第二一話 出現
闇がしんしんと降り積もっていく。月のささやかな明かりを遮りでもするかのように、時間が経つごとに世界の闇は深く濃くなっていった。
篝火に時折、薪を足していく。そのたびに、小さく炎が爆ぜた。
闇は無音で降り積もっていくが、炎が無音の闇に抗議するように、小さく爆ぜては闇を切り裂く。
月の位置から見て、おそらく夜半課(午前零時)辺りだろう。あるいは夜半課を少し過ぎた程度か。
夜空を見上げなくとも月がどの位置にまで昇っているか、陸王にはよく分かる。魔族というのは、月の影響をまともに受ける種族だからだ。月の微妙な変化からでさえ、魔族は鋭敏に己の身体が何をしたがるかを察する。それが本能だからだ。
月が満ちる時、最も大きな力を引き出すことが出来、月が消え去る新月には最も大人しくなる。上位、高位魔族は新月の晩は理性が最も利きやすくなるし、下級な魔族は言葉どおり萎縮でもするかの如くに大人しくなってしまうと言う。
陸王は魔人だが、魔に連なる者であることには変わりない。月の影響は当然、受ける。陸王は満月の晩でも理性を保っていられるが、やはり新月の晩が一番落ち着くと感じていた。余計な本能に振り回されずにすむからだ。絶対にしないが、満月の晩には雷韋を傷つけたくなることさえある。対は対を殺せない、傷つけられない。それが魂の条理だ。それでも魔族の本能はざわざわと目覚めている。陸王にとって満月は、鬱陶しいことこの上なかった。
月が満月から下弦に入ると、神経を研ぎ澄ませば世界の色々な気配を感じ取れるようになる。なんでも分かるわけではないが、ざわめいていた感覚が夜ごと鎮まって、色々なものが分かりやすくなるのだ。上弦の月に入ると、それはそれで感覚が研ぎ澄まされるが、下弦の月で、心が落ち着くからこそ感じられるものもある。
陸王は座禅を組み、瞑想するように薄く瞼を開けて呼吸を整えた。
雷韋はその様子を静かに見守っているようだ。こちらの状態が分かっているからこそ、様子を見ている。陸王に話しかけることもなかった。
瞑想して暫く。意識が広がっていくのが分かる。始めは納屋の中、それから外の気配へと意識を移行した。今のところ、まだ怪しい気配はどこにもない。
今夜の月は細い。もしかしたら、相手も静かに近寄ってくるのかも知れなかった。上位からの変異種だ。月の細さに比例して、理性がしっかり残っている可能性が高い。だとすれば頭を働かせて、上手く気配を殺してやってくるかも知れなかった。
そうなればいくら陸王が神経を張り巡らせていても、簡単に察知するのは難しい。
特に、こんな風にしっかりとした対策を取っているともなれば、吸血鬼も異変に対して慎重になるのではないか? 今夜、自宅に残っているのは、男や老人、薹の立った女達だけだ。
吸血鬼もおかしいと思うに違いない。
罠とまでは思わないだろうが、愚策を立てたとは思うだろう。女子供を一箇所に集めて警備すれば、犠牲者を抑えられると村の者が思っていると。
そこが付け入る隙だ。
瞑想を続けて、暫く。
ふと、凍えそうだと思った。いや、それは気配だ。酷く冷たい気配を感じた。
来た、と思うと同時に身体が動いていたが、直後、濃い魔気が三度放たれた。
場所は、見えない誰かに対して「おいで、おいで」をしていた女のところだ。
納屋は大きいが、人が動き回るにはさほど広くもない。
駆けていくと、そこには髪を後ろに撫で付けた、貴族のようなきちんとした身形の者があった。
闇のように黒い外套も羽織っている。
瞳は紅い。
間違いなく、吸血鬼だ。「おいで、おいで」をしていた女に手を伸ばそうとしているところだった。隣で宥めていた女は魔気に当たったのか、目覚める気配はない。少なくとも、「おいで、おいで」の女は魔気に当たって意識を失っているのは確かだった。それに不寝番の男も寝藁の上に倒れている。この男からも魔気を感じた。
それを放って、反射的に斬り掛かる。
が、吸血鬼の瞳が赤く燃えた途端、どんと腹に響く重い感触がした。
濃い魔気だったが、感じたのはそれだけだ。感触を感じても、陸王に魔気は効かない。陸王はそのまま躊躇うこともなく斬り掛かっていったが、手応えはあったものの、吸血鬼の身体が一瞬にして掻き消えてしまう。
一体、何が起こったのか分からなかった。
陸王が動いたことで、納屋の中の見張り達も集まってきた。
陸王は半ば混乱して、はっと息を吐き出したが、それに合わせて空気が動いた。
いや、目の前にあるものは極細かい水滴が集まったものだった。
霧だ。
霧が煙のように蠢いて、板壁の隙間から外へ出て行こうとしている。
「紫雲! 北側の壁だ。そこから吸血鬼が霧になって逃げようとしている。神聖魔法で捕まえろ!」
叫びながら、陸王は納屋の扉にぶつかるようにして外へ躍り出た。
闇の中で、霧は烟って見える。月よりももっと大きな篝火の明かりが、吸血鬼の霧を浮かび上がらせていたのだ。
頭の中に紫雲の声が響いた時、紫雲が西の方角から姿を現し、即座に目を閉じて印契を組み、神聖魔法の詠唱を始める。
紫雲が神聖魔法を使う際、言霊封じを用いなかったのは紫雲に魔術的勘がなかったからではない。神の御言葉は強大すぎて人の身では言霊封じに昇華することが不可能だからだ。また、神聖語の逆発音である魔代語も、言霊封じに昇華出来ない。
紫雲が現れた瞬間目を閉じたのは、北側の壁で見張りに立っていた男達が倒れていたのを目にしたからだ。おそらくは吸血鬼の魔気を、まともに食らったのだろう。
陸王に届いた紫雲の言葉は、気をつけて、というものだった。頭の中に直接、紫雲の声が響いてきたのだ。多分、さっきの陸王の叫びも、風球の力で紫雲の頭に響いたに違いない。納屋の中からの声だけでは、聞き取りにくいからだ。叫んだことは分かっても、その内容までははっきりしなかったはずだ。
紫雲の詠唱が始まった途端、霧は突然かくかくと痙攣したように動きを変えた。それまではすぅっと滑らかな動きをしていたのにだ。
神聖魔法の詠唱が効いているのだろう。
紫雲が陸王に気をつけろと言ったのはこのためだった。紫雲の声が聞こえる範囲にいれば、呪がかかる。
陸王も今、身体の自由が利きにくい。全く動けないわけではないが、何かで締め付けられるような苦しさを感じる。
魔族より高次元にいる陸王でさえ動きが取りにくいのだ。上位の亜種である吸血鬼は、更に動きが取りにくいに違いない。苦しさももっと激しいはずだ。霧が痙攣したように蠢いているのが、その証左だ。
吸血鬼が捕らえられたのはいいが、陸王はこの事態をどうしていいか分からなかった。吸血鬼の姿は、今、霧状だ。霧に斬り掛かっても意味はないだろう。
この場は一旦、紫雲に任せるかと思った。術が更に効けば、姿形を変えるだろうと思ったからだ。吸血鬼本来の姿に戻るかも知れない。
紫雲の術が効いて、陸王の肌にじわじわと汗が浮き出てくる。苦しさも増したが、この中で一体、吸血鬼はどう出るかと、陸王はある意味、楽しさを感じていた。
陸王が密かに大きく息を吸って喘いだ時、紫雲の詠唱が突然止まった。がくりと片膝をついて、印契も崩れてしまっている。
途端、霧も陸王も術から解放されたが、霧は瞬時に黒い姿に変わって空に駆け上っていく。吸血鬼が黒い姿に変じた瞬間、陸王は斬り掛かっていたが間に合わなかった。
地上の明かりに照らされて見えたのは、大きな蝙蝠だった。すぐに篝火の明かりも届かぬようになり、蝙蝠は星の海の中に消えていった。
雷韋ほどの猫目であれば、蝙蝠のゆく姿が見えたはずだが、陸王も紫雲も闇の中は見通せない。
陸王は思わぬ成り行きに、悔しげに舌打ちした。
よもや、吸血鬼が霧になったり、蝙蝠になったり等するとは思わなかったからだ。言い伝えられている伝承にはそんな話はない。
陸王が納屋の外に飛び出したのを見て、納屋の中と外にいた男達がことの顛末を呆然として見ているのが目に入り、陸王は司祭を呼べと言った。倒れている男達の解呪をさせるためだ。数えてみたところ、五人もいる。
しかし今、司祭はあの気の触れた女の解呪を行っているということだった。ほかにも二人魔気にやられている。彼女らの解呪が終わったら呼ぶと、見張りに立っている男の一人が言葉を返してきた。
それを聞いて、あの女が真っ先に魔気を当てられていたんだったかと、記憶を反芻する。あの時、三度、魔気が放たれた。隣にいた女も、おそらくは魔気を食らっているに違いない。彼女らの手当が終われば、放置しておいてもここへやってくるだろう。
陸王は紫雲のもとへと近づいていった。
紫雲は片膝をついたまま肩で大きく呼吸をしていたが、陸王がそばに来たのに気付いて立ち上がる。
「魔気に当たったんじゃねぇのか?」
紫雲はそれに対して首をゆるりと振って、自嘲を浮かべた。
「目を合わせていませんから、魔気はあまり身体に変化を与えませんでした。ただ、いきなり身体が重くなってしまって……すみません。取り逃してしまいましたね」
「仕方ねぇ。あの状態でも魔気を放ってきたんだ。防ぐ手立てもなかっただろう。まともに目を合わせなかったのは幸いだった」
言って背後を見ると、助祭の青年が倒れているうちの一人に解呪の詠唱を唱えていた。納屋の中は司祭が当たっているのかと思う。
助祭が解呪し始めたことで、陸王の背筋にはぞくぞくとした悪寒のようなものが走り抜ける。解呪であり、攻撃的なものではないから、今はなんとでもなるが。
陸王も紫雲もそれ以上の言葉はなく、陸王は刃を鞘に戻し、紫雲はほかにまだ倒れている者達に解呪を施そうと移動した。