第3話 知らない屋敷、知っている手のぬくもり
ベッドから出ていいという許しが出たのは、それから数日たった朝のことだった。
「短い時間だけですよ。絶対に無理はなさらないでくださいね、奥様」
そう念を押したのは、きりっとした声の女性だった。
栗色の髪をきちんとまとめ、真っ白なエプロンドレスを身につけた彼女は、いかにも「メイド長」という雰囲気をまとっている。
目元は厳しそうなのに、視線が私に向くときだけ、すこし柔らかくなる。
「マリアだよ。覚えていないかもしれないけれど、この屋敷のメイド長だ」
レオンさまが紹介してくれる。
「マリア……さん」
「マリアで結構ですよ。いつも通り、そう呼んでくださいませ」
いつも通り、らしい。
私にとっては初めてなのに、その言葉が少しだけ嬉しかった。
◇
「では、まずはお着替えからですね」
マリアはぱん、と軽く手を叩き、テキパキと衣装棚を開けていく。
中にはレースのついたドレスが何着も並んでいたけれど、彼女が選んだのはごく簡素な淡いクリーム色のワンピースだった。
「今日は屋敷の中を少し歩くだけですから。肩のあたりにまだ痛みがあるでしょうし、軽いものにしておきましょう」
「ありがとうございます」
「いえ。立てますか?」
そっと肩を貸してもらいながら、私はベッドから足を下ろす。
床に足の裏が触れた瞬間、ぐらりと世界が傾いた。
思ったよりも、体が軽い。
軽いというより、空っぽに近いような感覚だった。
「失礼しますね、奥様」
マリアが手際よく寝間着を脱がせ、用意してくれたドレスを頭からかぶせてくれる。
布が肌を滑る感触が、妙に生々しく感じられた。
袖を通し、腰のリボンをきゅっと結ばれる。
最後に、柔らかなショールを肩にかけられた。
「鏡をご覧になりますか?」
問いかけられて、少しだけ迷う。
自分の姿を見るのが怖いような、でも見ておかなければいけないような。
「……お願いします」
部屋の隅にある姿見の前まで、マリアと腕を組んで歩く。
一歩進むたび、足の筋肉が「久しぶりだ」と訴えてくるようだった。
鏡に映った自分は、思っていたよりも、知らない人だった。
頬が少しこけている。
目の下には薄い影があって、肌の色もまだ本調子とは言えない。
額には包帯が巻かれていて、その下から覗く髪は、焦げたように一部短くなっていた。
ドレスの背中側、襟の下にちらりと赤い痕が見える。
火傷だと分かるほど、はっきりとは見えない。
けれど、そこに痛みの記憶だけが残っている気がした。
「……私、こんな顔、でしたか」
思わず漏れた言葉に、マリアがあわてて首を振る。
「いえ、今はおけがのせいで少しお疲れに見えるだけです。元気なときの奥様は、それはそれは、お顔の色もよくて」
そこで少し照れたように笑う。
「笑顔が、とても素敵でいらっしゃいましたよ」
褒め言葉なのに、胸の奥がきゅっと縮む。
笑顔を思い出せない自分が、そこにいる。
「ご迷惑を……かけてばかりで」
反射的に頭を下げると、マリアは首を横に振った。
「迷惑だなんて、とんでもないことです」
きっぱりとした声だった。
「奥様は、いつも私たちのことを気にかけてくださいました。お皿を割って落ち込んでいる子がいれば話を聞いてくださって、忙しいときには一緒に手を動かしてくださって」
「私が、ですか」
「はい。覚えていらっしゃらなくても、全部、本当のことですよ」
その言葉が、胸にすとんと落ちる。
覚えていないのに。
でも、そんな自分でありたい、という気持ちが、確かに湧き上がってきた。
◇
廊下に出ると、空気が少しひんやりしていた。
高い天井に、長い赤いじゅうたん。
壁には大きな絵画がいくつも掛けられている。
金の額縁と、重たいカーテン。
いかにも「貴族の屋敷」という光景なのに、息苦しさはなかった。
窓から差し込む光が、古い木の床をあたたかく照らしているからかもしれない。
「奥様、こちらを」
マリアに支えられながら、ゆっくりと歩く。
数歩進むごとに、足が自分のものになっていく感覚がした。
ふと、ある壁の前で足が止まった。
そこだけ、他の絵と違う雰囲気の絵が掛けられていたからだ。
子どもの絵、と言っても差し支えないくらい、線が少し頼りない。
でも、色使いは明るくて、精一杯ていねいに描かれているのが分かる。
大きな花束。
ひまわりにも、マーガレットにも見える黄色い花の群れ。
「これ……」
思わず手を伸ばしそうになって、止まる。
「私が、描いたんですか」
「ええ」
マリアの声が、ほんの少し嬉しそうに弾んだ。
「最初は、紙に描かれたものだったのですよ。奥様が孤児院の子どもたちと一緒に描かれた絵を、レオンさまが『額に入れて飾ろう』とおっしゃって」
孤児院、という言葉に、胸の内側がちくりとする。
さっきも、その言葉でぼんやりした記憶が揺れた。
「お気に入りのお花、なんだと仰っていました」
「お気に入り……」
黄色い花を見ていると、たしかになにか、心の奥が暖かくなる。
遠くの夏の日の光だけを、ぽんと取り出してきたみたいな色だ。
「フィオナ」
少し前を歩いていたレオンさまが振り返る。
「立っているだけで疲れるだろう。無理はしていないか」
「大丈夫です。……この絵、私が描いたそうですね」
「ああ。よく、ここで立ち止まっていた」
彼の視線も、絵に向かう。
「『こんなふうに、この家の人たちを包んでいけたらいいですね』と、君が言った」
そのときの声の響きまで、耳の奥に届きそうな気がした。
でも、実際には覚えていない。
記憶はなくても、言葉だけが胸の奥に残っている気がする。
◇
廊下を抜けて、庭に出る。
扉を開けた瞬間、緑の匂いが押し寄せてきた。
石畳のテラスの向こうに、手入れの行き届いた芝生が広がっている。
色とりどりの花が、低い花壇に植えられていた。
歩幅を気にしながら一歩踏み出すと、土の柔らかさが足裏に伝わる。
風がショールの端を揺らした。
そのとき、芝生の向こうから、小さな影が走ってきた。
「きゅん」
短い鳴き声。
白と茶色の混ざった子犬が、勢いよくこちらに突進してくる。
「あ、わ……」
慌てて身構えるより早く、足元まで来て、ちいさな前足でスカートをかりかりとひっかいた。
「奥様を驚かせてはいけませんよ、シナモン」
マリアがそう叱る。
けれど、その声にもどこか甘さが混じっていた。
「シナモン」
名前を呼ぶと、子犬は嬉しそうに尻尾を振った。
つぶれたような鼻先を、私の足に押しつけてくる。
しゃがむのはまだ怖いはずなのに、体が勝手に動いた。
「大丈夫ですよ、奥様。無理は──」
「平気です」
自分でも驚くほど自然に膝を曲げて、子犬の身体を抱き上げる。
ころりとした重み。
柔らかい毛並みの下にある、小さな肋骨の動き。
温かい鼓動が腕に伝わる。
ああ、この感覚を、私は知っている。
頭ではなく、腕が、手のひらが覚えている。
シナモンと呼ばれた子犬も、遠慮なく私の頬を舐めた。
「きゃっ……」
くすぐったさに笑うと、マリアが目を丸くして、それからほっと息をついた。
「やっぱり、奥様ですね」
「やっぱり?」
「シナモンは、人見知りでして。知らない方にはすぐには懐かないのです」
マリアは、柔らかい目で私たちを見ている。
「でも、奥様には最初から飛びついていって。まるで、何度も抱っこされてきたみたいに」
何度も。
たしかに、この腕の中の重さは、「初めて」のそれではなかった。
「……かわいいですね」
思わずこぼれた言葉に、シナモンがさらに尻尾を振る。
「ご飯はもう食べましたか」
自然に口から出た問いに、自分で少し驚いた。
孤児院の子どもたちにかけるような言葉だ、と、どこか冷静な自分が思う。
「はい。さきほど」
マリアが笑う。
「ごはんを食べたあと、いつも奥様のお部屋の前まで走っていってしまうのです。今日も、そうでした」
その「いつも」が、胸にしみた。
知らないところで続いていた「いつも」が、たくさんあるのだろう。
◇
「フィオナ、そろそろ中に戻ろう」
レオンさまの声に、私は名残惜しくシナモンを下ろす。
子犬はもう一度足元をくるりと回ってから、走って庭の隅に消えていった。
屋敷の角にさしかかったときだった。
何の変哲もない廊下の曲がり角。
でも、その少し手前で、床の感触がわずかに変わった。
気づく前に、足元がぐらりと揺れる。
「あ……」
踏みしめたと思っていたところが、思ったよりも低かった。
次の瞬間、世界がかるく傾いた。
落ちる、と直感したときには、もう体が前に傾いている。
目をつぶる暇もなく、腰のあたりを、ぐっと何かが支えた。
「危ない」
耳元で、短い声がした。
腕。
硬い胸板。
背中から、誰かの体温に受け止められる。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で、全身が覚えている。
前にも、同じように支えられたことがある。
そのときに感じた腕の回り方も。
背中に当たる手のひらの大きさも。
胸板の硬さも。
全部、知っている気がした。
「大丈夫か」
すぐ耳元で、レオンさまの声がする。
振り返ると、彼の顔は思ったよりも近かった。
灰色の瞳が、真剣にこちらをのぞき込んでいる。
「す、すみません。私、ちゃんと前を見ていなくて」
「君のせいじゃない」
レオンさまは首を横に振る。
「ここは床が少し歪んでいる。前にも、同じところで足を滑らせた」
「前にも」
その一言が、胸に重く落ちる。
「そ、そのときも、支えてくださったんですか」
「ああ」
彼はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「捨てるには惜しい癖だから、直せずにいる」
「癖……」
「段差があるから、君はいつもここで転びかけるんだ」
それは、冗談めかした言い方だった。
けれど、「いつも」という言葉が、二人の間に小さな橋をかける。
私の覚えのない「いつも」。
でも、体だけがちゃんと覚えている「いつも」。
腰に回された手が離れていく。
その重みが消える瞬間、少しだけ不安になる自分がいた。
そんな自分の変化にも、驚く。
◇
「ここは?」
しばらく歩くと、重そうな扉の前に出た。
濃い木で作られた扉には、蔦の模様が彫り込まれている。
他の部屋の扉よりも、少しだけ重たい空気が漂っていた。
「俺の執務室だ」
レオンさまが答える。
「仕事をする部屋。君はよく、お茶を淹れて本を読んでいた」
「本を」
「この廊下から入ってくる日差しが好きだと言って、窓辺の椅子を勝手に自分の席にしてね」
そこまで話して、レオンさまは扉に手をかけようとして、やめた。
「中を見るのは、また今度にしよう」
「今は、だめですか」
「だめ、というわけではないが」
ほんの少し、言いよどむ。
「この部屋には、君と俺の話が、少し詰まりすぎている。体がもう少し楽になってからのほうが、いいと思う」
「話」
告白とか。
喧嘩とか。
そういうものが、この部屋の空気に染みついているのだろうか。
中がどうなっているのか、気になった。
でも、扉一枚隔てた向こう側にある「何か」は、今の私にはまだ重いのだと、直感で理解する。
「……分かりました」
私は素直にうなずいた。
扉の前を通り過ぎるとき、木の香りがかすかに鼻をかすめる。
その匂いにも、どこか懐かしさが混じっていた。
◇
廊下の突き当たりの窓から、夕方の光が差し込んでいた。
いつの間にか、空の色が変わり始めている。
薄い青の上に、オレンジと薄紫が溶け合っていた。
窓の外には、屋敷の庭と、その向こうに広がる街並みが見える。
屋根の連なりが、空の色を映して赤く染まっていた。
知らない街だ。
見たことのない風景。
そのはずなのに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「……きれい」
思わず窓枠に手を置いて、外を見下ろした。
遠くで、教会の鐘が鳴り始める。
店じまいをする人たちの声。
子どもの笑い声。
全部が、ここで暮らしてきた人たちの日常の音なのだと分かる。
「ここは知らない場所なのに」
小さくつぶやいていた。
「でも、なんだか『おかえり』って言ってくれている気がします」
自分でも、不思議なくらい自然な言葉だった。
そう感じてしまうのだから、仕方がない。
ここに来るまでの道のりは覚えていない。
この屋敷で過ごしてきた日々も、ほとんど霧の中だ。
それでも、窓の外の街は、私が帰ってくるのを、ちゃんと待っていてくれたような気がした。
「フィオナ」
背中のほうから、レオンさまの声がする。
「疲れただろう。今日は、ここまでにしよう」
次の瞬間、肩にそっと手が置かれた。
重くはない。
でも、しっかりとした重み。
知らないはずの重さだ。
なのに、肩がその重みに、自然と馴染んでいく。
何度も、こうして支えてもらったことがあるのかもしれない。
私の身体は、私が忘れている時間のことを、ちゃんと覚えている。
「……はい」
窓の外の街をもう一度だけ見下ろしてから、私はゆっくりとうなずいた。
「少しだけ、分かった気がします」
「何が?」
「ここで、私が生きていたってことです」
レオンさまの指が、ほんの少しだけ強く肩を押した。
それが答えのように感じられる。
全部思い出すのは、きっと時間がかかる。
思い出せないままのものも、たくさんあるのかもしれない。
それでも。
この屋敷の中を、自分の足で歩いた。
知らない絵の前で足を止めて、知らない犬を抱き上げて、知らない段差で転びかけて。
そのひとつひとつの中に、「前にも」と「これから」が、少しずつ重なっていくのだと思う。
「これから、お世話になります」
振り向いて、レオンさまとマリアに頭を下げる。
「フィオナ」
「奥様」
二人の声が重なった。
知らない屋敷。
知っている手のぬくもり。
その両方を胸の奥に抱え込んで、私はもう一度、ゆっくりと歩き出した。




