表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/22

第2話 旦那さまのための取扱説明書

 レオンさまと二人きりになった部屋の空気は、さっきまでより少しだけ静かだった。


 医師が出ていった扉のほうを、私はぼんやりと見つめる。

 かちり、と鍵のかかる音はしない。

 それでも、この部屋の中だけが、世界から切り離された場所みたいに感じられた。


「……疲れていないか」


 枕元から聞こえてきた声に、私はそちらを向く。


「少し、頭が重たいくらいです」


「それは、まだ起きたばかりだからだろうね」


 レオンさまは、さきほどと同じ椅子に腰をおろした。

 長い脚を組むこともなく、背筋を伸ばしたまま、落ち着いた動きで。


 灰色の瞳が、私の顔を探るように見つめる。


「もし、嫌でなければ……少しだけ、日記を一緒に見ようか」


「日記、ですか」


「無理にとは言わないよ」


 そう前置きしてから、彼は枕元のノートに視線を落とした。


「目を覚ますたびに、君とこれを開いてきた。今朝の君にとっては、初めてのことになるけれど」


 目を覚ますたびに。


 その言葉だけで、胸の奥がひやりとする。


 私が知らないところで、この「朝」が何度も繰り返されてきたのだとしたら。

 今、レオンさまの顔に浮かぶ安堵や疲れは、その全部の積み重ねなのだろう。


「……読みたいです」


 自分でも少し驚くくらい、はっきりした声が出た。


「私が書いたものなんですよね」


「ああ。君自身の言葉だ」


 なら、知りたい。

 どんなふうに笑って。

 どんなふうに、この人のことを見ていたのか。


 上体を起こそうとすると、頭がぐらりと揺れた。

 思わず眉を寄せると、すぐに支えが入る。


「無理はしない」


 レオンさまが、枕をそっと持ち上げ、背中に差し込んでくれる。

 昔からそうしていたかのような、慣れた手つきだった。


「こうして、もたれているといい」


「ありがとうございます」


 背を預けると、少し楽になる。

 胸元まで引き上げられた布団の上に、彼がノートを開いてくれた。


 革の表紙は、手にしっくりなじむ色をしている。

 角は丸くすり減り、いくつもの指がそこを触れてきたことを教えていた。


 一ページ目。


 紙の上のインクは、ところどころ濃淡があって、生きているみたいに見えた。


 明日の私へ。


 さっきも見た、書き出しの一行。

 その下に続く文字を、私は恐る恐る追う。


 これは、私専用・旦那さま取扱説明書です。


「……取扱説明書?」


 思わず、その言葉を口に出していた。


「やっぱり、そう書いてあったか」


 レオンさまが、困ったように笑う。

 耳のあたりが、ほんの少し赤くなっている。


「取扱説明書、って……」


「君がそう名づけたんだ」


 ページの端に、小さな文字で書き足された一文がある。


 ときどき、旦那さまメンテナンス記録も。


 メンテナンス。


 自分で書いたはずなのに、あまりに軽いその言い回しに、私は目を瞬いた。


 こんなふうに、人のことをからかうみたいな言葉を選ぶ自分が、本当にいたのだろうか。


「続き、読んでもいいかい」


「……お願いします」


 私の返事を聞いてから、レオンさまはゆっくりと声に出して読み始めた。


「一、レオンは褒められ慣れていないので、真顔で褒めるとフリーズします」


 そこで、一度読むのを止める。

 視線だけこちらに向けてきて、ふっと目をそらした。


「フリーズ、は少し言い過ぎだと思う」


「そうなんですか」


「少し固まるだけだ」


「……それを、世の中ではフリーズと言うのでは」


 口からぽろっと出てしまった言葉に、自分で驚く。

 それを聞いたレオンさまのほうも、一瞬きょとんとした顔をした。


 ほんの少しの沈黙。

 それから、声にならない笑いが喉の奥を震わせる。


「今のは、たぶん、前の君と同じ言い方だ」


「そう、なんですか」


「そうだと思う」


 彼の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 見ているだけで、胸のあたりがじんわり熱くなった。


「続きだね」


 レオンさまは、視線を再びノートに落とす。


「二、仕事で失敗した日は、自分から話してくるまであまり追及しないこと」


 さらさらと流れる声が、部屋の空気に溶けていく。


「代わりに甘いお菓子を出しておくと、勝手にしゃべりだします」


 私は、思わず彼の横顔を見た。


「本当なんですか」


「……いや、その」


 彼は思い切り視線をそらした。


「否定はできないが、誇れることでもない」


「甘いものが、お好きなんですね」


「嫌いではない。君が出してくるものは、だいたい美味しいから」


 すぐにそう言い足して、咳払いをひとつ。


 私の胸の中に、まだ知らない光景が浮かび上がる。


 仕事で疲れて帰ってきた彼に、こっそり用意した焼き菓子を出して。

 彼がそれを食べながら、ぽつりぽつりと愚痴をこぼす姿。


 見たことがあるわけでもないのに、妙にはっきりと想像できてしまう。


「三、本当に怒っている時は、静かになります」


 レオンさまが読み上げる。


「声を荒げるより、黙った時のほうが危険なので、その時はとりあえず手を握っておくこと」


 そこで一度、彼の指が止まった。


「……そんなことまで書いていたのか、君は」


「怒っているとき、なんですか」


「さあね」


 肩をすくめてみせる。


「覚えていないよ。怒った自覚も、あまりない」


「でも、静かになるんですよね」


「そうらしい」


 彼の横顔に、かすかな照れが浮かんでいる。

 無表情に見えがちな顔立ちなのに、こうしてじっと見ていると、いろいろな色が通り過ぎていくのが分かった。


 日記には、まだ箇条書きが続いている。


 ・考えごとをしている時は、窓の外の遠くを見がち。

 ・難しい顔をしていたら、とりあえずお茶を淹れて話しかけてみること。

 ・やさしいところもある。とても。


 最後の一文だけ、ほんの少しインクが濃く滲んでいた。


 書いたとき、手が震えたのだろうか。

 それとも、書き直しているうちにそうなったのだろうか。


 紙に染み込んだインクの跡を見つめていると、自分の中にある「私」と、ここにいる「私」が、少しだけ重なりかけては、またずれていく感覚がした。


「喧嘩した日のことも、書いてあるね」


 レオンさまが、ページをめくりながら言う。


「喧嘩、していたんですか」


「夫婦だからね。いつも仲良しだった、と言うと嘘になる」


 そうさらりと言ってから、ページの半分ほどを覆う文字を指でなぞる。


「この日の君は、かなり怒っていた」


「どんなことで、怒ったんでしょう」


「それは……」


 レオンさまは少しだけ考え込むように眉を寄せた。


「君が、俺が仕事を優先して約束を忘れたと感じたから、だったかな」


「約束」


「孤児院の子どもたちに会いに行く日だった」


 孤児院、という単語が、胸のどこかに引っかかる。


 泥だらけの庭。

 小さな手。

 乾いたパンの匂い。


 ぼやけた映像が、一瞬だけ頭をかすめる。


「俺がどうしても外せない会議に呼ばれて、戻れなくなってしまってね。君は子どもたちと先に出かけてしまった」


「それで、怒られたんですか」


「ああ。だいぶ、きつく」


 そう言いながら、彼は少しだけ嬉しそうでもあった。

 怒られたはずなのに、その記憶をどこかいとしそうに指先でなぞっている。


 ノートの欄外には、小さな字でこう書き足されていた。


 でも、そのあと走ってきて、息を切らしてごめんって言ってくれた。ずるい人。


 ずるい、という文字の横に、丸い小さな顔の落書きまである。

 目が三日月みたいに笑っていた。


 こんなふうに。

 相手をよく見て、怒ったり、笑ったりしながら、文字にしていった私が、ここにいた。


 今の私は、その人を知らない。

 彼と交わした約束も、喧嘩も、そのあと仲直りしたことも。


 だけど、ノートから立ち上ってくる温度は、どうしようもなく温かかった。


「初めて手をつないだ日のことも、書いてある」


 レオンさまが、別のページをぱらりとめくる。


「それは、恥ずかしいので今は読まなくていい」


「今の私も、恥ずかしいかもしれません」


「だろうね」


 彼は、そこはあっさり飛ばしてしまう。


「仕事が忙しすぎて倒れかけた俺を君が叱った日も、ある」


「……叱ったんですか、私」


「かなり容赦なく」


 レオンさまの唇の端が、ふっと上がる。


「『あなたが倒れたら、この家の人も孤児院の子も困るんですよ。そんな簡単な算数もできないんですか』と」


「そんなこと、言ったんですか」


「言っていた」


 数学は得意だったのだろうか、とどうでもいいことが頭をよぎる。


 ノートの紙からは、かすかにインクと紙の匂いがする。

 それに混じって、どこか甘い香りを感じた。


 手が震えた。

 それを見たレオンさまが、すぐに指を緩める。


「疲れてきたかな」


「……いえ、大丈夫です」


 目を逸らせないだけだ。

 この紙に残った「私の言葉」から。


「書いてあるのは、全部、私なんですよね」


「ああ。君だ」


 レオンさまは、迷いなく頷く。


「字の癖も、言い回しも、全部君のものだ」


 たしかに、そうなのだろう。


 丸い字のまわりには、ところどころインクをこぼした跡がある。

 ペン先が滑ったときについた、小さな傷も。


 私は、自分の指先を見た。

 細く伸びた指に、薄いインクの染みが残っているような気がして、そっとこすってみる。


 落ちるわけもないのに。


「今の私は……」


 声が自然にこぼれた。


「こんなふうに、人のことを観察して、からかって、笑って書いたりできるんでしょうか」


 レオンさまは、しばらく何も言わなかった。


 ノートの上に視線を落としたまま、指先で紙の端を静かに撫でる。


「できるよ」


 やがて、ゆっくりとそう言う。


「時間がかかるかもしれないけれど。君は元々、そういう人だ」


「そういう人」


「人のことをよく見て、勝手に背負い込んで、怒ったり笑ったりできる人だ」


 その言葉が、妙に胸に沁みた。


 今の私は、目の前の人のことも、自分自身のことも分からない。

 それでも、「そういう人だ」と言い切ってくれる誰かがいる。


 それだけで、ほんの少し、世界の輪郭がはっきりする気がした。


「この日記はね」


 レオンさまは、ノートを閉じずに、表紙を軽く叩く。


「君が自分で始めたことだ。目覚めるたびに一緒に読み返して……君が君自身と、俺とを思い出す手がかりにしてきた」


「目覚めるたびに」


「何度も」


 彼の声が、すこしだけ低くなる。


「何度も、同じ朝を」


 その先は、言葉にならなかった。

 代わりに、彼の喉が静かに上下するのが見える。


 ふと、ページの端に視線が行った。


 一箇所だけ、紙の色が違うところがある。


 そこだけ、何枚かまとめて、きれいに破り取られていた。

 端は滑らかで、雑にちぎれたようには見えない。


「ここは……」


 指先を伸ばしかけた瞬間、ぱたり、とノートが閉じられた。


 レオンさまの動きは、驚くほど速かった。


「今日は、このくらいにしておこう」


 少しだけ笑っている。

 でも、笑みの奥に、硬いものが混じっていた。


「体力も、まだ戻っていないだろうから」


「でも、そのページ……」


「大したことは書いていない」


 言葉は穏やかなのに、目が笑っていなかった。

 さっき、初めて挨拶を交わしたときと同じだった。


 これ以上聞いてはいけない、と直感が告げる。

 それでも、胸のどこかがざわついていた。


「……分かりました」


 私は、いったんそれ以上踏み込むのをやめる。


 代わりに、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 枕にあずけた頭を少しだけ持ち上げて、レオンさまのほうを向く。


「あの」


「うん」


「これから、その……また、いろいろ教えていただくことになると思うので」


 言葉を選びながら、自然と両手を胸の前で組んでいた。


「改めて、よろしくお願いします。旦那さま」


 我ながら、少しかしこまりすぎた呼び方だと思う。

 なにかの式典の挨拶みたいになってしまった。


 レオンさまは、目を瞬いた。


 それから、ゆっくりと目尻を下げる。


「その呼び方は、久しぶりだ」


「久しぶり」


「最近の君は、もっと気安く呼んでいたからね」


 少しだけ、寂しそうに笑う。


「名前にさまなんてつけずに。もっと、俺を困らせる呼び方をしていた」


「困らせる呼び方、ですか」


「それは、またいずれ思い出した時のお楽しみにしておこう」


 そう言って、彼はそっと私の手を握り直した。


 あたたかい。


 今の私は、この人のことを何も知らない。

 だからこそ、これから知っていくことが、少しだけ怖くて、少しだけ楽しみだ。


 日記の中の「私」と。

 ベッドの上にいる「私」と。

 レオンさまと呼んだこの人と。


 全部が、これから少しずつつながっていくのだろう。


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 どうして痛いのか、まだはっきりとは分からないまま、その痛みを抱きしめるように、私はうなずいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ