第1話 彼氏できた、の通知が落ちてきた
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に色づいた。
椅子を引く音、友達を呼ぶ声、週末の予定を決める笑い声。
その全部が、湊の周りだけを器用に避けて流れていく。
湊は机の上の教科書を静かにスクールバッグへしまい、誰とも目を合わせないように立ち上がった。
入学して数か月。
この街に来てから、湊の「放課後」はずっとこんな調子だった。
新幹線で一時間半。駅前の高層ビル群も、無機質に並ぶチェーン店の看板も、東京の風景と大差ないはずだった。それなのに、知っている人が誰もいないというだけで、見慣れたはずの街並みさえ遠い異世界のように思える。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。
同じ制服の背中が前を歩いていくのを見送りながら、湊は自然と早足になった。
早く帰りたい。早く、あの部屋に戻りたい。
校門前のバス停へと急ぐ。
道路の先をじっと睨みつけるようにして、バスの到着を待つ。
やがて滑り込んできたバスに乗り込み、座席で小さく丸くなって過ごした。
マンションの玄関を開けると、母の気配はなかった。
静まり返った廊下を抜け、自室のドアを閉める。
ネクタイを緩めながら、湊はほとんど反射的にPCの電源を押した。
青白い光が部屋を照らす。
その光だけが、湊を現実から守ってくれる防壁だった。
エンジニアの父の背中を見て育った影響もあり、湊は機械いじりが好きで、プログラミングやデザイン作業も得意だった。
ロジック通りに動く画面の中の世界は、裏切らない。
人間みたいに、気分で態度が変わったりしない。
だから湊は、ここに逃げ込むように毎日座っていた。
そしてもうひとつ。
湊を東京の記憶につなぎ止めている存在があった。
机の端のスマホを手に取る。
メッセージアプリを開く。
相手の名前は――『遥』。
中学三年間、ずっと好きだった女の子。
結局告白できないまま卒業し、引っ越しの日も「新幹線を使えばすぐだよ」と強がることしかできなかった。
それでも遥は、高校に入ってからも時々メッセージを送ってくれた。
『今日、課題多すぎて死ぬ』
『湊の高校ってどんな感じ? 友達できた?』
たわいもない言葉が、湊にとっては救いだった。
この街で押しつぶされそうな心を、かろうじて繋ぎ止めてくれる細い糸だった。
(今日も、何か送ろうかな)
「放課後に川沿い歩いたよ」と打ちかけて、指が止まる。
しつこいと思われたらどうしよう。
嫌われたらどうしよう。
下書きを消した、その瞬間だった。
スマホが震えた。
画面に表示された名前は――遥。
心臓が跳ねる。
湊は慌てて通知をタップした。
『湊、聞いて! 急なんだけどね』
続けて、もう一通。
『彼氏できた!』
「……え?」
声にならない声が漏れた。
視界が一瞬だけぐにゃりと歪む。
すぐに次のメッセージが届く。
『うちの高校の先輩に告白されてさ、付き合うことになったんだよね!
まだ実感ないんだけど、なんかめちゃ緊張する……笑』
何度読み返しても、その言葉の意味は変わらなかった。
遥に好きな人ができるかもしれないことくらい、分かっていた。
自分は遠く離れた街の、ただの同級生。
告白すらできなかった臆病者。
それでも――
心のどこかで小さく灯っていた「いつか」が、
冷たい水を浴びせられたように一瞬で消えた。
湊は震える指で『おめでと』と打ち込みかけたが、あまりに素っ気なく見えてすぐに消した。気を遣わせるのも嫌だった。
必死に呼吸を整え、明るいスタンプを添えてメッセージを送り出す。
『マジで!? びっくりした! おめでとう! どんな人かまた教えてよ』
送信ボタンを押すと、ほんの数秒で既読がついた。
『ありがとう! また話聞いてね!』
軽い返信。
その一言を最後に、トーク画面は静かになった。
スマホの画面が暗転し、黒いガラスに自分の顔が映る。
その顔が、ひどく歪んで見えた。
湊は机に突っ伏した。
「……もう、嫌だ」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
期待して、勝手に傷つくのは、もう御免だ。
PCの光が、まだ部屋を青白く照らしている。
伏せようとしたスマホの画面に、流れてきた広告が目に留まった。
『話せるAI ――あなただけの相手』
湊の指が、その文字の上で止まった。




