第二〇話 被害者
月は細く削られてしまった顔を晒して、斜めに昇ってきていた。日数的にも月の形からも、明日は新月だ。闇の中で、細い月明かりは酷く心許ない。夜でも暖かな空気に乗ってくる夏草の匂いが、納屋の中まで満たしていた。
そんな中にいると、細い月明かりと微かな夏草の匂いが絡み合って、納屋の中でもつれ合っているような不思議な気分になる。明かりだけであれば、納屋を囲んである篝火の方がずっと明るく周囲を照らし出しているのに、微かな月明かりと夏草の匂いに翻弄されそうだ。
その篝火の明かりが納屋の壁の隙間から、ちろちろと漏れ入ってくる。納屋の中にもランタンが柱にかけられて、建物の中を照らしていたが、それでも納屋が闇を吸収してしまったように薄暗い。仕切られた空間の隅っこなど、ランタンでも照らしきれない闇溜まりがある。
いや、それでいいのだ。多少は闇がなければ、眠れるものも眠れないだろう。
晩堂課(午後九時)に差し掛かるだろう今、既に幼子達は騒ぎ疲れて眠ってしまっている。それ以上の子供や女達が、不安に身を浸してまんじりともせずに上掛けを被って、ただ横になっていた。ひそりと話す声も時折、聞こえてくる。
納屋の両開きの扉は閉められて久しい。いざというときのために閂は掛けていないが、外からの物音が扉越しに壁越しに籠もって聞こえてきた。それにしたって、睡眠の邪魔をするほどのものではないが。
それでも皆、こんな夜は初めてで、隔離されている者達はなかなか眠りにつけずにいる。
「大丈夫だ。護ってやる」
納屋の中を見回るように歩いて行く途中、陸王は何度かそんな声をかけた。
仕切りの一区画に一人ずつ、見張りを配置してある。吸血鬼がどこからどう現れるか分からないからだ。司祭と助祭は、扉に一番近くに置かれている卓に待機して貰っていた。
陸王は天井に設えてある天窓から空を見遣った。
高い天井にまでランタンの明かりは届いていないせいで、まるで吸い込まれるような闇が天井付近に蟠っている。
空には星が強弱の明かりを点して無数に輝いているが、あの明かりは実際にはアルカレディアの周りを覆っている混沌の光だと言われている。あるいは光を司る光の神・天慧の力を天慧の弟である闇の神・羅睺が抑えきれずに天に明かりを残しているとも。はたまた、天慧の力が強すぎて、昼間の光がただ空に残ってしまっているだけとも言われている。
どの説が本当か、それとも間違っているのかは知らないが、星空は夜ごとにその姿を変える。
陸王は昨日とは違う夜空を見上げながら、吸血鬼が襲ってくるのはもっと遅い時間になってからだろうと考えていた。昨夜は晩堂課を過ぎた頃だったが、ぎりぎりで間に合わなかった。しかし今夜は、女子供を集めて庇護している。それだけでも吸血鬼に対しての牽制になるだろう。今夜は昨夜より襲ってくる時間は遅くなるだろうと陸王は踏んでいた。
襲ってくる時刻までははっきりとしないが。
昨夜は遠く離れていても魔気が感じられ、実際に襲われた家に行ってみると、昏倒している夫婦からは異常なほどの濃度の魔気を感じた。一点に集中するせいだ。吸血鬼の紅い瞳と目を合わせた瞬間に、魔気が襲いかかってくると言う。誰もそれに冒されなければいいと思うが、果たして今夜のこの策に乗ってくるかどうかが不安要素だった。
人間達の浅知恵と見るか、罠だと見るか。
向こうに陸王がいることは知られていないため、罠だと思わない可能性は高い。小賢しい真似をするとは思うだろうが、それほど用心してやってくるとは思えなかった。
陸王が納屋の中央の通りを歩いていると、寝台の上に横になって、眠りかけては目を醒ます子供がいるのに気付いた。十ばかりの男の子だ。その隣に横になっているのは兄なのか、年が少し上のように見える。その子が十ばかりの子供の方を向いて、頭を抱きしめてやっていた。眠いが、寝たくないような雰囲気が十ばかりの子供にはある。
陸王は歩く足を止めて、二人のもとに近づくと片膝をついた。
「どうした。眠いんじゃないのか? 眠っても大丈夫だ」
小声で語りかけると、二人は同時に首を振った。
年上の少年が、
「姉ちゃんが吸血鬼に殺されたんだ。朝になったら、父ちゃんと母ちゃんも姉ちゃんに噛まれて屍食鬼になった。俺は弟を連れて、台所の隅に隠れた。そうしたら、そうしたら……」
急に言葉を詰まらせて、少年はぼろぼろと涙を零し始めた。それを見て、陸王は少年を止めた。
「無理に口にしなくてもいい。分かった」
それでも少年は苦しげに、悔しげに口を開く。
「父ちゃんと母ちゃんは、家の中に飛び込んできた伯父さん達に殺された。姉ちゃんはどうなったか分かんない。出ていったまま、帰ってこなかった。吸血鬼はいるんだ。次は俺と弟が殺される」
少年は涙を流しながら、震える声で必死に言い募った。
「眠ったら、きっと吸血鬼が来るんだ。だから、俺達は眠らない」
「大丈夫だ。ここにいる限り、お前らを殺させない。俺はその為に雇われたんだからな。ここに皆を集めさせたのも護るためだ。必ずお前達の家族の仇はとってやる」
陸王は兄と弟の頭を順に撫でてやった。優しく、力強く。その手の感触をどう取ったのか分からないが、弟の方が途端に陥落した。兄が慌てて起こそうとするも、陸王はそれをやめさせる。
「眠らせてやれ。お前も眠るんだ。眠っていれば、その間に俺が吸血鬼を殺してやる」
「無理だよ。吸血鬼を殺すことは出来ないって、司祭様と村長さんが話してるの、聞いたんだから。だから領主様も助けてくれないんだ」
怯える兄の頭を、陸王は雷韋にするようにぽんぽんと撫で叩いてやった。
「そうだな。司祭には無理だろう。だが、こっちには侍の俺のほかに、修行僧もいる」
「もんくそう、って、何?」
「修行僧ってのは、魔物や魔族を調伏する僧侶のことだ。僧侶でありながら、戦う術を身に付けている。吸血鬼ってのは魔族の亜種だから、神聖魔法には弱い。神聖魔法で縛り付けたところを俺が斬り捨てる」
「出来るの? そんな事、ほんとに?」
「出来なけりゃ、俺はこの村にはいねぇよ」
陸王が自信を持って言うと、少年は言葉もなく大きく頷いた。陸王を見つめる瞳は、信頼の証に輝いている。
陸王はそれを確認して、立ち上がった。
それに合わせるように、少年は眠っている弟の頭を抱きしめて目を瞑る。
様子を窺っていると、兄の方も簡単に眠りに落ちていくのが分かった。硬かった表情から力が抜けていくのを見たからだ。
普段はこんな時間まで起きていないのだろう。農村では、夕食を済ませたら、子供はほとんどすぐに寝台に潜って眠ってしまうからだ。その代わり、一時課の鐘が鳴るより前に起き出して、仕事を始める。家畜の世話などが主な仕事だ。あとは水汲みなどもある。その仕事も子供が年を経るに従い、親から畑仕事を少しずつ教えられていく。そうやって農村では代替わりしていくのだ。繰り返し、繰り返し、過去から現在、未来まで続いて。
陸王は兄弟が寝静まったのを確認してから納屋の奥へと向かおうとしたが、途中、女の声が聞こえてきた。気になって、女達が寝ている方へ行って様子を窺っていると、一番壁側に横になっている女が宙に両手を差しのばして、誰かと喋っている風な口調で何やら呟いている。
「いいよ。入ってきて。ここに来て。私のところに」
耳を澄ますと、そんな事をぶつぶつと繰り返していた。
隣で横になっている女が、なんとか静めようと宥めているのも目に入る。陸王の立っている傍で腰を下ろしている見張りの男が、顔の前で手を振って自分の頭を指先で突いている。
どうやら魔気の影響が、精神に残ってしまった者なのだろう。あの女は死ぬまでずっとあのままで過ごしていくのだろう。可愛そうなことだが、陸王にしてやれることが何もない。吸血鬼を殺しても、女の心が戻ってくるわけでもない。それはそれ、これはこれなのだ。どうすることも出来ないのが現実だ。
終わってしまったこと、これから起きること。
終わってしまったことに対しては何も出来ないが、これから起こることに対してならいくらでも手は打てる。そう思うことで、陸王は己の心を慰め、もっと深い時間を待つことにした。




