番外編「金色の令嬢と豊穣の主」
◇セリア視点
羽ペンの先から滴るインクが、羊皮紙の上に美しい黒の軌跡を描いていく。
私は窓から差し込む午後の柔らかな光を背に受けながら、交易の数字を一つ一つ確認していく。
王都の商業ギルドとの独占契約、魔界からの特産品の輸入関税率、そして周辺の自治領との協定書類。
私の前に積み上げられた書類の山は、このアルカディアという国がどれほど巨大で複雑な歯車によって動いているかを証明している。
羽ペンをインク壺に戻し、私は小さく息を吐き出して窓の外を見る。
広場の中央でそびえ立つ神樹の向こう側に、広大な農地が海のように広がっている。
そして、その緑の波の中で、一人黙々と土を耕す背中が見える。
アルトだ。
彼はこの国の絶対的な指導者でありながら、決して豪華な城に住もうとはせず、毎日泥にまみれて畑に出ている。
彼のその真っ直ぐで不器用な生き方を見るたびに、私の胸の奥に温かくて少しだけ痛いものが込み上げてくる。
あの日、私がすべてを失いかけていた時のことを、今でも鮮明に思い出す。
私の生家である貴族の家は、政争に敗れて没落し、私は借金のカタとして辺境の領主のもとへ身売りされる寸前だった。
傷だらけの馬車に揺られながら、私は自分の人生が暗い泥沼に沈んでいくのをただ見つめていることしかできなかった。
そんな絶望のどん底で、私はあの光景に出会ったのだ。
荒れ果てた枯れ地が、たった一人の青年の手によって瞬く間に黄金の麦畑へと変貌する奇跡。
凶暴な害獣の突進を、傷一つつけずに巨大な緑の壁で弾き返す規格外の力。
彼は魔法使いでも騎士でもなく、ただ自分の足元の土を愛する一人の農民だった。
私が馬車から飛び降り、泥だらけの畑に足を踏み入れた時、彼の黒い瞳は真っ直ぐに私を見返してきた。
そこには、貴族に対する卑屈さも、自分の力に対する傲慢さも微塵もなかった。
ただ、目の前の命を生かすことだけを考える、純粋で透明な強さが宿っていた。
『この作物を私に預けてみない。あなたの力を、私が金貨に変えてみせる』
私は彼にそう持ちかけた。
没落貴族としての最後の矜持と、生き延びるための必死のすがりつきだった。
彼は少しだけ目を丸くした後、私の手を迷いなく握り返してくれた。
彼の手は土にまみれ、剣だことは違う分厚いマメに覆われていた。
しかし、その手から伝わってきた大地の熱は、私の冷え切っていた心を内側から溶かすほどに温かかった。
それからの日々は、まるで嵐のようだった。
強欲な領主の軍勢を大地の檻で制圧し、飢えた魔族の軍団を奇跡の果実で忠臣に変え、ついには天から降りてきた別次元の使徒すらも神樹の糧にしてしまった。
彼の力は、私の商才や知識など及ばない、世界そのものを書き換えるほどの理不尽なまでの巨大さだ。
それでも、彼は決して自分の力に溺れることはない。
『俺はただの農民だ。誰も腹を空かせない場所を作りたいだけなんだ』
彼はいつもそう言って笑う。
その笑顔を見るたびに、私は自分がどれほど彼に救われているかを思い知るのだ。
私が彼を支えているのではない。
彼が作り出す巨大な大地の揺りかごの中で、私が自由に踊らせてもらっているだけなのだと。
窓から吹き込む風が、私の頬を優しく撫でる。
私は立ち上がり、机の上の書類を綺麗に揃える。
午後の休憩の時間は、彼に冷たい麦茶を持っていくのが私の日課になっている。
階段を下り、土の匂いが色濃く漂う外へと出る。
畑のあぜ道を歩いていくと、彼は額の汗を拭いながら立ち上がり、私に気づいて手を振る。
太陽の光を背に受けた彼の姿は、どんな立派な王侯貴族よりも頼もしく、私の目を惹きつけて離さない。
「また計算ばかりしていたのか。たまには外の空気を吸わないと、頭が固くなるぞ」
彼が笑いながら受け取った木のコップから、冷たい麦茶を一気に飲み干す。
その喉仏が上下に動くのを、私は少しだけ眩しい気持ちで見つめる。
「誰かさんが次から次へと新しい作物を作るから、私が販路を拡大してあげているのよ。感謝してほしいわね」
私がわざと勝ち気な声で返すと、彼は少し困ったように笑い、私の頭にポンと手を乗せる。
土の匂いがする大きな手。
「ああ。いつも感謝している。あんたが隣にいてくれるから、俺はこの土を耕し続けることができる」
彼のその飾らない言葉が、私の胸の一番奥に真っ直ぐに届く。
顔が熱くなるのを感じながら、私は小さく咳払いをして彼の顔を見上げる。
青い空の下、この温かい手の持ち主と共に、私はどこまでも続く未来への道を歩んでいく。
金色の令嬢が豊穣の主と共に見る夢は、まだ始まったばかりだ。




