14. 信仰を統べるための駒
雨に煙る路地裏を、バルドは足早に歩いていた。
泥に覆われた石畳が、足元の血を容赦なく吸い込んでいく。
肩の傷は深く、鋭い痛みが身体の芯を突き刺していたが、彼の足取りに迷いはなかった。
(まだ、終わってはいない……)
帝都の奥深くへと続く回廊。
冷え切った静寂の中、バルドは一切の躊躇いなく重厚な扉を押し開けた。
蝋燭の灯火が仄かに揺れる執務室には、静寂が支配している。
机の前で、ユリウス・フォン・リヒテンフェルスは淡々と書類に目を通していた。
羊皮紙に書かれた細かな文字が、淡い光の中に浮かび上がっている。
その傍らに積み重ねられた書類の一つに、会計局の印が押されていた。
バルドは一礼することもなく、静かに口を開いた。
「──今回、教会の裏金に手をつけたのは軽率だったのではありませんか?」
その声には、抑えた苛立ちが滲んでいた。
だが、ユリウスは視線を動かさず、淡々と羊皮紙をめくるだけだ。
「何がまずいというのです?」
穏やかな声音は、あまりにも無感動だった。
バルドは鋭く言い募る。
「会計局が動き出しています。神聖調査官どもにも嗅ぎつけられた。これ以上、連中が干渉してくれば──」
「……それが?」
ユリウスは静かに言葉を遮り、ページをゆっくりめくった。
「私にとって、あの金そのものには意味はありません」
「ですが……資金の流れを追われれば、計画の妨げに──」
「妨げ?」
ユリウスは初めて顔を上げた。
冷たい蝋燭の光が、その端正な顔立ちを淡く照らす。彼は微かに微笑んだ。
「あんな穢れた金が、私たちに必要だと?」
静かな声に宿る、揺るぎない自信。
バルドは口を結び、押し黙った。
ユリウスは手元の金貨を指で弾き、淡々と続けた。
「この金貨は、貴族が堕落した贖罪にと、教会へ差し出したもの」
もう一枚、音を立てて弾かれる。
「こちらは商人が、己の欲望を『信仰』で覆い隠すために払ったもの」
更に一枚。
「巡礼者が、聖地への免罪符として置いていったもの……」
冷たい微笑みが、ユリウスの口元に浮かぶ。
「もとより清らかなどではない、最初から穢れているのですよ」
バルドの表情が一瞬、強張った。
「それでも、教会にとっては必要なものです」
「ええ、だからこそ有効に使ったのです」
「……奇跡の演出のためにですか?」
「いいえ」
ユリウスは金貨を手に取り、指の間で転がす。
「──信仰のために、です」
その言葉は、あまりにも静かで確信に満ちていた。
バルドは小さく息を吐く。
「しかし、それで会計局が動きを止めるとは限らない」
ユリウスは再び、無邪気とも言える微笑を浮かべた。
「ならば、返却すればいい」
「返却……?」
「会計局が望むなら、いくらでも。必要ならば、すべてを返しましょう」
その無感動な言葉に、バルドは僅かに眉をひそめた。
「しかし……それでは、これまでの準備が無駄になるのでは?」
ユリウスの微笑が深まる。だが、その瞳には感情が宿っていなかった。
「いいえ、バルド」
彼の指が再び金貨を弾く。
「金貨はあくまで手段です。肝心なのは『信仰』を操ること。……何の問題もないでしょう?」
静かな言葉が室内に溶けていく。
バルドは肩の傷を気にする様子もなく、真っ直ぐに視線を返した。
「……わかりました」
彼は バルドの肩の傷へと視線を落とした。
「その傷……随分と深いようですね」
「問題ありません」
バルドは即答する。
しかし 血はまだ滴り、服の肩を濡らしていた。
ユリウスは 微笑を浮かべながら、ゆっくりと手を差し伸べる。
「ならば……この不浄も、取り除いておきましょう」
——淡い光が、彼の指先に灯る。
柔らかく、それでいて神聖な輝き。
それは 温かさを感じさせながらも、どこか冷たく、理知的な光だった。
バルドの肩を覆うように、光が滲み込み、血が静かに消えていく。
そして、傷がゆっくりと塞がっていく。
「…………」
バルドは微動だにせず、その様子を見つめていた。
ユリウスは、 光を操る指を止めることなく囁く。
「バルド、あなたは時々…… 必要のないものにこだわりすぎます」
光が消える。
バルドは 血の滲んでいた肩にそっと触れた。
そこには 傷一つ残っていなかった。
ユリウスは机の上の金貨を指で弾き、無邪気な微笑を浮かべる。
「これで、余計な汚れは落ちましたね」
蝋燭の炎が揺れる。
その中で、ユリウスの顔は、あまりにも神々しく、そして、あまりにも恐ろしかった。
「ところで──」
ユリウスは唐突に話題を変えた。
指先が軽く、机上の金貨を弾く。
「神聖調査官と聖騎士。彼らはどうしました?」
バルドは僅かに眉を寄せ、淡々と告げる。
「予想以上に動きが早く、計画の中枢へ迫りました。ですが、ご命令通り、排除はしていません」
「そうですか……」
ユリウスは微笑を崩さず、手の中の金貨を軽く宙に投げた。
蝋燭の光を受けて煌めきながら、金貨が机の上で乾いた音を立てる。
「ならば、面白い駒が手に入りましたね」
「……利用するおつもりですか?」
ユリウスは微笑を深め、指先で金貨を弄んだ。
「彼らはまだ、真の『信仰』を知らない」
「ですが、追い詰められれば、自ずと正しい道を選ぶでしょう」
「──我々の側へ?」
バルドの鋭い視線に、ユリウスは軽やかに微笑むだけだった。
その瞳の奥には、静かな狂気が宿っていた。
「ええ。彼らもいずれは、自分たちが正義だと信じるものに縋るようになります」
蝋燭の炎が揺らぎ、ユリウスの瞳の中に冷たい炎が灯る。
その冷徹な表情に、部屋の闇が一層深く沈んでいった。




