2 イッサールの謎 ①
治安維持局、その名前を聞けば、ほとんどの人間は正義を司る機関だと認識するだろう。それは間違いではないし、実際、教科書上ではそのように教えられる。
ただし、教科書が完全な現実を映し出しているのかを考えた人間はほとんどいないだろう。教科書に書いていることは正しいものとして教わるのだから、無理もない。
二十九歳のシーナはアールベスト地方の北部の街、イッサールを訪れていた。現代魔法研究所の指導官をしているのだから本来であればアールベストに来るべきではないのだが、どうしても来る必要ができてしまったために来たものだった。もちろん何日も滞在する気はなく、夜には現代魔法研究所に帰る予定だ。
「お待たせ、シーナ」
待ち合わせ場所のイッサール中心地のカフェに登場したのは、レイチェル・カールトンだ。美しい容姿ではあるが、目尻にシワがあり、昔とは随分と印象が変わった。
シーナは店員に追加で紅茶を頼み、斜め前のイスを引いて歓迎した。
「久しぶり、レイチェル。最後に会ったのは、……随分と前だね」
シーナが学校を出る直前に会ったのが最後だ。それまでも何度か立ち話をすることがあったため、シーナが急に学校から姿を消したことに彼女は違和感を覚えていただろう。
「よく手紙を送ってこられたね」
「学長に相談したの。最近シーナを見ないから、どうしてますかって。そしたら、ちょっと遠くに出張しているから、必要なことがあったら代わりに手紙を出しておくよって言ってくれて」
シーナがここに来たのは、いつもどおりのダランとの手紙の中で、レイチェルが会いたがっているという記載があったのを見たからだ。周囲を確認したところ、イールスや他の教員は来ていない。おそらく、レイチェルのことを信頼しているからこそ、誰も監視に来なかったのだろう。
また、シーナが一時的にイッサールに来ることも、半ば了承してくれたということだろう。
「で、要件は? 単なる雑談じゃないんでしょ?」
シーナが言うと、レイチェルは大人っぽく笑った。昔から彼女は非常に上品だ。
「わかっているのね。……昔聞いた、フローラのことで」
「……何かわかったの?」
シーナはテーブルに身を乗り出した。しかし、ちょうどそのタイミングで紅茶が運ばれてきたので、またイスに深く腰掛けた。
「あなたが当時言っていたように、話の裏にダランの存在がある。それに、治安維持局のエニンスル半島担当部も」
「詳しく聞かせてほしい」
「もちろん。でも、先に紅茶を飲ませて。昨日の夜に馬車でグランヴィルを出たの。それで疲れちゃって。あなたは——」
「アープだよ」
「でしょうね。シーナのアープは正確だって評判だったから」
アープは大変に便利なコントロール系魔術の高等魔法だ。しかし、正確性という課題をクリアするには練習やセンスが必要だ。コントロール系魔術の中でも比較的扱いが簡単なアープだが、目的地に正確に到着するのは難しく、それゆえ高等魔法に位置付けられている。
シーナはセンスが良いため正確性も抜群だったが、ほとんどの生徒や教員はおおよその方向に飛ぶことしかできない。娘のルーカスも、アープにおいてはセンスがない方の一人だ。
「……そうそう、レイチェル、副学長になったんだっけ?」
「そうなの、なってしまったの」
「嬉しくなかったの?」
「……生徒との距離が遠くなるのは、なんとなく寂しいというか」
レイチェルがそんなことを言うので、シーナは笑った。
「学校の先生って、みんな副学長とか学長になるのが夢なのかと思ってた」
「もちろん、そういう人も多いと思う。でも、私はあまり向いていないかも」
しかし、生徒や教員の間で、レイチェルの悪い噂を聞いたことは一度もない。そんな人望の厚い人間が副学長や学長をしなければ、他の誰がなるのか。
しばらくそんな雑談をしていたが、二人は紅茶を飲み終えるとすぐにカフェを出た。
◇◆◇
二人は、フローラが転落したとされる橋までやってきた。人々が行き交う橋の上で、二人は並んで橋の下を眺めた。
「ここから落ちて、事故死したというのが治安維持局の結論だった」
「しかし、シーナは今でもその結論に納得していない?」
「うん。だから、レイチェルの話を聞きたい」
「わかった」
レイチェルとシーナは、以前マックス・トラベルがそうしたように、橋台の裏へと歩いた。
「レイチェルもこの場所を?」
「あれから、時間があれば時々ここに来てみたの。シーナの言っていることがあまりにも衝撃的だったから」
「ありがとう。それで、何がわかったの?」
レイチェルは橋台に手を当ててシーナの目を見た。
「総合指揮官室の本棚から、事件の一部始終の記録が出てきたの。それによると、フローラが亡くなったことを事故として処理するように、ダランの学長名で治安維持局に依頼が出ていた」
「でも、イールスがそうしたとは考えたくない。……学長になりすました第三者がそれをした可能性が高いかな」
「そういうことよ」
レイチェルは頷いた。
ダランが関与していたとわかっただけでも大きな進歩だ。しかし、単に学校というわけではなく、学長名で治安維持局に依頼していたということは、相当に事故として処理してほしい気持ちがあったのだろう。
真っ先に考えられる主導者は、当時総合指揮官だったリリアだ。実際、リリアは記憶の中でフローラを殺したと言っていた。それをそのまま読み取れば、彼女が後始末も指示した可能性がある。
「……リリアかな?」
「そう思ったの、私も」
「ということは、他の誰かが?」
レイチェルは黙って頷いた。しかし、すぐに誰だと言わない彼女に対し、シーナは歯痒さを感じていた。
「……で、誰なの?」
「順を追って話すわ」
レイチェルは橋台から手を離すと、その場に座り込んだ。シーナもその横に同じようにして座った。
「フローラを殺害するべきだという考えは、実際に彼が亡くなる前から総合指揮官の中ではあったみたい。でも、本当に実行するか、いつ実行するか、そういったことの中身は確定していなかった。しかし、総合指揮官が決断するタイミングが来たの。フローラの家庭事情を知ったのよ。それ以降、物事は順調に進んだ。誰が記録を見ても事故だと思えるように、橋から転落するストーリーを作ったのよ」
シーナは深刻そうな眼差しで語るレイチェルの顔を覗き込んでいた。それに気が付いたレイチェルは、深いため息をこぼした。
それにしては、フローラが川に落ちていってしまうような状況など、簡単に作れるものだろうか。シーナはそんな疑念を抱きながら口を開いた。
「当時の状況を説明した治安維持局の資料によると、フローラは橋から落ちてしまったらしいの。であれば、外見上、まるでフローラが足を踏み外したかのように川に落ちていったということだよね。この言葉だけを聞くと、私だって事故だと思ってしまう。けど、実際はリリアが……ダランが仕組んだものなんでしょ? 何をしたらフローラが川から落ちていくんだろう」
シーナは橋の裏側を見上げた。フローラが気になるようなものが描かれていたのだろうか。そうであっても、そんなに簡単に足を踏み外してしまったり滑らせてしまったりということはあるだろうか。
「シーナ、来て」
レイチェルに連れられ、今度はまた橋台の上へと登った。
アーチ橋の中央部分まで来たところで、レイチェルは手すりに身を乗り出して片腕を水平に伸ばした。
「この状態。これが、転落する直前のフローラの姿勢だったとされている。見たらわかると思うけど、彼は何かを掴もうとしていた。けど——」
レイチェルは腕を引っ込めると、橋の下に視線を動かした。
「あまりにもその何かが遠くにあったのか、身を乗り出しすぎた彼はここから落ちてしまった」
「確かに、そんなに身を乗り出していたなら、不意に足を滑らせたりすれば簡単に橋から落ちることはわかる。なら、一体何が彼の目の前にあったの?」
シーナはレイチェルの顔を見たが、レイチェルはシーナの方を向くことはなかった。
「シーナ、今までの話を聞いて、冷静になってよく考えてほしい。フローラは仮にも大人よ? この手すりから身を乗り出したら川に落ちることぐらい、わかると思わない?」
「……まさか、これまでのストーリーが嘘だった?」
「そう」
レイチェルはようやくシーナと目を合わせた。ようやくわかってくれた、という顔をしている。
「私が今話した、フローラが川に落下したときの状況は、すべて治安維持局のレポートによるものなの。一般に公表されている内容よ」
「けど、治安維持局の出しているレポートは、ダランが作り出したストーリーに基づいている……」
シーナが続けると、レイチェルは首肯した。
「私が話したことは嘘じゃない。でも、真実ではない。もっともらしい作り話だったの」
「で、本当は何が起こっていたの?」
「さっき、橋台の裏に行ったときに、ある違和を感じなかった?」
記憶を蘇らせようとしたが、つい先ほどの記憶ではなく、十五歳のときの記憶が蘇ってきた。
「そうだ、血痕があった」
「よく見ているわね。正解」
また二人は橋台の裏に戻ってきた。先ほどは見ていなかったが、あのときと同じ場所に、血痕がうっすらと残っている。
「この形、見てわかるとおり、フローラは川に落とされたの」
「つまり、ここでナイフで刺されて死んでから川に流されたか、ナイフで刺して弱っているところを川に流されて死んだか、ということか……」
シーナは腕を組んでいたが、レイチェルは首を横に振った。
「川に落とされたのは確かよ。でも、殺されたのはここではないわ。もしここでナイフで刺したりしたら、騒いでいる声とかが聞こえるでしょうし」
レイチェルはまた橋台の上に戻ろうと歩き始めた。
「来て、殺害現場に行こう」
彼女の後ろに続こうとシーナは歩き始めたが、もう一度振り返って血痕のある場所を見た。そこにフローラの姿はないが、どうも穏やかではない空気が流れているような気がして、シーナは身震いした。




