第一話 灰色の日常
浸蝕警報は、もうだれも驚かない。
低く、くぐもった音が要塞都市第七区画に流れても、通りを歩く人々の足は止まらなかった。ほんの少し歩調が速くなるだけだ。買い物袋を抱えた女が子どもの手を引き、地下通路へ向かう。小型車両は進路を変え、外壁沿いの兵士は通信機に手を当てる。それだけで十分だった。これが日常だ。
灰色の空は、ずっと変わらない。カイが生まれるより前から、あの空の向こうから現れた浸蝕体は、今では地の底にまで広がっている。だから誰も驚かない。驚いたところで何も変わらないと知っているからだ。
「カイ、行くわよ」
母が言う。振り返った顔は、いつもと同じだった。警報が鳴っているのに、まるで夕飯の話でもしているみたいに穏やかで、紙袋を二つ抱えている。
「……まだ第一警報だろ」
「だからよ。早く動くほうが安全なの」
軽く笑われる。訓練で何度も聞いた言葉だ。避難経路、シェルター、警報段階。全部知っている。知らないと生きられない。
でも、カイは警報音が嫌いだった。あの音が鳴ると街の空気が変わる。色が抜けて、温度が落ちる。もともと灰色なのに、さらに何かが削られるみたいで。
母に手を引かれ、人の流れに混ざる。前を歩く老人が咳き込みながら進み、その背中に小さな子どもがしがみついている。大型モニターには外周の状況が映り、赤い点がいくつか点滅していた。まだ遠い、そう思った。
「お父さん、間に合うかな」
母は一瞬だけ視線を伏せた。
「大丈夫。すぐ合流できるわ」
その言い方はさっきと同じで、カイはそれ以上聞かなかった。
階段に差しかかった、そのときだった。地面が跳ねた。足元から突き上げられる衝撃に体が浮き、人の流れが崩れる。誰かが悲鳴を上げ、照明が明滅し、視界が揺れた。
「第二警報――外壁北西部、突破――」
突破。その単語だけが、はっきりと頭に残る。
「走るわよ!」
引かれるまま、カイは駆ける。肩がぶつかり、足元で何かが転がり、母の紙袋が落ちて中身が散らばる。それでも拾わない。拾えない。
隔壁が閉まる音が響く。間に合わなければ終わりだと分かっている。
「母さん――!」
呼んだ瞬間、爆音がすべてを消した。衝撃が空気ごと押し潰し、視界が崩れる。何が起きたのか分からない。ただ、手が離れたことだけは分かった。
「――カイ!」
母の声がした気がして顔を上げる。
そこにいた。
異形。教本で見たはずのそれは、まるで別物だった。近すぎる。理解するより早く、それは人に触れた。殴った、そう見えた次の瞬間、その人の上半身は消えていた。赤が飛び、誰かが叫び、音が遠くなる。さらに現れる。二体、三体。多い。兵士が撃つ。閃光、連射音、火花。それでも止まらない。世界が壊れていた。訓練もルールも、何もかも意味を持たない。
「カイ、こっち!」
母が駆け寄ってくる。顔に血がついている。立ち上がろうとしても体が動かない。怖いというより、現実じゃないみたいで、その瞬間、影が跳ねた。
「――ッ!」
母がぶつかってくる。押され、視界が回り、床に叩きつけられる。息が抜ける。顔を上げる。
母がいた。
その身体を、浸蝕体の前脚が貫いていた。
声が出ない。血が流れる。多すぎる。
「……かい……」
聞き取れない。聞きたくない。母の身体が崩れる。カイは動けない。助けないといけないのに、何もできない。浸蝕体がこちらを見る。終わりだと分かる、そのときだった。
壁が吹き飛んだ。轟音とともに銀色の巨影が落ちてくる。人型。戦装機〈アーク〉。着地と同時に撃ち、斬り、踏み潰す。速い。強い。圧倒的だった。だが、それでも遅い。すべてが遅すぎた。
「回収しろ!」
声が飛び、誰かに掴まれて引かれる。それでも視線は動かない。母から離れない。
運ばれる途中、瓦礫の中に父の姿が見えた。動かない。手だけが伸びている。音が遠くなり、何も分からなくなる。ただ、見ているしかできない。二人とも、もう動かない。助けられなかった。何もできなかった。この世界はこういう場所だと、はっきり分かった。
アークが最後の一体を踏み砕く。火花が散る。灰色の空は変わらない。
「……軍に……入る……」
自分でも驚くほど静かな声だった。アークを見る。あれなら戦える。あれなら、奪われる側で終わらない。
胸の奥で何かが固まる。悲しみより先に、涙より先に、冷たいまま形になる。
久城カイはこの日、すべてを失った。
そして同時に、ひとつだけ手に入れた。
――殺したい。
それだけだった。
読んでいただきありがとうございます。初めてで至らないところばかりですが、見守っていただけますと幸いです。




