第三〇話 領主兄弟の懊悩
昼まではまだある頃、玄芭は己の執務室でペンを取っていた。まだ時節は夏だが、一月後、二月後、三月後と更にその先に、それぞれしなければならない仕事が山積しているのだ。毎月、毎年していることと、そのほかに急遽執り行わなければならない雑事などがある。
執務室の開け放った窓からは、夏草の匂いが緩い風と共に入ってきて、玄芭を優しく包み込む。暑い中にも、ほんの少しだけ水分を感じさせる風だった。ほんの少しの夏草の水分を含んだ風に包まれながら、玄芭は書類に目を通している。
執務は大臣である玄史と領主である玄芭の二人で執り行うが、細々とした雑事のほとんどは玄史の下の者達が片付ける。細々とした書類を作成し、毎月の収入、支出などの計算も一〇人程度の役人が行うのだ。下の役人達から玄史のもとまで書類が上がり、玄史で片付けられない大きな案件を玄芭が片付ける。しかし、それだけの仕事内容で領地の雑務や執務が回っているわけではない。
特に玄芭は領主として、領地を視察に出ることも多かった。先代の頃にはなかったことだ。作物の実り具合や乳製品の出来具合、領民の生活ぶりなどを確認し、特に秋頃にはあちこちを廻って己の目で厳しく確認している。何故なら、秋の恵み具合が領民の越冬に直接響いてくるからだ。更には春を見越して、必要な事柄も見据えねばならない。
それらを加味して、領地は上手く順調に回っているのだ。
だが今、流れが滞っている。
普段の執務は問題ないのだが。
かと言って、領地への巡回は今はまだ必要ない。
では何が?
そう問われれば、愛鈴のこと、吸血鬼のことだ。
特に吸血鬼は、物事の全てをおかしくしてしまっている。そのおかしくなった物事の中に、己も入っていると思うと玄芭は憤ろしくて堪らなくなった。娘のために何もしてやれないのが、気を病むほどに苦しい。本当なら、こんなところで執務机に向き合っている場合ではない。しかし、あの部屋の扉も窓も、外部からの力では開くことが出来ないのだ。唯一、開くことがあるとすれば、吸血鬼が食事をして帰ってきてからの短時間だ。吸血鬼が眠っている昼間も、出掛けている夜間も、扉も窓も開かない。
ふと、玄芭は手にしている羽ペンをぎゅっと握り込んだ。その拍子に先端部分からインクが掌の上に広がっていく。けれど、今はそんな事はどうでもよかった。左手で目元を覆うと身体全体が強ばり、震えが走る。こんなところで何をしているのかと、己に対する怒りが身体の内側から湧き出でて、急速に膨らんで爆発しそうになる。
羽ペンは玄芭の手の中で完全に握り潰されて、インクが一滴、二滴と書類の上に滴った。
こんな癇癪に似た憤りは吸血鬼が愛鈴を人質にとって以来、日に何度もある。しかし、そのたびに堪えた。
愛鈴を取り返す術がないのだ。
あの部屋の扉は木製だ。信頼できる部下数名に扉を破壊させようとしたこともある。しかし結果は、全く歯が立たなかった。木製の扉の筈なのに、斧を叩き付けると何故か金属のような音が立つ。直に触った感触は木のそれなのにだ。だからいっそ、火を点けてしまおうかとも思ったが、いざ実行してみると、それも失敗に終わった。確実に火を点けられるように、おがくずを多く用いた。おがくずに火を移せば、あっという間に燃え上がったが、扉に火が移ることはなかった。焦げ跡さえつかない。それならと石組みの壁を壊そうともしたが、崩れるどころか欠け一つ作ることが出来なかった。
現在、吸血鬼が使っている部屋は、本来は玄芭のものだ。狩猟で獲物を捕った際、剥製などを保管しておく部屋だった。床に敷かれている熊の毛皮は元々あったものだが、あの熊の口に狐の頭蓋骨を咥えさせたのは吸血鬼だ。それもわざわざ剥製を壊して皮まで剥いで咥えさせた。あれは悪趣味としか言いようがなかった。本来はほかにも剥製はあるのだが、今はあの部屋から片付けられている。吸血鬼が部屋を使う上で邪魔だと言ったため、撤去したのだ。
その部屋に、愛鈴が囚われている。毎日僅かな時間とは言え、会いに行けるだけまだ救いがあるような気がした。それでも遣る瀬ない。憂鬱でもあり、憤ろしく、忌々しい。この気持ちをどんな言葉で表せば、気持ちがほんの少しでも軽くなるだろうか。
爪を立てるようにして握った手の中で、羽ペンが完全にひしゃげてしまった。その感触も腹立たしく感じられて、玄芭は羽ペンを床に叩き付けた。かつと軽い音がして、羽ペンは床で一度跳ねて転がる。
その時だった。執務室の扉が二度、三度と軽く叩かれる。
「誰だ」
玄芭は苛立たしげに大声を出した。
その大声に返ってきたのは玄史の冷静な声だった。
「私です、兄上。失礼します」
扉が開いて、玄史が室内に入ってくる。
「玖賀陸王という、例の侍を連行しました」
「修行僧もいたはずだが」
「それが、既にレイザスにはいなかったと。吸血鬼がほかの村に向かうかも知れぬと危惧して村の者達とともに出ているため、兵士が追っていると連絡が入りました」
それを聞いて、玄芭は両肘をついて手を組んだ。組んだ手に額を預ける。
「昨夜は侍と修行僧とがいて、奴の襲撃は失敗したのだったな」
「はい、確かに奴自らがそう言っていました。レイザスからの使いの者も、やはり吸血鬼が実在したのを確認し、侍と修行僧の二人のお陰で今夜は救われたと報告を入れてきましたから。しかし丁度よかったですよ。向こうから吸血鬼騒ぎがあったことが知らされたのは」
玄芭は黙って目を閉じた。村の者がやって来たと言う事は、吸血鬼そのものを目撃したのだろうからだ。厄介なことになったと思う。
玄芭の懊悩している様を見て、玄史がそっと声をかけた。
「兄上、侍と修行僧を殺してしまうおつもりではないでしょう。彼等の力を使えば、吸血鬼を逆に始末してくれるのではないかと思います。昨夜、吸血鬼の邪魔をしたくらいですから。私も色々考えたのですが、利用できるものは利用しなければ」
「分かっている。だが下手に動いて、愛鈴に危害が加えられたらと思うと……私は恐ろしい」
言いながら、玄芭は組んだ手に更に額をぐっと押しつけた。そうすることで、不安を散らすかのように。
「それではどうします? 玖賀陸王を領民に対する擾乱の罪で処刑しますか? 私は反対です」
「確かにな。しかし……」
玄史は玄芭の言葉に眉を曇らせた。
「では、如何なさいます」
そこでようやく玄芭はゆるゆると顔を上げて弟を見た。
「出遅れたのだ、我々は。玖賀なる侍らを殺そうとすれば、彼等がレイザスにいるうちに修行僧諸共引っ捕らえねばならなかったのだ。でなければ、事情を知ったほかの村の者が訝るであろう。殺すのなら遅くとも昨夜、吸血鬼が戻ってすぐに派兵しなければならなかった」
「確かに、レイザスにいることは端から分かっていましたからね。そのせいで吸血鬼の昨夜の目的は失敗に終わりましたが。ですが、このままレイザスを放置すれば、いずれ吸血鬼が滅ぼしてしまいますが、それは?」
玄芭は組んだ両手を考えるように唇に当てた。
「昨夜、被害が出なかったと知り、正直、私はほっとした。出来れば救ってやりたいくらいだ」
「侍と修行僧を殺すことに反対しながら、こんな事は言いたくはないのですが……。吸血鬼は邪魔をする者は捕らえろと言いました。つまり、始末せよということでしょう。姫の生命を握られている今は、まさに。姫は兄上の宝物。失うわけにもいきますまい」
玄史は強い口調で言った。板挟みになりながらも、姫の生命を優先させるような口振りになっていた。
玄芭は一度大きく息を吸い込み、吐き出すと、席を立った。
「侍に会ってみよう」
「助けを請うのですか?」
「それは相手次第だ」
言って、玄史を連れて執務室をあとにした。




