12. 血の実験場
ラウルが浅く息をつきながら、瞼をゆっくりと持ち上げた。
薄暗い室内。蝋燭の炎がわずかに揺れ、朧げな影を壁に映し出している。
意識がはっきりするにつれ、自分が柔らかなベッドに横たわっていることに気づいた。
この感覚はどれほどぶりだろうか。
まるで、長い間悪夢の中に囚われていたような気がした。
「……目が覚めたか」
低く響く声が、沈黙を破る。
ラウルはゆっくりと視線を巡らせた。
ベッドの脇に座る男──鋭い青の瞳が、じっとこちらを見据えている。金色の髪は無造作に伸ばされ、白いシャツの袖を捲った腕は意外にも細い。それでいて、どこか余裕のある佇まい。
一方、壁際に寄りかかるもう一人の男は対照的だった。
黒衣の上に白の騎士装束。腰に佩いた長剣を指でなぞる指先。
──聖騎士。
ラウルの背筋が強張る。
だが、喉が渇きすぎて声を出すことすら難しい。
「……俺は……まだ……」
「死んでない。運が良かったな」
男はそう言うと、手に持ったカップをラウルへ差し出した。
警戒すべきだ。
そう思いながらも、乾きに耐えきれず、水を貪るように飲み干す。
喉が潤い、ようやく僅かに息を整えると、男は軽く肩をすくめた。
「そんなに警戒するな。俺たちは 神聖調査局 から来た」
ラウルは息を呑んだ。
──神聖調査局。
異端審問官とは違う、教会のもう一つの調査組織。
裁くのではなく、調べる者たち。
「神聖調査局……」
絞り出すように呟くと、男はニッと笑った。
「俺はミハエル。そっちはコンラート。ま、よろしくな」
壁際の聖騎士──コンラートと呼ばれた男は、軽く顎を引くだけで答えた。
表情は硬いまま。
ラウルは喉を鳴らす。
「……それで、何の用だ」
「こっちが聞きたい。お前が何を見たのか、な」
コンラートが低く言う。
その声には、冷静ながらも緊張が滲んでいた。
ラウルは一瞬、躊躇したように視線をさまよわせる。
だが、やがて覚悟を決めたように唇を引き結び、静かに語り始めた。
「俺は……オルシエル修道院に戻った後、古い教会に囚われていた」
その言葉に、ミハエルとコンラートの表情が僅かに引き締まる。
「ヴァイデンの街外れにある、かつて放棄された教会……だが、あそこは今や修道院の影に潜む者たちの実験場になっている」
彼はかすかに震える声で続ける。
「『神の血』は、神の奇跡の証明だと聞かされていた……だが、実際には違った」
「違う?」
ミハエルが葉巻を指で転がしながら問い返す。
ラウルは息を詰まらせた。
瞳に恐怖の色が宿る。
「……人を変質させるものだった」
室内の空気が、まるで冷気を帯びたように重くなる。
コンラートは僅かに眼を細め、ミハエルは沈黙のまま葉巻を弄ぶ。
「俺が神の血のことを初めて知ったのは、帝都の教会だった」
ラウルはゆっくりと語り出す。
「同じ僧房の修道士が、オルシエル修道院から送られてきたという薬を持っていた。飲むと神の声が聞こえると……最初は、ただの迷信だと思った。だが、そいつは日に日に変わっていった。感覚が研ぎ澄まされ、心臓の鼓動が異常に速くなり、瞳孔が開きっぱなしになった。まるで、何かに取り憑かれたようだった」
ミハエルは眉を寄せた。
「ある夜、そいつは突然暴れ出したんだ。錯乱し、壁に爪を立て、意味不明の言葉を叫びながら、ついには自らの手で喉を裂いて死んだ」
言葉の続きを待つまでもなかった。
「……理性がなくるってことか」
ミハエルが静かに言う。
ラウルは小さく頷いた。
「神の血はオルシエル修道院から流れてきている……俺は調べるために帰ったんだ。俺の出身の修道院だから、何か情報を掴めるかもしれないと思って」
「……なるほど」
コンラートが小さく唸る。
「……俺は、オルシエル修道院に戻ってすぐ、何かがおかしいと感じた」
ラウルの声が低く沈む。
「昔はもっと活気があった。修道士たちが庭の手入れをしたり、祈りの声が響いたり……だが、今は違う」
一度、息をつき、続ける。
「修道士たちは皆、妙にぎこちない笑みを浮かべていた。目の焦点が合わず、まるで夢の中にいるような顔をしていた。俺が話しかけても、反応が鈍い。まるで、魂が抜けたみたいに」
コンラートが眉をひそめる。
「祈りの間では、時折低く呟くような声が聞こえた。最初は何を言っているのか分からなかったが……」
ラウルは喉を鳴らし、僅かに顔を伏せる。
「よく聞いてみると、『神の御声が聞こえる』と……」
蝋燭の炎がかすかに揺れる。
ミハエルは葉巻を指で転がしながら、静かに尋ねる。
「それで、お前はどうした?」
「俺は、不安になった。帝都での一件が頭をよぎったから」
ラウルは唇を噛みしめた。
「何かがおかしい、けれど、それが何なのか確信が持てなかったから、修道士たちの話を聞き、修道院の中を探りながら様子を見ることにした」
だが、とラウルは続ける。
「けれど、すぐに院長に怪しまれた」
「……」
「ある日、呼び出されたんだ祈りの間に。院長と数人の修道士に囲まれ、尋問を受けた。俺が帝都で見たことを話すと、院長の表情が変わった。そして……」
ラウルは、かすかに息を震わせた。
「そのまま捕らえられ、廃された教会に連れていかれた。それから……何度も神の血を投与された。俺は……俺は、もう駄目かと思った」
彼の瞳が震えている。かすかにこわばった指が、シーツを握りしめる。
「……だが、俺はまだマシな方だったんだ」
ラウルの唇がわずかに震える。
「……?」
ミハエルが煙草をくるりと転がしながら、促すように視線を向ける。
「……あの場所には、俺よりもずっと長く投与され続けた者がいた。神の血を試され続けた修道士たちが」
その言葉に、コンラートの表情が険しくなる。
「そいつらはもう……人間じゃなかった」
ラウルは唇を噛んだ。
「最初は、ただの服従の儀式だったはずだ。神の血を受け、神の声を聞き、信仰を試す……だが、一定量を超えた者たちは……」
一度、言葉を切り、ラウルはかすかに首を振る。
「目が虚ろになり、瞳孔が開きっぱなしになり……最初はただ、感情が薄れる程度だった。だが、次第に自分の意志がなくなっていく。命令されたことにしか反応しなくなる。そして、最後には──」
ゴクリ、と喉が鳴る。
「筋肉は異様に膨れ上がり、皮膚は蒼白になり……まるで、戦場に放たれた獣のようだった。痛みも感じない。骨が折れても、肉が裂けても動き続ける。意志も何もない。ただ、命じられたままに動く、院長はそいつらを恩寵の徒と呼んでいた、けれどあんなのまるで……化け物だ」
沈黙が落ちる。
コンラートが剣の柄を握りしめた。
「それは……」
ラウルが静かに言う。
「だけど、制御できるはずがなかった。何人もの修道士が、実験で犠牲になった……俺は、神の血が信仰のためなんかじゃないと、この目で見たんだ」
ラウルは、深く息を吐く。
「……だから、俺は逃げた。この街に。鐘楼に隠れ鐘を鳴らせば、誰かが気づいてくれるかもしれないと思って」
「気づいたのは、俺たちだったな」
ミハエルが肩をすくめる。
彼はかすかに目を伏せる。
コンラートとミハエルは視線を交わした。
「礼なら、神にでも祈るんだな」
ミハエルは茶化すように言うが、コンラートは沈黙したまま。
「──ラウル」
「……なんだ?」
「その恩寵の徒になった者たちは、今どこに?」
ミハエルが、深く葉巻を吸い込んでから、静かに問いかける。
ラウルの表情が凍りついた。
「……まだ、あの教会にいる」
しん、と静寂が降りた。
「……行くか」
ミハエルが腰を上げる。
「まさか、行く気か?」
「当然だろ。お前が見たものを、俺たちも確かめないといけない」
ミハエルは、ニヤリと笑う。
「それに、俺たちはこういう仕事だからな」
コンラートが剣の鞘を軽く叩いた。
ラウルは、震える唇を押さえながら、絞り出すように言った。
「──気をつけろ。あいつらは……本当に、人間じゃない」
「……それにしても」
ミハエルが椅子の背にもたれながら、低く呟く。
「局長の処に来た報告と、随分と違うな」
「違う?」
ラウルが困惑の表情を浮かべる。
「俺たちは上からお前が『神の声が聞こえる』と言った、と聞かされていた。そして僧房の連中が止めるにもかかわらずオルシエル修道院へ帰ったと」
コンラートが補足する。
「お前がオルシエル修道院に帰ったのは合っている。だが、どこかで話が捻じ曲げられていた」
ミハエルは、葉巻を指で弾いた。
「……まぁ、だいたい分かった」
コンラートも腰の剣に手をかけ、ラウルを見下ろす。
「お前はここで休め。ここから先は、俺たちが確かめる」
ラウルは唇を噛んだが、静かに頷いた。
「……気をつけてくれ」
ミハエルとコンラートは荷物を整え、静かに宿を出る。
冷たい夜風が、彼らの間を吹き抜けていく。
目的地は、ヴァイデンの街外れ──
古びた教会。
“神の血”の真実を暴くために。
お読みいただきありがとうございました。明日19時にエピローグまで一気にアップします!




