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第1話 星屑の魔女

 私の足音だけが、乾いた大地に響いている。


 ステラリス大陸の荒野は、かつて豊穣の象徴だった翠の平原の面影すらない。灰色の土が風に舞い、枯れ果てた樹木の骸が墓標のように突き立つばかり。空を見上げれば、昼だというのに星座の欠片がちらついて見える。星崩れから百年—世界はまだ、その傷を癒やせずにいる。


一歩、また一歩と、ただ足を前に出す。


 歩き続けなければならなかった。もしここで立ち止まってしまえば、乾いた大地に根が生えたように、二度と動けなくなってしまいそうだったから。そして、あの日の記憶という名の亡霊に、完全に追いつかれてしまうからだ。


 風が吹く。


 その熱を帯びた感触に、ぞくりと背筋が震えた。違う。これはただの風じゃない。故郷のセレスタ村を焼き尽くした、あの炎が孕んだ熱の名残だ。耳元で鳴る風の音が、遠い日の悲鳴のように聞こえて、私は慌てて両耳を塞いだ。


 ――やめて。


 脳裏に焼き付いて離れない。救おうとしたはずの男の子の手が、私の目の前で光の塵に変わっていく、あの瞬間。鼻の奥に、肉が焼ける甘ったるい匂いが蘇り、胃の底から酸っぱいものがこみ上げてくる。


「……っ、う…」


 ごくりと唾を飲んで、必死に吐き気を飲み下す。駄目だ。考えちゃ駄目だ。前だけを見て、進むんだ。


 だが、そんな意志とは裏腹に、足がもつれ、私はみっともなく膝から崩れ落ちた。ざらり、と手のひらに、乾いた土の感触が広がる。


 見下ろした灰色の砂が、燃え尽きた故郷の、守れなかった人々の骨のようで、息が詰まった。


 もう、疲れたな……。


 何もかも捨てて、このままここで眠ってしまえたら、どれだけ楽だろうか。


 そんな弱音が心を支配しかけた、その時。風が、私の頬に落ちた一筋の涙を、そっと拭うように撫でていった。


 先ほどまでの熱風ではない。どこか懐かしい、祖母の手のひらの温もりを思い出させる、穏やかな風だった。


 『大丈夫だよ、ルナリス。星はね、一番暗い夜にこそ、一番強く輝くんだから』


 そうだ。私は、まだ終われない。失ったものばかりを数えて、立ち止まるわけにはいかない。この旅は、罰じゃない。償いのための、旅なんだ。


「……二度と」



 砂を握りしめた拳に、爪が食い込むほど力を込める。


「大切なものを、失わない」


 唇から絞り出した誓いは、もはや乾いた風にかき消されたりはしなかった。


 それは、この身を苛む呪いに、自ら立ち向かうための宣戦布告。私の胸の奥で、小さな、しかし決して消えない灯火となって、これからの道を照らし始めた。


 私の名前はルナリス。人間としては珍しい銀髪と、夜空を映したような紫紺の瞳を持つ。星織りの血を継ぐ者の証だと、祖母は言っていた。けれど今となっては、その血は私を苛む呪いでしかない。


 腰に提げた革袋の中身は、既に心許ない。干し肉が三切れと、水筒に残った僅かな水。次の街まではまだ三日はかかるだろう。空腹が胃を締め付けるが、私は足を緩めない。


 夕暮れが近づく頃、遠方に古い石造りの建造物が見えてきた。星崩れ以前の文明が残した遺跡だろうか。辺りに人影はない。今夜の宿として使えそうだ。


 遺跡に近づくにつれ、奇妙な胸の高鳴りを覚える。星織りのペンダント—祖母の形見が、微かに温かさを帯びている。まさか、この廃墟に星の欠片でもあるというのか。


 遺跡の入り口は、蔦が絡まり半ば塞がれていた。私は慎重に蔦をかき分け、中へ足を踏み入れる。


「うわ」


 思わず声を上げてしまった。内部は、私の予想を遥かに超える美しさに満ちていた。壁面には、精緻な星座の浮き彫りが施され、床には薄っすらと光る鉱石が埋め込まれている。星崩れ以前の星織りの技術が、今なお息づいているのだ。


 奥へ進むほど、ペンダントの温かさが増していく。そして——


「あった」


 石の祭壇に置かれた、青白く輝く植物。ルミナスハーブと呼ばれる、星の力を宿した薬草だった。この一株があれば、三日は空腹を凌げる。何より、星織りの力を使った際の消耗を和らげてくれる。


 私は慎重にハーブを摘み取った。その瞬間、祭壇の奥から微かな光が漏れているのに気付く。


「まだ奥があるの?」


 好奇心に駆られ、隠された通路を進む。曲がりくねった石の階段を下りていくと、円形の広間に辿り着いた。そこで私は、息を呑んだ。


 広間の中央に、一人の少年が倒れている。


 いや、正確には少年のような姿をした何かだった。肌は陶器のように白く、髪は氷のような銀色。そして全身に、機械的な意匠が刻まれている。機械生命体—星の残骸から生まれるという、幻の存在だ。


 少年の傍らには、手の平ほどの小さな生き物がちょこんと座っている。まん丸な体に大きな目、ふわふわの毛玉のような愛らしい姿。幻獣の類だろうか。


 私が近づくと、毛玉のような生き物が身構える仕草を見せた。


「きゅーっ」


 威嚇するような鳴き声だが、あまりにも可愛らしくて微笑ましい。


「大丈夫よ、害を加えるつもりはないわ」


 私はゆっくりと手を差し伸べる。生き物はしばらく警戒していたが、やがて恐る恐る私の指先に触れた。


「暖かいのね。あなたは、この子を守っているの?」


 生き物は「きゅう」と短く鳴いて、倒れた少年を見つめる。その瞳に宿る心配そうな色が、私の胸を締め付けた。


 少年に触れてみる。体は冷たいが、まだ完全に機能停止している訳ではなさそうだ。胸の中央部に、星型の装置のようなものが埋め込まれている。おそらく、これが彼の動力源だろう。星の力が尽きかけているのかもしれない。


「星織りで、何とかできるかしら」


 私はペンダントを握り締め、力を集中させた。星々の歌声が頭の中に響き、银髪が風もないのに揺らめく。手の平から淡い光が溢れ、少年の胸部装置へと注がれていく。


 星織りを使う度に、あの日の記憶が蘇る。でも、今はそれどころではない。この子を救いたい—ただその想いが、私を支えていた。


「お願い、目を覚まして」


 光が装置に吸い込まれていく。私の力もそれと共に奪われ、膝が震え始める。でも、止める訳にはいかない。


 やがて、装置が微かに脈動を始めた。


 少年の瞼がゆっくりと開く。現れた瞳は、夜空のような深い青だった。


「姉ちゃんは…誰?」


 掠れた声で、少年が問いかける。私は安堵のため息をつきながら答えた。


「私はルナリス。あなたは?」


 少年は身体を起こし、困惑したように自分の手を見つめる。


「僕は…僕の名前は…」


 記憶を探るように眉をひそめた後、彼は呟いた。


「シオン。僕の名前は、シオンだ。でも、それ以外は…何も思い出せない」


「記憶を失ってるのね」


 私の言葉に、シオンは静かに頷く。表情に乏しいが、どこか寂しげな印象を受ける。


 毛玉のような生き物が、嬉しそうにシオンの膝の上に飛び乗った。


「きゅうきゅう!」


「この子は君の仲間?」


「分からない。でも…懐かしい感じがする」


 シオンが生き物を撫でると、それはとても気持ち良さそうに目を細める。


「この子の名前は?」


「モカ」


 シオンが生き物の名前を口にした瞬間、私は驚いた。


「えっ、今の声…」


「モカだよー!よろしくね、お姉ちゃん!」


 毛玉—モカが、人の言葉を話していた。幻獣の中には知性の高い種族もいると聞いていたが、実際に目にするのは初めてだ。


「君も幻獣だったのね。それで、シオンのことを守ってたのか」


「そーだよ!シオンが眠っちゃってから、ずーっと待ってたんだ。お姉ちゃんがシオンを起こしてくれて、モカは嬉しいよ!」


 モカの無邪気な言葉に、私も微笑みを浮かべる。久しぶりに、心が温かくなった。


 シオンは立ち上がり、広間を見渡した。


「ここは一体…」


「古い遺跡よ。私も偶然見つけたの。あなたたちが何故ここにいたのかは分からないけれど…」


 私は言いかけて止まる。彼らをここに置いて立ち去るべきなのだろうか。でも、記憶のないシオンと小さなモカを一人と一匹だけで放置するのは、あまりにも酷だった。


 その時、シオンの視線が私のペンダントに注がれる。


「それ…」


 彼の瞳に、一瞬だけ何かが映った気がした。


「どうしたの?」


「ルナリスのペンダント…見たことがある気がする」


 シオンがゆっくりと手を伸ばす。私は反射的に身を引こうとしたが、なぜか足が動かない。


 彼の指先がペンダントに触れた瞬間—


「あああああっ!」


 シオンが頭を抱えて叫んだ。瞳に無数の光が明滅し、まるでノイズが走っているかのようだ。


「シオン!」


 私は慌てて彼を支える。モカも心配そうに「きゅうきゅう」と鳴いている。


 やがてシオンの痙攣が収まり、彼は虚ろな目で呟いた。


「星…崩れ…歌が…聞こえる…」


 私の背筋に冷たいものが走る。星崩れ—百年前に起きた大災厄の名前を、記憶を失ったはずのシオンが知っている。


「僕の…僕のせいで…みんな…」


「シオン?何を思い出したの?」


 私の問いかけに、シオンはゆっくりと顔を上げる。その瞳には、深い悲しみが宿っていた。


「分からない…でも、とても悲しくて、苦しい記憶…僕が何か、取り返しのつかないことをしてしまったような…」


 彼の言葉は、私の心にも突き刺さる。星崩れの夜、私も大切なものを失った。そして、自分の力不足を悔やみ続けている。


「大丈夫」


 私はシオンの手を握る。


「記憶は無理に思い出さなくていい。今はただ、前を向いて歩けばいいの」


 シオンは私を見つめ返す。その瞳に、僅かな光が戻ったように見えた。


「ルナリスと一緒に行ってもいい?僕一人では、きっと何もできない」


「私だって、完璧じゃない。でも…」


 私は祖母の教えを思い出す。『星織りの力は、独りでは真価を発揮できない。信じ合える仲間がいてこそ、星々は美しく輝くのです』


「一緒に旅をしましょう。私も、一人は寂しかったから」


 シオンの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「ありがとう、姉ちゃん」


「やったー!みんなで旅するんだね!」


 モカが嬉しそうに飛び跳ねる。その無邪気な仕草に、遺跡の重苦しい雰囲気も和らいでいく。


 私たちは遺跡を後にした。外はすっかり夜になっており、満天の星空が広がっている。星崩れの影響で星座は歪んでいるが、それでも星々は美しく瞬いていた。


 焚き火を囲み、私は摘んできたルミナスハーブでスープを作る。シオンは機械生命体だが、星のエネルギーを摂取する必要があるらしい。モカは木の実を美味しそうに頬張っている。


「ね、ルナリス」


 シオンが口を開く。


「ルナリスはどこへ向かってるの?」


「決まってないわ。ただ、荒廃した土地を癒やせる場所を探してる。星織りの力で、少しでも世界を救えたらいいなと思ってね」


「世界を救う…」


 シオンが呟く。その声には、何とも言えない複雑な響きがあった。


「でも私の力はまだ未熟で、人を救うどころか傷つけてしまうことの方が多い。だからせめて、土地の再生から始めようと思ってるの」


 私は正直に胸の内を明かす。シオンは黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「僕も、何かできることがあるかもしれない。記憶はないけれど、星のことを少し知ってる気がする」


「それは心強いわ。二人なら、きっと何かできるはず!」


 私がそう言うと、シオンは微かに頷いた。表情の変化に乏しい彼だが、少しずつ心を開いてくれているように思える。


 夜が更けるにつれ、私は眠気に襲われ始めた。星織りを使った疲れが出てきたのだろう。


「先に休ませてもらうわね」


「僕が見張りをしてる。機械生命体だから、睡眠は必要ないんだ」


「ありがとう」


 私は毛布にくるまり、横になる。モカも私の傍らで丸くなって眠り始めた。


 うとうとしかけた時、シオンの小さな呟き声が聞こえた。


「僕は…一体何者なんだろう」


 その声には、深い孤独感が滲んでいた。私は目を開けかけたが、今は何も言えない。彼の記憶が戻った時、私たちの関係はどうなるのだろうか。


 不安な気持ちを抱えながらも、私は深い眠りに落ちていった。


 ◇


 翌朝、私は鳥の鳴き声で目を覚ました。シオンは焚き火の番をしており、モカは朝露に濡れた草花の間を駆け回っている。


「おはよう、ルナリス」


「おはよう。よく眠れた?…って、あなたは眠ってないのね」


「でも退屈はしなかった。星を見てるだけで、何だか懐かしい気分になった」


 シオンの言葉に、私は何かを感じ取る。彼と星々の間には、特別な繋がりがあるのかもしれない。


 朝食を済ませ、私たちは旅を再開した。シオンは寡黙だが、歩く速度を私に合わせてくれる優しさがある。モカは時折私たちの前を走ったり後ろに回ったりと、忙しく動き回っている。


 昼頃、前方に人影が見えた。商人の隊商のようだ。久しぶりに他の人間と出会うことに、私は少し緊張する。


「止まれ!」


 隊商の護衛と思われる男が、剣を抜いて警告する。彼らの顔には警戒心が露わに表れていた。


「私たちは旅の者です。争うつもりはありません」


 私は両手を上げて示す。


「機械生命体を連れてるじゃないか。お前ら、評議会の回し者か?」


 護衛の言葉に、私は困惑する。評議会—星の力を管理する組織のことだろうか。


「違います。私たちはただ—」


「嘘をつくな!機械生命体なんて、評議会の犬しかいないはずだ!」


 男の剣先が、シオンに向けられる。


「やめて!」


 私はシオンを庇うように前に出る。


「彼は記憶を失ってるんです。評議会のことなんて何も知らない!」


「ふざけるな!あいつらのせいで、俺の村は焼かれたんだ!」


 護衛の怒号と共に、剣が振り下ろされる。私は咄嗟に星織りの盾を展開した。


「ルナリス!」


 シオンが私の名を呼ぶ。その瞬間、彼の胸の装置が光り、周囲に強力な威圧感が漂う。


 護衛の男は、その威圧に怯んで後退した。


「やはり…貴様、只者じゃないな」


「お願いです、誤解しないでください」


 私は必死に説得を試みる。


「彼は確かに機械生命体ですが、誰かの命令で動いているわけではありません。私と同じように、ただ旅をしてるだけなんです」


 商隊の隊長らしき老人が、護衛を制する。


「待て、ガロス。この娘の目に嘘はない」


 老人は私たちに近づき、慎重に観察する。


「お嬢さん、あんたは星織りの使い手だね。その髪と目の色、間違いない」


「はい。でも、まだ未熟で……」


「謙遜することはない。星織りの継承者に出会えるとは、幸運だ」


 老人の言葉に、隊商の面々がざわめく。


「隊長、本当に信用するんですか?」


「星織りの者が、評議会に味方するはずがない。彼らこそ、星の力を封じようとしている連中だからな」


 老人の説明で、私は状況を理解し始める。星守りの評議会は、星崩れの再発を防ぐため、星織りの力を厳しく管理しているのだ。そのため、民衆からは弾圧者として恨まれている。


「機械生命体の少年についても説明してもらおう」


 私はシオンの事情を簡潔に話した。記憶を失っていること、遺跡で眠っていたこと、評議会とは無関係であることを。


 老人はしばらく考えた後、頷いた。


「分かった。あんたたちを信じよう。だが、機械生命体への警戒は強い。特に、評議会の支配地域では気をつけることだ」


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げる。


「ところで、あんたたちはどこへ向かうつもりだ?」


「まだ決めてませんが、荒廃した土地を再生できる場所を探しています」


「それなら、ヴェルデの谷はどうだ?」


 老人が地図を取り出し、指差す。


「ここから東に三日の場所にある。昔は豊かな農村地帯だったが、星崩れの影響で荒れ果てた。住民も数えるほどしかいない。もし本当に土地を再生する気があるなら、彼らは大歓迎するだろう」


 私とシオンは顔を見合わせる。目的地が決まるのは有り難い。


「詳しい道のりを教えていただけますか?」


「もちろんだ」


 老人は親切に道順を教えてくれた。そして別れ際に、保存食料と水を分けてくれる。


「星織りの継承者よ、どうか希望を失わないでくれ。世界はまだ、あんたたちを必要としている」


 私たちは商隊に見送られ、再び歩き始めた。


「あの人たちは優しかったね」


 モカが呟く。


「でも、機械生命体への偏見は強いのね」


 私がシオンを気遣って言うと、彼は静かに答えた。


「仕方ないよ。僕自身、自分が何者なのか分からないんだから」


「そんなことない。あなたは私の大切な仲間よ」


 私の言葉に、シオンは少し驚いたような表情を見せる。


「仲間…」


「そうよ。種族なんて関係ない」


 私は歩きながら続ける。


「私だって、星織りの血を引いてるせいで煙たがられることが多い。でも、そんな私を受け入れてくれる人もいる。だから大丈夫」


 シオンは何かを考えるように黙り込んだが、やがて小さく頷いた。


「ありがとう、ルナリス」


 午後になると、風景が少しずつ変化し始めた。荒涼とした土地の中に、緑の芽吹きが点在している。生命力の強い植物が、徐々に大地を取り戻そうとしているのだ。


「希望はあるのね」


 私が呟くと、シオンも空を見上げる。


「星の力が弱まってるんだ」


「え?」


「この辺りは、星崩れの影響が薄れてきてる。だから植物が育ち始めた」


 シオンの分析に、私は驚く。記憶がないはずの彼が、なぜそんなことを知っているのか。


「どうして分かるの?」


「分からない。でも、星の声のようなものが聞こえる気がするんだ」


 彼の能力は、私にとって大きな手がかりになりそうだ。星織りの力と彼の能力を組み合わせれば、きっと素晴らしいことができるだろう。


 風が止んだ。夕暮れの茜色が、西の空を壮麗に染め上げている。私たちは小高い丘の頂に立ち、静まり返った谷間を見下ろしていた。商人が教えてくれた、ヴェルデの谷だ。


「あそこね」


 しかし、その美しい夕景とは裏腹に、谷底に横たわる村は死んだように静かだった。半壊した家々、骨のように突き出た枯れ木、そしてどこまでも続く灰色の畑。まるで巨大な墓所のようだ。


「本当に人が住んでるの……?」


 モカの小さな声が、やけに大きく聞こえる。耳を澄ませても、子供の声も、家畜の鳴き声も、生活の音は何も聞こえてこない。ただ、荒涼とした風の音だけが、私たちの間を吹き抜けていく。


 この静寂の底に、まだ温かい命の営みは残っているのだろうか。それとも、すべてはもう手遅れなのだろうか。

 私は、腰のペンダントを強く握りしめた。祖母の形見が、冷たく感じられる。


 「行ってみましょう」


 自分の声が、少し震えていることに気づいた。それでも、私は一歩を踏み出す。この絶望的な光景から、目を逸らしてはいけない。

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