13. 神の血の真実
夜のヴァイデンは静まり返っていた。
月の光さえ霧に遮られ、街の外れは闇に溶け込んでいる。
その静寂の中、二人の足音だけが石畳の上に響いた。
やがて、視界の先にぼんやりと朽ちた影が浮かび上がる。
霧に包まれた廃墟──ヴァイデンの街外れに放置された古びた教会だった。
崩れかけた屋根、苔むした石壁。
長年の風雨に晒され、もはや祈りの場としての威厳は失われていた。
かつて信仰が宿ったはずの場所は、今や沈黙のうちに朽ち果てようとしている。
「ここか……」
ミハエルが低く呟く。
二人は足を止め、改めて周囲を見回した。
草木が絡みついた門扉は半ば崩れ落ち、境内は荒れ果てている。
誰も住んでいないはずの建物なのに、どこか異様な気配が漂っていた。
ミハエルは軽く葉巻を転がしながら、木製の扉に手をかけた。
古びた扉は錆びついた蝶番を軋ませながら、ゆっくりと開く。
ギィィィ……
礼拝堂の内部は、かつての荘厳さを失い、ただ荒廃の影を宿していた。
壁の聖像は崩れ、床には割れた燭台や朽ちた椅子が無造作に転がっている。
空気は重く湿り、長年の放置により染みついた黴の匂いに混じって、微かに血の鉄臭さが漂っていた。
「……ラウルの言った通りだな」
ミハエルが低く呟く。
彼の視線の先──祭壇の奥に、半ば隠れるようにして設けられた地下への入り口があった。
粗末な鉄柵の向こう、階段は闇の奥へと続いている。
まるで、この礼拝堂の過去を呑み込んだかのように、深く、暗く。
コンラートは剣を握り直しながら、僅かに口を引き結ぶ。
「……降りるぞ」
二人は慎重に階段を下りた。
踏みしめる度に、冷気が這い上がってくる。
まるで、ここが地上とは別の世界であるかのように。
地下は広い空間だった。
天井を支える石柱が並び、かつては貯蔵庫か地下礼拝堂だったのだろう。
だが、今ではその用途は変わり果てていた。
地下は広い空間だった。
天井を支える石柱が並び、かつては貯蔵庫か地下礼拝堂だったのだろう。
だが、今ではその用途は変わり果てていた。
そこは──「神の血」の実験場だった。
壁際には幾つもの鉄製の檻が並び、奥には簡素な実験台。
無数のガラス瓶が並べられた棚には、黒く変色した液体が封じ込められている。
そして、その中心──
石の床に、修道服を纏った男が倒れていた。
ミハエルとコンラートは足を止める。
彼の身体は異様に痩せこけ、皮膚は蒼白に変色している。
手首には縄の跡がくっきりと残り、明らかに何者かに拘束されていたことを示していた。
血の気を失った唇は半開きのまま、まるで最期に何かを伝えようとしたかのようだった。
コンラートが慎重に膝をつき、彼の首元に手を当てる。
「……死んでいるな」
「まあ、生きていたら驚くところだ」
ミハエルは短く息を吐き、視線を周囲へと巡らせた。
空気はよどみ、微かに鉄と薬品の匂いが漂っている。
この場に遺された痕跡は、何かを物語っていた。
さらに、壁際の檻の中には、すでに息絶えた何人もの犠牲者が閉じ込められていた。
彼らの体には無数の傷跡が残り、一部は人間とは思えないほどに変形していた。
「……まるで実験動物だな」
ミハエルが冷ややかに呟く。
「おそらく、神の血の効果を確かめるために使われたんだろうな」
コンラートが眉をひそめる。
棚の上には、乱雑に積み上げられた研究記録らしき紙束があった。
ミハエルが一枚手に取り、乱雑な文字を追う。
被験者01
投与後、神の声を聞くものが現れる。
投与直後より軽度の幻覚症状を訴える。15分後、被験者は“神の声”を聞いたと報告。その内容は啓示に似たものだった。20分後、被験者の精神状態は安定し、信仰心が異常なほど高まる。「自らは神に選ばれた」と確信し、さらなる摂取を望むが、追加投与はせず経過観察。
被験者02
投与後、神の血には依存性があることがわかる。
最初の投与後、被験者は数時間のうちに精神の高揚を見せたが、12時間経過後には急激な抑うつ状態に陥った。「神の声が遠ざかる」と訴え、次の投与を懇願。追加投与後、再び高揚状態へ。神の血には依存性がある。
被験者03
ごく少数の一部のものには投与後変化は見られず、異端とされる。
神の血を投与後、被験者には目立った変化が見られなかった。神の声も聞こえず、肉体的変異もなし。
被験者04
投与後、体が強化され、まるで凶戦士のように戦闘を行うものが現れる。
初回投与後、筋力が大幅に増加。皮膚が硬化し、通常の剣撃では致命傷を負わない耐久性を示す。
被験者は理性を保ったまま戦闘能力を発揮し、驚異的な戦闘技術を示す。戦闘時には痛覚の鈍化も確認され、致命傷を受けても動じず戦い続ける。
被験者05
「投与後には依存性があり、投与を続けると被験者は顕著な変異を開始。四肢の肥大化、皮膚の硬化が確認される。意識の混濁後、攻撃性が顕著に増加。通常の鎮静手段は効果を示さず。最終的に、対象は自壊。黒い血を大量に吐き、細胞の崩壊とともに死亡」
過剰摂取による影響が顕著に表れた例。
被験者は最初こそ神の声を聞いたと報告したが、意味不明な呟きを繰り返し、暴力的な行動を示し始める。
皮膚の変質、筋繊維の異常増殖が観察され、通常の人間とはかけ離れた異形へと変貌。
被験者は極度の痛みを感じながらも暴れ続け、最終的には肉体の限界を超え、内側から崩壊。
ただし、特殊な魔道具で制御可能。「恩寵の徒」と名づける。
ミハエルは報告書を投げ捨てた。
神の血は、もともと信仰を試すための薬だったのだろう。
だからこそ、神の声を聞いた者は試練に屈し、神を信じることで「選ばれし者」となる。
一方で、神の声を聞くことができなかった者は、試練を乗り越えたと見なされるどころか、「異端」として排除される。
だが、その効能はそれだけでは終わらなかった。
過剰摂取すれば、異形化、そして最悪死に至る。
「燃やすか」
コンラートが短く言った。
ここで何が行われていたのか、すでに答えは出ていた。
そして、その答えがあまりにも醜悪なものである以上、彼らが取るべき行動もまた決まっていた。
ミハエルは何も言わず、しかし否定もしなかった。
コンラートが剣を振り抜く。
棚が薙ぎ払われ、薬瓶が床に叩きつけられた。
割れたガラス片が燭光を反射してきらめき、黒ずんだ薬液が冷たい石床に広がっていく。
ミハエルは懐からマッチを取り出し、手近にあった書類の束を軽く摘まむと、机の上へと放り投げた。
次の瞬間──、パチッ……シュウ……
マッチの炎が擦られ、机の上にあった古びた布に火が移る。
布地はすぐに燃え上がり、赤々とした火が書類や薬液へと広がっていった。
炎は瞬く間に部屋全体を包み込み、熱が空気を歪ませていく。
「さて、撤収といこうか」
ミハエルは軽く手を払うと、コンラートとともに地下からの出口へと足を向けた。
すでに彼らの背後では、揺れる炎が赤々と悪夢の残滓を焼き尽くし始めている。
階段を上がり、教会の外へと続く扉へ手を伸ばそうとした瞬間──
闇の中から、異形の気配が這い寄ってきた。
ザリ……ザリ……
靴音とも、何かを引きずる音ともつかない、不気味な気配が背後から迫る。
コンラートが剣を引き抜く音が、冷たい夜気に鋭く響く。
ミハエルは無駄な動きをすることなく、懐から魔道銃を取り出し、素早く装填する。
蝋燭の明かりに照らされた扉の前、黒い修道服に身を包んだ男たち──
いや、もはや人ではない「何か」が、静かに姿を現した。
その存在は、夜闇に溶けるような異質さを帯びていた。
彼らの顔は影に沈み、赤黒く染まった目だけが獣のように光を反射している。
黒く滲んだ唇の隙間から、じわりと闇に融けるような黒い液体が滴り落ちた。
「……恩寵の徒か」
コンラートが低く呟く。
かつては人だった者たち。だが今は、神の血によって理性を奪われ、ただ本能だけに突き動かされる怪物。
彼らの姿は人の形をしていながら、どこか微妙に歪み、関節の動きは不自然で、呼吸すらしているのか定かではない。
ミハエルは無言のまま、ゆっくりと銃口を持ち上げる。
乾いた金属の音が、冷たい空気の中で響いた。
「……まったく、忌々しいものを見せてくれるな」
黒い影たちがゆっくりと足を踏み出した。
その一歩ごとに、床板が軋み、不気味な静寂が広がっていく。
コンラートがわずかに構えを低くし、ミハエルは引き金に指をかける。
次の瞬間──
影たちが一斉に飛びかかってきた。
「神の血を拒むか……」
オルシエル修道院長、ダミアンの声が響く。
その姿は薄暗い光の中に溶け込みながら、ゆっくりと現れた。
「ならば、その身をもって知るといい。この救済の力を」
その言葉とともに、修道士たちが一斉に襲いかかってきた。




