第八九話 もてあそび
「雷韋君、まずいですよ。らしくもなく、陸王さん、本気で怒ってしまったようです」
紫雲は思わず雷韋を引き止めた。そんな紫雲に、
「なんでそんなに怒ってんのさ。俺は世界の理をただ説明しただけだぜ」
言う雷韋を、紫雲は呆れた顔で見下ろした。
「その世界の理というのは、絶対に確かなものなんですか? 君がなんらかの方法で確かめたとか?」
「え? いや、それはねぇけど、でも 精霊使いの中じゃ普通にそう伝わってるから」
「要するに、言い伝えですね」
紫雲の言う通り過ぎて、雷韋には反論の言葉がなかった。それを分かった上で、紫雲は雷韋に言う。
「陸王さんの生い立ち、君も少し知っているでしょう?」
「ん~、青蛇殿の巫女に嫌われて、追い出されたってあれだよな」
「そうじゃないでしょう。嫌われていたどころか、憎まれていましたよ。しかも不可抗力とは言え、陸王さんは巫女を一人殺している。それで放逐されることになったんです。子供の頃の陸王さんは、ただ静かに過ごしていただけだったのに、それさえ許されずに傷つけられて……」
「そうだけど……うん……」
二人は先に行ってしまった陸王の後ろ姿に目を向けた。
腹を立てて歩き出したはずの陸王の後ろ姿は、何故か心許ない寂しさを感じさせた。
「陸王さんは子供の頃に運命に弄ばれた過去があります。心に負った傷は当時のまま、その状態であるでしょう」
雷韋が言ったように、本当に道を作り、運命の取捨選択をさせている存在が世界の創造神である光竜であるなら、陸王が受けなければならなかった傷は一体なんの為なのだろう。どういう意図があって、陸王を傷つけたのか? それだとて、本当に必要な傷だったのかすら分からないのに。
「陸王さんは自分を弄んだ相手が例え光竜であっても、快く思わないでしょう。雷韋君は陸王さんのような思いをしていないから、光竜が作ったと言う道を歩かされることも、運命を選ばされることにも抵抗はないでしょうが、陸王さんは違います」
紫雲の言葉を聞いているうちに、雷韋の眉が徐々に八の字になり、表情も曇っていった。雷韋はそのまま片手をぎゅっと握る。
「陸王、怒ったんじゃないんだ。昔のこと思い出して、悲しくなったんだ。俺が思い出させて……また傷つけた」
最後に呟いて、雷韋は陸王目掛けて駆け出した。もし陸王が聞き入れてくれなくても、謝らなければならないと思ったのだ。雷韋にとって、光竜が創った大きな道も、いつ現れるか分からない選択肢も、両方とも見えていないだけでこの世に存在していることは当然との考えがあった。精霊使いとして、魔術の師にそう教えられたからだ。しかし、陸王にとってはそんな単純な事柄ではなかった。
陸王には作られた道はない。道は陸王が血を流して、自ら切り開いて歩いたあとに出来るものだったからだ。これまでずっとそうして歩いてきた。今この瞬間も。これから先も、陸王は変わらずそうやって歩き続けるのだろう。
なのに雷韋はそれを無遠慮に壊そうとした。自分の普通を陸王にまで当て嵌めて、傷つけたのだ。
陸王との距離はそれほど離れているわけではないが、やけに遠くに感じた。駆け足でもなかなか追いつかない。気持ちだけが急く。
「陸王!」
堪らず雷韋は叫んだ。
雷韋の声に、陸王が足を止めてゆっくりと振り返る。振り返った陸王の黒い瞳には、なんの感情も浮かんでいなかった。「巫山戯るな」と憤ろしい呟きを発したとき、陸王は本当は何を感じたのだろう。
怒りか、悲しみか。それとも両方を同時にか。
なのに、今はそのどちらの色もなかった。どちらかは確実に感じていたはずなのに。
「陸王……」
陸王が止まってくれたことでやっと追いつき、彼の腕を両手で取った。
「ごめん。俺、あんたを傷つけようとした。いや、傷つけたよな? ごめん」
雷韋が必死に謝るも、陸王は力のない息を吐き出しただけだった。
その息遣いに、雷韋は微かに肩を強ばらせた。雷韋の反応に気付いたのか気付いていないのか分からないが、陸王は自由な方の腕を雷韋へと伸ばす。
雷韋は反射的に両目を閉じた。次の瞬間、雷韋の頭に手がぽんと乗せられる。
「怖がるな。殴りゃしねぇよ」
陸王の顔にも感情の欠片もなかったはずなのに、発される声は穏やかだった。
雷韋も声に引き寄せられるように、ゆっくりと目を開ける。上目遣いの雷韋の目と視線が合わさると、陸王はいつものように雷韋の頭をぽんぽんと撫で叩いてきた。
「怒んないのか? 俺、あんたの気持ち全然考えないで、酷い事言ったのに」
「そいつなんだがなぁ……」
言葉を口にした陸王の顔には、何故か微苦笑が浮かんだ。が、ふいっと陸王は顔ごと雷韋から視線を外し、一度遠くを見るような眼差しをしてから、また雷韋に顔を向け直してきた。
「自分でも何がどうなったのか分からんのだ。腹でも立つだろうと思ったが、一向に腹は立たんし、ほかの感情も特に湧いてこなくてな。だからって、冷静だったわけでもない。焦りのようなものは感じたが、そいつに感情が追いついてこなくてな。正直、自分でも参った」
言葉の最後に、力ない笑いがついてきた。
それを不思議そうに雷韋は聞いたが、それより自分のするべき事をしなければならないと、思いを新たにする。
「お、俺はやっぱり、あんたに酷い事言ったと思う。それはちゃんと謝るよ。ごめん。あんたの気持ちなんにも考えないで、俺の中の当たり前を押しつけたのは悪かったよ」
それを聞いて、陸王は小さく笑った。
「お前は律儀というか、馬鹿正直というか……。俺もお前に酷い態度をとったな。だが、お互い様だ。チャラでいいだろう」
陸王が軽く言うと、そこでやっと雷韋の顔に笑みが広がった。
それをどう取ったか、陸王はまだ雷韋の頭の上に置いていた手で、雷韋のふわふわの前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜてやった。
雷韋は髪をくしゃくしゃにされて、慌てて陸王から離れてちぇっと舌を鳴らしたが、前髪を直しながらすぐに笑い声を立てた。




