表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/22

第3話 知らない屋敷、知っている手のぬくもり

 ベッドから出ていいという許しが出たのは、それから数日たった朝のことだった。


「短い時間だけですよ。絶対に無理はなさらないでくださいね、奥様」


 そう念を押したのは、きりっとした声の女性だった。


 栗色の髪をきちんとまとめ、真っ白なエプロンドレスを身につけた彼女は、いかにも「メイド長」という雰囲気をまとっている。

 目元は厳しそうなのに、視線が私に向くときだけ、すこし柔らかくなる。


「マリアだよ。覚えていないかもしれないけれど、この屋敷のメイド長だ」


 レオンさまが紹介してくれる。


「マリア……さん」


「マリアで結構ですよ。いつも通り、そう呼んでくださいませ」


 いつも通り、らしい。

 私にとっては初めてなのに、その言葉が少しだけ嬉しかった。


     ◇


「では、まずはお着替えからですね」


 マリアはぱん、と軽く手を叩き、テキパキと衣装棚を開けていく。

 中にはレースのついたドレスが何着も並んでいたけれど、彼女が選んだのはごく簡素な淡いクリーム色のワンピースだった。


「今日は屋敷の中を少し歩くだけですから。肩のあたりにまだ痛みがあるでしょうし、軽いものにしておきましょう」


「ありがとうございます」


「いえ。立てますか?」


 そっと肩を貸してもらいながら、私はベッドから足を下ろす。

 床に足の裏が触れた瞬間、ぐらりと世界が傾いた。


 思ったよりも、体が軽い。

 軽いというより、空っぽに近いような感覚だった。


「失礼しますね、奥様」


 マリアが手際よく寝間着を脱がせ、用意してくれたドレスを頭からかぶせてくれる。

 布が肌を滑る感触が、妙に生々しく感じられた。


 袖を通し、腰のリボンをきゅっと結ばれる。

 最後に、柔らかなショールを肩にかけられた。


「鏡をご覧になりますか?」


 問いかけられて、少しだけ迷う。

 自分の姿を見るのが怖いような、でも見ておかなければいけないような。


「……お願いします」


 部屋の隅にある姿見の前まで、マリアと腕を組んで歩く。

 一歩進むたび、足の筋肉が「久しぶりだ」と訴えてくるようだった。


 鏡に映った自分は、思っていたよりも、知らない人だった。


 頬が少しこけている。

 目の下には薄い影があって、肌の色もまだ本調子とは言えない。


 額には包帯が巻かれていて、その下から覗く髪は、焦げたように一部短くなっていた。

 ドレスの背中側、襟の下にちらりと赤い痕が見える。

 火傷だと分かるほど、はっきりとは見えない。

 けれど、そこに痛みの記憶だけが残っている気がした。


「……私、こんな顔、でしたか」


 思わず漏れた言葉に、マリアがあわてて首を振る。


「いえ、今はおけがのせいで少しお疲れに見えるだけです。元気なときの奥様は、それはそれは、お顔の色もよくて」


 そこで少し照れたように笑う。


「笑顔が、とても素敵でいらっしゃいましたよ」


 褒め言葉なのに、胸の奥がきゅっと縮む。


 笑顔を思い出せない自分が、そこにいる。


「ご迷惑を……かけてばかりで」


 反射的に頭を下げると、マリアは首を横に振った。


「迷惑だなんて、とんでもないことです」


 きっぱりとした声だった。


「奥様は、いつも私たちのことを気にかけてくださいました。お皿を割って落ち込んでいる子がいれば話を聞いてくださって、忙しいときには一緒に手を動かしてくださって」


「私が、ですか」


「はい。覚えていらっしゃらなくても、全部、本当のことですよ」


 その言葉が、胸にすとんと落ちる。


 覚えていないのに。

 でも、そんな自分でありたい、という気持ちが、確かに湧き上がってきた。


     ◇


 廊下に出ると、空気が少しひんやりしていた。


 高い天井に、長い赤いじゅうたん。

 壁には大きな絵画がいくつも掛けられている。

 金の額縁と、重たいカーテン。


 いかにも「貴族の屋敷」という光景なのに、息苦しさはなかった。

 窓から差し込む光が、古い木の床をあたたかく照らしているからかもしれない。


「奥様、こちらを」


 マリアに支えられながら、ゆっくりと歩く。

 数歩進むごとに、足が自分のものになっていく感覚がした。


 ふと、ある壁の前で足が止まった。


 そこだけ、他の絵と違う雰囲気の絵が掛けられていたからだ。


 子どもの絵、と言っても差し支えないくらい、線が少し頼りない。

 でも、色使いは明るくて、精一杯ていねいに描かれているのが分かる。


 大きな花束。

 ひまわりにも、マーガレットにも見える黄色い花の群れ。


「これ……」


 思わず手を伸ばしそうになって、止まる。


「私が、描いたんですか」


「ええ」


 マリアの声が、ほんの少し嬉しそうに弾んだ。


「最初は、紙に描かれたものだったのですよ。奥様が孤児院の子どもたちと一緒に描かれた絵を、レオンさまが『額に入れて飾ろう』とおっしゃって」


 孤児院、という言葉に、胸の内側がちくりとする。

 さっきも、その言葉でぼんやりした記憶が揺れた。


「お気に入りのお花、なんだと仰っていました」


「お気に入り……」


 黄色い花を見ていると、たしかになにか、心の奥が暖かくなる。

 遠くの夏の日の光だけを、ぽんと取り出してきたみたいな色だ。


「フィオナ」


 少し前を歩いていたレオンさまが振り返る。


「立っているだけで疲れるだろう。無理はしていないか」


「大丈夫です。……この絵、私が描いたそうですね」


「ああ。よく、ここで立ち止まっていた」


 彼の視線も、絵に向かう。


「『こんなふうに、この家の人たちを包んでいけたらいいですね』と、君が言った」


 そのときの声の響きまで、耳の奥に届きそうな気がした。

 でも、実際には覚えていない。


 記憶はなくても、言葉だけが胸の奥に残っている気がする。


     ◇


 廊下を抜けて、庭に出る。


 扉を開けた瞬間、緑の匂いが押し寄せてきた。


 石畳のテラスの向こうに、手入れの行き届いた芝生が広がっている。

 色とりどりの花が、低い花壇に植えられていた。


 歩幅を気にしながら一歩踏み出すと、土の柔らかさが足裏に伝わる。

 風がショールの端を揺らした。


 そのとき、芝生の向こうから、小さな影が走ってきた。


「きゅん」


 短い鳴き声。

 白と茶色の混ざった子犬が、勢いよくこちらに突進してくる。


「あ、わ……」


 慌てて身構えるより早く、足元まで来て、ちいさな前足でスカートをかりかりとひっかいた。


「奥様を驚かせてはいけませんよ、シナモン」


 マリアがそう叱る。

 けれど、その声にもどこか甘さが混じっていた。


「シナモン」


 名前を呼ぶと、子犬は嬉しそうに尻尾を振った。

 つぶれたような鼻先を、私の足に押しつけてくる。


 しゃがむのはまだ怖いはずなのに、体が勝手に動いた。


「大丈夫ですよ、奥様。無理は──」


「平気です」


 自分でも驚くほど自然に膝を曲げて、子犬の身体を抱き上げる。


 ころりとした重み。

 柔らかい毛並みの下にある、小さな肋骨の動き。

 温かい鼓動が腕に伝わる。


 ああ、この感覚を、私は知っている。


 頭ではなく、腕が、手のひらが覚えている。

 シナモンと呼ばれた子犬も、遠慮なく私の頬を舐めた。


「きゃっ……」


 くすぐったさに笑うと、マリアが目を丸くして、それからほっと息をついた。


「やっぱり、奥様ですね」


「やっぱり?」


「シナモンは、人見知りでして。知らない方にはすぐには懐かないのです」


 マリアは、柔らかい目で私たちを見ている。


「でも、奥様には最初から飛びついていって。まるで、何度も抱っこされてきたみたいに」


 何度も。

 たしかに、この腕の中の重さは、「初めて」のそれではなかった。


「……かわいいですね」


 思わずこぼれた言葉に、シナモンがさらに尻尾を振る。


「ご飯はもう食べましたか」


 自然に口から出た問いに、自分で少し驚いた。

 孤児院の子どもたちにかけるような言葉だ、と、どこか冷静な自分が思う。


「はい。さきほど」


 マリアが笑う。


「ごはんを食べたあと、いつも奥様のお部屋の前まで走っていってしまうのです。今日も、そうでした」


 その「いつも」が、胸にしみた。

 知らないところで続いていた「いつも」が、たくさんあるのだろう。


     ◇


「フィオナ、そろそろ中に戻ろう」


 レオンさまの声に、私は名残惜しくシナモンを下ろす。


 子犬はもう一度足元をくるりと回ってから、走って庭の隅に消えていった。


 屋敷の角にさしかかったときだった。


 何の変哲もない廊下の曲がり角。

 でも、その少し手前で、床の感触がわずかに変わった。


 気づく前に、足元がぐらりと揺れる。


「あ……」


 踏みしめたと思っていたところが、思ったよりも低かった。

 次の瞬間、世界がかるく傾いた。


 落ちる、と直感したときには、もう体が前に傾いている。


 目をつぶる暇もなく、腰のあたりを、ぐっと何かが支えた。


「危ない」


 耳元で、短い声がした。


 腕。

 硬い胸板。


 背中から、誰かの体温に受け止められる。


 ほんの一瞬。

 でも、その一瞬で、全身が覚えている。


 前にも、同じように支えられたことがある。


 そのときに感じた腕の回り方も。

 背中に当たる手のひらの大きさも。

 胸板の硬さも。


 全部、知っている気がした。


「大丈夫か」


 すぐ耳元で、レオンさまの声がする。


 振り返ると、彼の顔は思ったよりも近かった。

 灰色の瞳が、真剣にこちらをのぞき込んでいる。


「す、すみません。私、ちゃんと前を見ていなくて」


「君のせいじゃない」


 レオンさまは首を横に振る。


「ここは床が少し歪んでいる。前にも、同じところで足を滑らせた」


「前にも」


 その一言が、胸に重く落ちる。


「そ、そのときも、支えてくださったんですか」


「ああ」


 彼はほんの少しだけ、口元を緩めた。


「捨てるには惜しい癖だから、直せずにいる」


「癖……」


「段差があるから、君はいつもここで転びかけるんだ」


 それは、冗談めかした言い方だった。

 けれど、「いつも」という言葉が、二人の間に小さな橋をかける。


 私の覚えのない「いつも」。

 でも、体だけがちゃんと覚えている「いつも」。


 腰に回された手が離れていく。

 その重みが消える瞬間、少しだけ不安になる自分がいた。


 そんな自分の変化にも、驚く。


     ◇


「ここは?」


 しばらく歩くと、重そうな扉の前に出た。


 濃い木で作られた扉には、蔦の模様が彫り込まれている。

 他の部屋の扉よりも、少しだけ重たい空気が漂っていた。


「俺の執務室だ」


 レオンさまが答える。


「仕事をする部屋。君はよく、お茶を淹れて本を読んでいた」


「本を」


「この廊下から入ってくる日差しが好きだと言って、窓辺の椅子を勝手に自分の席にしてね」


 そこまで話して、レオンさまは扉に手をかけようとして、やめた。


「中を見るのは、また今度にしよう」


「今は、だめですか」


「だめ、というわけではないが」


 ほんの少し、言いよどむ。


「この部屋には、君と俺の話が、少し詰まりすぎている。体がもう少し楽になってからのほうが、いいと思う」


「話」


 告白とか。

 喧嘩とか。

 そういうものが、この部屋の空気に染みついているのだろうか。


 中がどうなっているのか、気になった。


 でも、扉一枚隔てた向こう側にある「何か」は、今の私にはまだ重いのだと、直感で理解する。


「……分かりました」


 私は素直にうなずいた。


 扉の前を通り過ぎるとき、木の香りがかすかに鼻をかすめる。

 その匂いにも、どこか懐かしさが混じっていた。


     ◇


 廊下の突き当たりの窓から、夕方の光が差し込んでいた。


 いつの間にか、空の色が変わり始めている。

 薄い青の上に、オレンジと薄紫が溶け合っていた。


 窓の外には、屋敷の庭と、その向こうに広がる街並みが見える。

 屋根の連なりが、空の色を映して赤く染まっていた。


 知らない街だ。

 見たことのない風景。


 そのはずなのに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


「……きれい」


 思わず窓枠に手を置いて、外を見下ろした。


 遠くで、教会の鐘が鳴り始める。

 店じまいをする人たちの声。

 子どもの笑い声。


 全部が、ここで暮らしてきた人たちの日常の音なのだと分かる。


「ここは知らない場所なのに」


 小さくつぶやいていた。


「でも、なんだか『おかえり』って言ってくれている気がします」


 自分でも、不思議なくらい自然な言葉だった。


 そう感じてしまうのだから、仕方がない。


 ここに来るまでの道のりは覚えていない。

 この屋敷で過ごしてきた日々も、ほとんど霧の中だ。


 それでも、窓の外の街は、私が帰ってくるのを、ちゃんと待っていてくれたような気がした。


「フィオナ」


 背中のほうから、レオンさまの声がする。


「疲れただろう。今日は、ここまでにしよう」


 次の瞬間、肩にそっと手が置かれた。


 重くはない。

 でも、しっかりとした重み。


 知らないはずの重さだ。

 なのに、肩がその重みに、自然と馴染んでいく。


 何度も、こうして支えてもらったことがあるのかもしれない。


 私の身体は、私が忘れている時間のことを、ちゃんと覚えている。


「……はい」


 窓の外の街をもう一度だけ見下ろしてから、私はゆっくりとうなずいた。


「少しだけ、分かった気がします」


「何が?」


「ここで、私が生きていたってことです」


 レオンさまの指が、ほんの少しだけ強く肩を押した。

 それが答えのように感じられる。


 全部思い出すのは、きっと時間がかかる。

 思い出せないままのものも、たくさんあるのかもしれない。


 それでも。


 この屋敷の中を、自分の足で歩いた。

 知らない絵の前で足を止めて、知らない犬を抱き上げて、知らない段差で転びかけて。


 そのひとつひとつの中に、「前にも」と「これから」が、少しずつ重なっていくのだと思う。


「これから、お世話になります」


 振り向いて、レオンさまとマリアに頭を下げる。


「フィオナ」


「奥様」


 二人の声が重なった。


 知らない屋敷。

 知っている手のぬくもり。


 その両方を胸の奥に抱え込んで、私はもう一度、ゆっくりと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ