第6問 サヨナラだけが人生か
「檸檬の樹を植えると、世界が変わるのよ」
体育の後、藤村は教室に居た。
酷く喉が渇いていた。
炎天下のグラウンドは砂漠だった。
水筒に有った麦茶はもう無い。
自販機に走る時間も無い。
こんな時、藤村は思い知る。
自然にとって藤村は、死すべきものに過ぎないと。
学校という社会さえ、そんな自然から成り立っている。
さて、或る世界で、étrangerが太陽のせいで人を殺した。
étrangerとは、「異邦人」、「見知らぬ人」、「何処からか来て、その場に馴染めず、疎外感を覚えている者」を指す。
太陽がétrangerに人を殺させた。
その太陽とは何物だったのか。
分からない。
分からないことは恐ろしい。
恐ろしいことは恥ずかしい。
だからétrangerは人間失格になるのかもしれない。
人間など、神の前では平等に不全だろうに。
人間が楽園を失ったのは、知恵の実を得たから。
知恵とは無知の知。
無知を知ることは死を知ること。
人間にとって死ぬことは、己が有限であることを知ること。
人間は、己の無知、不足、おかしさ、恐ろしさ、恥ずかしさ、罪の意識を、知ってしまった。
だからこそ、性を始め、差異、分からないモノ、知らないコトを、隠し欺いた。
人の目から、己の目から。
斯くして、人間は楽園を見失った。
熱に茹だる頭で、そんなことを思っていた時だった。
「藤村くん?」
風鈴が鳴るように聲が響いた。
風が立った。
空気が変わった。
椅子に座って俯いていた藤村が顔を上げると、空野が藤村を見ていた。小夜啼鳥の円らな目で。
「何かあったの?」
「…さあな」
「……。檸檬水があるの。一杯いかが?」
檸檬水。
藤村は生唾を飲み込んだ。
「良いのか」
「ええ」
藤村は水筒のコップを机上に出した。
空野は一旦自席に戻ると、檸檬水の入ったクリアボトルを持って来た。
「お注ぎしましょうか」
「飲会かよ」
「あら…。おかしかった?」
「面白いよ。頂こうか」
空野は心得たように微笑むと、優婉な所作でコップに檸檬水を注いだ。
藤村はその盃を受けた。
口いっぱいに、瑞々しい檸檬の爽やかな酸味が広がる。檸檬の酸味だけではない。蜂蜜のとろりとした甘味も。藤村をふわっと通り抜けてしまう。ほろ苦い後味を残して。
「ごちそうさま」
「よろしゅうおあがり」
そこで、チャイムの「恋はみずいろ」のメロディーが流れ出した。
放課後、
「檸檬水の借りを返す」
と言う藤村に、
「では、お話をしてくださいな」
と空野は願った。
「は?」
藤村は虚を衝かれた。
二人は白い石畳の道を歩いていた。
その道の両隣には赤煉瓦造の校舎が建ち並ぶ。
木漏れ日がさやさやと揺れる。
桜若葉の新緑が光に透けて見える。
空が蒼い。
「…いけなかった?」
藤村の長い沈黙を受けて、空野の顔が翳る。
「いや…。だが、どんな話をすれば良いものか……」
「心のままに」
空野が悠然と微笑む。
「…あの檸檬水は、どうやって作った?」
空野は難しい顔をした。
「…私の料理は祖母直伝で」
「秘密か」
「いいえ。…ただ、言葉では伝えられないの。祖母曰く、『料理は舌で覚えるもの』『作る。自分の舌で味を見る。味を調える。出来る』と。だから、あの檸檬水も、味見をして作りました、としか言えない。でも、藤村くんが知りたいのは、そういう事ではないでしょう」
「すまんな。空野が言いにくい事を訊いてしまった」
「いえ、此方こそ、ごめんなさい」
「…」
「…」
「檸檬水は、好きか」
「ええ。家の庭に檸檬の樹があるの。私が幼い頃に植えられた。そう…」
「檸檬の樹を植えると、世界が変わるのよ」
「…これが宗教勧誘や霊感商法なら、上出来だな」
「…あら? そういうつもりではなかったけれど……そういう話になるのかしら? 止めましょうか」
「気にするな。続けて」
「…。檸檬の樹を植えたら、庭で黒揚羽を見ることが増えたの。檸檬を食べて増えたのね。次は、蜘蛛の巣が増えた。きっと黒揚羽を捕るためね。その次は、蛙。蛙の次は、蛇。蛇の次は、鷹」
「食物連鎖で生態系が変化したのか」
「そう。始まりは、たった一本の檸檬の樹。それが庭を変えたの。私の世界の見方も。すてき…」
空野の目はきらきらと輝いていた。
奇麗だな、と藤村は感じた。
「…あ。もう…! 藤村くんの聞き上手。また私ばかり話してしまったわ…。藤村くん、藤村くんのお話をして?」
「藤村、おい、藤村! 起きろって! もう授業始まるぞ!」
のっそりと顔を上げると、前の席の土方が、藤村を起こそうとしていた。
「ああ…」
此処に空野は居ない。
檸檬の樹も無い。
世界は変わった。
「ありがとう」
藤村は土方に喪失を悟られぬよう微笑んだ。




