなたは、……あなたが産むのではなく?」
呆然と呟くと、ノルエナはますます無邪気な顔で、こともなげに言い放った。
「ご自分の血をのこされたいのであれば、どうぞ、どなたかを囲えばよろしいのだわ」
「あなたという妻がいるのに? なにか勘違いをしているようですが」
ノルエナの態度が気に食わず、つい攻撃的な語調になる。
「百歩譲って、あなたを同志と呼ぶことは構わない。しかし、そうなったからといってあなたが私の妻でなくなることはありません。そもそも国のために働くというが、一体なにができると? 革命のときですら、あなたは家に守られていた。血腥いことや残酷なことからは遠ざけられていた。そのあなたがなにをしようというのです?」
「まるで……まるで、この国は男の方のものであるような言い方をなさるのね。わたくしを小娘だと思って馬鹿にしていらっしゃるのでしょう」
鼻で笑うような物言いにノルエナはたじろいだが、ここで引き下がるわけにはゆかない。
革命直後の混乱はいまだ尾を引きずっており、ここで革命の最大の功労者であるライヴァンが離婚騒ぎなど起こせば、醜聞どころではないだろう。
離婚はできない。
ならば妻としての魅力に乏しいノルエナが少しでもライヴァンの役に立つには、これしか道がないではないか。
「旧弊を改めなければ、新しい時代の意味はありません。女にだってそれなりの権利と責任が与えられるべきですわ。血と戦いが男の革命であるのなら、女の革命はべつの道にあります。それに」
言葉を止め、短く息を吸う。
黒真珠のように濡れた瞳が、僅かな怒りを込めてきらりと光る。
「それに、わたくしを妻にしてくださらなかったのは、あなたではありませんか」
——その表情に見惚れたときには、すでに遅い。
経験したことのない甘美な痺れからライヴァンが我にかえったのは、一礼したノルエナが背を向けて立ち去ったあとである。
世界中でただ一人、ライヴァンだけがすべてを手にいれてよいはずだった存在を完全に失ったことを、彼はそのときにようやく悟った。




