第29問 幽囚にとって自由とは何か
藤村は鬱林を彷徨い行き暮れていた。
鈴々と鳴く虫の音に耳を澄ませて佇んでいると、密やかな気配が忍び寄る。
「ワン!」
と藤村は犬に吠え掛かられた。そして、
「…藤村くん?」
と不思議そうに名を呼ばれて、ドキリとした。
その霊妙な声遣いで悟った。
「…空野」
宵闇から現れた花娘は、
「こんばんは」
と仄かに微笑んだ。
星月夜の清かな古道を、藤村を拾った空野は愛犬を伴い歩んだ。
今宵の空野の犬とのお散歩ファッションは、狩猟スタイルだった。
空野は鳥打帽を被り、ローポニーテールを編み下ろしていた。
トップスは、スタンドフリルカラーでパフスリーブのショートブラウス。
ボトムスは、シガレットジーンズにギリースニーカー。
襷に掛けたクロスボディバッグには、熊鈴が吊るされていた。
グローブを嵌めた手に、リードを携えていた。
時折、空野は犬にコマンドを出した。
コマンドは独逸語だった。
空野と犬の世界は、独逸語で形成されているようだった。
空野にとって犬の散歩は、カント哲学的な義務で自由のようだった。
空野邸の門を潜り、庭を抜け、玄関に入ると、土間があった。
土間には犬のサークルがあり、サークルの中にハウスがあった。
藤村は空野に待つよう請われた。
藤村は式台に腰掛け、熟と犬を眺めた。
犬は藤村に興味津々そうだった。
その円らな目は空野に似ていた。
空野は、髪をきっちりと纏め直し、レトロモダンな着物に着替えてから、戻って来た。
袷は臙脂の色無地で、月白の帯を綾取る暗緑の籠目文様を、鮮やかに見せた。
そして、藤村は座敷に通された。
襖が開くと、線香の匂いがした。
奥に見えた床の間には、掛軸や生花が設えられていた。
床脇の違い棚には、セピア色の家族写真。
床脇の隣には、仏壇が鎮座していた。
この座敷は、客間でもあり、仏間でもあるらしい。
此処で、親族が集い、法事が営まれるのだろう。
敷畳の上には、座卓と座布団が配されていた。
藤村は席に着いた。
そして、藤村は夕餉を振る舞われた。
夕餉は一汁三菜だった。
主食は、新米の炊き立てご飯。
汁物は、松茸の土瓶蒸し。
主菜は、秋刀魚の塩焼き。大根おろしと酢橘を添えて。
副菜は、南瓜の煮物。
副々菜は、甘柿。
藤村は、忝いと思った。
本当は、氷肌玉骨の空野こそ、この夕餉を食べるべきだったろうに。
それから、秋摘み茶と栗羊羹が供された。
夜咄の冬にはまだ早いが、場は整っていた。
藤村と空野は、和敬清寂の空気に水を差さないように、話すべきでない事は話さなかった。
たとえば、人を害う犬が殺されやすい事。
共に生きる為には躾が要る事。
家庭教育には、教科書も免許もないから、試行錯誤する事。
ただ、無為自然に、お茶の温かさ、お菓子の甘さが、身に沁みる儘にした。
そうすれば、誠だけを受け取れる気がした。
藤村は目を覚ました。
もしも空野が籠の鳥だったとしたら、生きる為に翔ぶ仕事はなかったかもしれない。
たとえ、鳥は翔ぶのが自然だったとしても。
ところで、梃子の原理を発見したアルキメデスは「δῶς μοι πᾶ στῶ καὶ τὰν γᾶν κινάσω」(我に支点を与えよ。然れば地球をも動かさん)と宣ったそうだ。
しかし、藤村は、たとえ支点を与えられても、何をどのように動かせば良いか分からない。
だからこそ、藤村の義務は勉学らしかった。




