第1話 目覚めたら旦那さま
熱い、と思った。
肌ではなく、空気そのものが燃えているみたいに、肺の奥がじりじりと焼ける。
息を吸うたび、胸の中まで火が入り込んでくる感覚がして、思わず口を開いた。
助けて、と言いたかった。
誰かの名前を呼びたかった。
喉がうまく動かない。
声にならない。
炎の色だけが世界を塗りつぶす。
赤。
橙。
崩れ落ちる黒い天井。
ばらばらと砕けて飛んでくる梁の破片。
伸ばした私の手を、強くはたき落とす誰かの腕。
その人の唇が動いた。
何かを叫んでいる。
私の名前か、それとも──
耳の奥で、誰かの名が響く。
私は、そのひとつの音を掴もうとして、空気をかき混ぜた。
レ──
そこで、すべてが白く弾け飛んだ。
◇
まぶたを開ける、と頭の奥がずきりと痛んだ。
固いのか柔らかいのか判別できない枕に頭を預けたまま、私はしばらく、ぼんやりと天井を見上げていた。
白ではなかった。
淡く色の抜けた青と金。
天井いっぱいに、神さまらしき人と、翼を持つ竜が描かれている。
夜明け前の空みたいに、どこか寂しそうな色合いだった。
視線を少し動かすと、薄いレースの垂れた天蓋が揺れている。
指先を握りしめれば、しっとりしたリネンの感触が伝わってくる。
鼻をくすぐるのは、乾いた太陽の匂いのするシーツと、ほんの少しの薬草の香り。
遠くで、馬車の車輪が石畳を走る音がした。
それに重なるように、塔の鐘が低く長く鳴る。
どこかで聞いたことのある音だ、と思った。
でも、いつ、どこでなのかが、どうしても思い出せない。
ここは、と口の中で転がしてみる。
声にしようとすると、喉がひりついて、うまく息が出ていかなかった。
代わりに、視界の端に映る影が気になった。
ベッドのすぐ脇。
窓から差し込む朝の光を背に、椅子に腰かけている人影がある。
背もたれに体を預けたまま、うつむいていたその人は、私のかすかな息づかいに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見た。
夜の霧みたいな、少し冷たい色だった。
でも、その瞳の奥には、にわかには信じがたいほど強い安堵が走っている。
眠りかけていたらしい。
目の下には薄く影があり、数日分だろう無精ひげがうっすらとあった。
端正な顔立ちなのに、整えていない疲れがにじんでいる。
知らない人、だと思った。
知らないはずなのに、胸の奥がなぜかざわめく。
ぼろぼろの布をぎゅっと絞ったときみたいに、きしきしと音を立てて、何かが締め付けられる感覚があった。
その人は、一拍分だけ息を止めた顔をした。
すぐに、ゆっくり笑う。
「……よかった」
低い声が、たしかに私に向かって落ちてきた。
「フィオナ。聞こえるかい」
フィオナ、と呼ばれた。
それが自分の名前なのだと、頭のどこかが頷く。
けれど、胸の中で、それに形が追いつかない。
自分の名前でさえ、どこか他人のように聞こえた。
彼は椅子から立ち上がり、ベッドのそばに身を寄せる。
大きな手が、ためらいがちに伸びてきて、私の手を包んだ。
あたたかい。
見た目よりもずっと熱を持った手のひらだった。
驚くくらい優しい力で、そっと握りこまれる。
知らない人に手を握られている。
本当なら怖がるべきなのだろう。
なのに私は、その手を振りほどこうとしなかった。
むしろ、指先に少しだけ力を込めてしまう。
離したくない、と思った。
自分でも驚くくらい自然に、その感情が湧き上がる。
おかしい。
どうして。
喉がからからに乾いていたけれど、無理やり声を通す。
「……あ、の」
一文字出すだけで、胸がきゅっと縮んだ。
それでも、聞かなければならない。
「ここは……どこ、ですか」
彼の瞳がわずかに揺れた。
「アルスター公爵家の、本邸だよ」
静かな声だった。
言葉の端に滲む疲れさえも、丁寧に押し隠そうとしているような。
「君は、フィオナ・アルスター。この家の公爵夫人で……」
そこで、ほんの少しだけ言いよどむ。
「……俺の妻だ」
妻。
その言葉が、脳の中に落ちてきて、しばらく意味をなさなかった。
私が、誰かの妻?
べつの世界の話を聞いているみたいだった。
自分の体と、言葉がまったくつながらない。
「きのうまでは、ずっと眠っていた」
彼はそう続ける。
「きのうまでは」という言い方に、どこか引っかかるものがあった。
「火事で、頭を強く打ったんだ。王都の西区全体を飲み込んだ大きな火事だった。……覚えていないだろうけれど」
火事、という音を聞いた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
赤と橙。
崩れ落ちる天井。
伸ばした手首を叩く誰かの指。
さっきまで夢の中にいた場面が、ぼんやりと浮かび上がる。
私は、ぎゅっと目を閉じた。
痛みが頭の中を走る。
「無理に思い出さなくていい」
彼が、私の手からいったん指を離した。
そして今度は、額にそっと触れる。
包帯ごしに伝わる指先は、さっきよりも冷たく感じた。
それが彼自身の体温なのか、私の熱のせいなのか、分からなかった。
「ここから先のことは、ゆっくりでいい」
そのとき。
扉のほうから、控えめなノックの音がした。
「失礼します、公爵さま」
落ち着いた男の声といっしょに、白衣をまとった年配の男性が入ってくる。
細い金縁の眼鏡の奥で、淡い青の瞳が私の様子を確かめるように動いた。
「目を覚まされたのですね。……お加減はいかがですか、奥さま」
奥さま、と呼ばれた。
その響きに、さきほどとは違う種類の違和感が走る。
「喉が少し……」
そう答えると、医師らしき男性は頷き、枕元の水差しからグラスに水を注いでくれた。
レオンと呼ばれた人がそれを受け取り、私の背をそっと支える。
グラスの縁が唇に触れた。
冷たい水が喉を滑り落ちていく。
それだけで、少し呼吸がしやすくなる。
「大火での外傷は、かなり落ち着いてきました」
医師は、包帯の上から慎重に指先で触れながら言った。
「痛みや違和感は、ありますか」
「……少し、重たい感じがします」
正直に答えると、医師は「それは当然ですね」と小さく笑った。
「炎と瓦礫の中から救い出されたのですから。頭部への衝撃、さらに強い魔力の乱れが重なりました。……記憶を司る部分が、不安定になっているのです」
記憶。
その単語だけは、やけにはっきりと耳に残った。
「以前もご説明しましたが」
医師は、そこで一度レオンのほうを見た。
「奥さまの症状は、一般的な記憶喪失とは少し異なります。過去の出来事が、まったく思い出せないわけではない。ただ、とくに最近の数年分の記憶が、睡眠のたびに霧の中へと消えてしまう」
霧の中。
「眠ると、その一日分の記憶が、朝にはほとんど残っていない。……そういう状態です」
彼の言葉は、とても穏やかだった。
おそらく、怖がらせないようにわざとそうしているのだろう。
でも、その内容は十分に怖かった。
「そんな……」
思わず、私は彼の言葉を繰り返していた。
一日分の記憶が、朝には消える。
今日感じたことも、見た顔も、交わした言葉も。
何もかも、眠ったらなかったことになってしまう。
そんなことが、本当に。
「詳しい話は、また今度にしよう」
レオンが、そこでふっと口を挟んだ。
医師の説明を遮るその声音は、穏やかで、けれどほんの少しだけ硬かった。
「今は、起き上がったばかりだ。これ以上、不安にさせたくない」
「ですが、公爵さま」
「分かっている。……俺も」
一瞬、言葉が途切れる。
彼は小さく息をつき、私のほうを見た。
「俺も、ちゃんと向き合わなくてはならないのは分かっている。ただ、今は休ませてやりたいんだ」
医師は、しばらく考えるように私とレオンを見比べ、それから小さくうなずいた。
「承知しました。本日のところは、ここまでにしておきましょう」
そう言うと、白衣のポケットから何かを取り出す。
顎で、枕元を示した。
「では、公爵さま。今朝も、あれを」
あれ。
視線の先を追うと、枕元の小さな台の上に、革表紙のノートが一冊置かれているのが見えた。
赤茶色の革は、ところどころ擦り切れている。
何度も開かれ、何度も閉じられてきたような、手になじんだ色だった。
レオンがそれを手に取る。
大きな指が、表紙の端をそっとなぞる。
「フィオナ」
名前を呼びながら、彼はノートを私の目の前に開いた。
「これは、君が自分で、自分のために書いた日記だ」
「……私が?」
「ああ」
ページから、インクの匂いが立ち上る。
紙は少しだけ黄色みを帯びていて、ところどころに滲んだ文字の跡がある。
開かれた一ページ目の上部には、丸みのある文字が並んでいた。
明日の私へ。
自分の字なのだろう。
そう思うのに、まったく見覚えがない。
「目を覚ますたびに、これを一緒に読んできた」
レオンは、ページを指先で押さえながら言った。
「君が昨日までに見たもの、感じたこと、俺と交わした会話。全部とはいかないけれど、この中には君が自分の手で残した記憶がある」
明日の私へ、という一行の下にも、びっしりと文字が並んでいる。
ただ、今はそこまで視線を落とすのが、少し怖かった。
ちらり、とだけ。
覗き込んだ一文が、目に引っかかる。
この人は、私の夫です。信じていい人です。
そこまで読んだところで、私は思わず瞬きをした。
私が書いたのだとしたら。
私が、誰かのことをこんなふうに書いたのだとしたら。
その「私」と、ベッドの上に寝ているこの「私」は、本当に同じ人間なのだろうか。
胸の中に、少しだけ憧れのようなものが生まれる。
いつかの私は、誰かを信じて、誰かに信じられていたのだろうか。
医師は、「日記の読み聞かせ」が始まるのを確認すると、「失礼します」とだけ言って部屋を出ていった。
扉が静かに閉じられ、部屋には、私とレオンだけが残る。
レース越しの光が、彼の横顔を照らしていた。
灰色の瞳の下には、やはり薄い影がある。
その影が、私のせいだということくらいは、なんとなく分かった。
「フィオナ」
ノートを閉じ、彼は椅子をベッドのすぐそばまで引き寄せる。
座った位置が、私の視線とほとんど同じ高さになるくらい近かった。
逃げ場がない、と思う。
でも、不思議と嫌ではない。
「これから話すことを、君は明日には、また忘れてしまうかもしれない」
静かな声が、ゆっくりと空気を震わせた。
「何度も何度も、同じことを聞かされているのかもしれない。君にとっては、全部が初めてなのに」
そう言って、彼は小さく笑う。
自嘲にも似た笑みだった。
「それでも、俺は何度でも話すよ」
彼の指が、再び私の額に触れる。
包帯の端をなぞるその手は、ほんのわずかに震えていた。
「何度でも、はじめましてから始めればいい。何度でも君に名乗る」
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
その痛みは、火事の熱とはまったく違う。
息が苦しくなるのに、涙が出そうになるのに、不思議と嫌ではない痛みだった。
私は、自分の喉が勝手に動くのを感じる。
「……私、本当に、全部、忘れてしまうんですか」
情けないくらい震えた声だった。
「あなたのことも。ここでの生活も。大事だったかもしれないものも。全部」
レオンは、少しだけ目を伏せた。
長いまつげの影が、頬に落ちる。
「全部が、消えるわけじゃない」
選ぶ言葉を慎重に選びながら、彼はゆっくりと首を振った。
「遠い昔のことや、孤児院での記憶は、ところどころ残っている。……今日これからのことだって、まったく消えてしまうわけじゃない。霧の向こうに、かすかに形を残してくれる」
霧の向こう。
「ただ、はっきりした形では届かない。名前も顔もぼやけてしまう。目の前にいるのに、『初めて会う人』だと思ってしまう」
彼は、その「初めて」という言葉のところで、少しだけ唇を噛んだ。
「それでも」
私の手を、もう一度両手で包み込む。
「それでも、俺は毎朝こうして君のそばにいて、君が目を覚ますのを待つ」
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
怖いくらい真剣な色だった。
「君が俺を知らなくても。俺は君を知っているから」
その言葉が、胸の中でじんと響く。
知らない人なのに。
私は、なぜだか、その言葉を信じてもいいような気がした。
信じたいのかもしれない。
そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。
「だから、改めて」
レオンは、ほんの少しだけ姿勢を正す。
まるで儀式みたいに、ゆっくりと息を吸ってから、口を開いた。
「おはよう、フィオナ」
その呼びかけは、やさしくて、少しだけ震えていた。
「俺は君の夫の、レオン・アルスターだ」
口元だけで笑う。
「これで……何度目の挨拶だったかな」
冗談めかした一言なのに、目の奥は笑っていなかった。
溢れそうになった涙を、どうにかこらえる。
喉がきゅっと詰まって、返事が遅れた。
私は、ぎこちなく息を吸う。
胸に手を当ててみると、そこには、初めて聞く名前に対するはずの鼓動が、信じられないくらい速く打ち鳴らされていた。
理由は分からない。
分からないけれど。
「はじめまして」
かすれた声で、どうにかそう言う。
「……レオンさま」
言った瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
それが痛みなのか、懐かしさなのか、それとも別の感情なのか。
まだ、うまく言葉にはできない。
ただひとつ分かったのは、その挨拶が、きっと「本当に初めて」ではないのだろうということだけだった。
レオンは、何かを飲み込むように喉を動かし、それから小さく頷いた。
「はじめまして、フィオナ」
そう言って、また、私の手を優しく握りしめる。
私はそのぬくもりを、忘れないようにと願いながら、そっと目を閉じた。




