第94話 回収便の朝
北方一号を迎えるための準備は、すべて整いました。
けれど、準備完了の表示が出たからといって、道まで安全になったわけではありません。
誠司たちは雪のあとを点検し、待つ人へ状況を伝える仕組みを整えてから、初めての北方回収便を出発させます。
出発予定日の前日。
北方では、夜明けまで雪が降り続いた。
冬季中継所の屋根に積もった雪は、前日の倍近い厚さになっている。
入口の扉を開けると、膝ほどの高さまで白い雪が押し寄せていた。
誠司は外へ出る前に、運行表の日付へ一本の線を引いた。
中止ではない。
延期でもない。
その横へ、小さく書き加える。
――経路点検日。
「今日は回収へ行かないんですね」
エレナが窓の外を見た。
雪は止んでいる。
雲の隙間から、薄い日差しも見えていた。
「行けるように見えます」
「ここから見える範囲は、です」
誠司は北方の経路図を机へ広げた。
北砦。
冬季中継所。
返送庫。
北方引継所。
第一照会所。
荷重分散橋。
第二照会所。
第三休所。
第三引継所。
補給網中枢。
一つの道だが、場所ごとに危険は違う。
雪原では標識が埋もれる。
岩壁沿いでは雪崩が起きる。
荷重分散橋には、屋根から落ちた氷が載るかもしれない。
凍結坂では、水受けが雪で詰まる。
「回収便には、低温休眠容器を載せて戻ります」
誠司は言った。
「行きに通れた道が、帰りにも通れるとは限りません」
「先に道だけ見に行くのか」
ガランが工具袋を持ち上げた。
「はい。ただし、全員では行きません」
経路点検隊は、カイルと北砦の隊員二人。
返送庫までは満タン便を使わず、北方用の軽いそりで進む。
返送庫から先は、カイルとガラン。
第二照会所から第三引継所までは、ガランとエレナ。
区間ごとに担当を替える。
全員が最奥まで進めば、同じ場所を往復するだけで一日が終わる。
点検者が疲れれば、修理の判断も遅れる。
「異常がなければ、印を一つ」
ロウグが木札を並べた。
青い丸。
「軽い補修で使えるなら、二つ」
青い丸が二つ。
「今日中に直せない場合は?」
「赤い斜線です」
それぞれの中継地点に、報告札を残す。
後続の者は、前の区間まで進まなくても状態を確認できる。
返送庫から冬季中継所へは、カイルの部下が札を運ぶ。
冬季中継所から北砦へは定時連絡便。
北砦から水車町までは、バシールが手配した通常便へ引き継ぐ。
「回収便を待っているのは、俺たちだけじゃありません」
誠司は言った。
水車町の返送受入所。
リアの薬師仲間。
北砦。
雪の集落。
北方便が動くと知った者たちは、それぞれ準備をしている。
出発が遅れたなら、遅れたことを伝える必要がある。
何も知らせなければ、待つ者は最悪の出来事を考えてしまう。
「便が進んでいないときも、知らせは進めます」
バシールが以前言った言葉が、誠司の中に残っていた。
待つ者の不安も運ばなければならない。
ロウグは連絡札の表へ、三つの欄を作った。
出発前
経路点検中
回収便運行中
裏側には、さらに三つ。
予定どおり
遅れあり
運行停止
文字が読めなくても分かるように、絵も添える。
太陽。
傾いた太陽。
閉じた道。
「水車町には、どの間隔で知らせますか?」
「午前と夕方の二回」
誠司は答えた。
「変化がなくても送ります」
「変化がないなら、同じ札になります」
「同じで構いません」
何も起きていない。
予定どおり待っている。
その情報にも価値がある。
知らせが来ないことと、変化がないことは違う。
その日の朝。
最初の札が南へ送られた。
北方一号回収便
状態――経路点検中
出発――翌日以降
人員異常なし
水車町へ届くころには夕方になる。
それでも、何も分からないまま待つよりはよかった。
*
経路点検は、予定より時間がかかった。
返送庫までは、大きな異常なし。
三本線の一部が埋まっていたが、標識棒はすべて残っている。
青い布と白い布を掘り出し、雪面より高い位置へ結び直した。
北方引継所では、方向転換場所の片側に雪が吹き溜まっていた。
満タン便が南向きに停車するための広さが足りない。
カイルたちは、車輪が通る場所だけを除雪した。
広場全体ではない。
満タン便の前輪が回る線。
人が誘導に立つ場所。
回収そりを降ろす場所。
必要な範囲を先に決め、それ以上は掘らない。
「全部きれいにする必要はない」
カイルは隊員へ伝えた。
「使うところを、確実に空けろ」
第一照会所は正常。
送達管から、一定の風音が聞こえている。
荷重分散橋には、薄い雪が積もっていた。
ガランが板の一枚ずつを叩く。
乾いた音。
金具に緩みはない。
橋の下を通る送達管も、変形していない。
ただし、橋の北側に小さな氷柱が落ちていた。
誰かが蹴れば、石畳の上を転がる程度の大きさ。
だが、低温休眠容器を載せたそりが乗り上げれば、大きく傾く可能性がある。
氷柱を取り除く。
そのあと、頭上を確認する。
同じ場所へ新しい氷が育ち始めていた。
「落ちた物だけ片づけても、また落ちるな」
ガランは岩壁から染み出す水を見た。
高い場所へ手は届かない。
足場を組めば、点検だけで半日かかる。
「橋の手前へ、見張り札を置きましょう」
エレナが提案した。
橋へ入る前に、上を見る。
路面を見る。
一台ずつ渡る。
既存の制限札へ、氷柱を示す印を追加する。
さらに、橋の入口に長い棒を置いた。
橋へ入る者は、その棒で上部と路面を確認する。
「除くより、見つける仕組みか」
ガランが言った。
「毎日同じ場所にできるなら、毎回確認できます」
壊れない道を作ることは難しい。
だが、壊れかけた場所を見つけられる道にはできる。
第二照会所も異常なし。
二鍵保管箱は空。
署名原本を届けた記録だけが残っている。
そこから北。
凍結坂の水受けは、半分ほど雪で詰まっていた。
溶けた水が一部、石畳へ流れている。
薄い氷ができ始めていた。
「昨日の雪だけじゃない」
ガランが金属板を外した。
水受けの中から、枯れた草と細い枝が出てくる。
上の岩場から流れ込んだものだ。
「入口に網が必要ですね」
エレナが言った。
「細かい網では、すぐ詰まる」
ガランは太い金属棒を格子状に組んだ。
枝だけを止める。
雪と水は通す。
「詰まらない設備は作れん」
ガランは格子を固定した。
「詰まっても、すぐ外せるようにする」
留め具は二つだけ。
工具を使わなくても外せる。
水受けの横には、掃除用の細い棒を置く。
使用後、元の位置へ戻したことが分かるよう、棒の形に合わせた溝も作った。
道具があるかどうかを、数えなくても確認できる。
第三休所。
異常なし。
第三引継所。
外側の扉は閉まっている。
温度調整装置も動作している。
ガランとエレナは、外扉を一度開閉した。
床の溝に氷はない。
滑車の音も滑らかだった。
最後に、回収そりと同じ幅の木枠を扉の間へ通す。
左右の余裕。
高さ。
床の段差。
問題なし。
壁の表示板へ、点検完了の文字が浮かんだ。
回収経路――使用可能
経路点検――完了
有効期限――次の降雪まで
エレナは最後の一文を記録した。
「ずいぶん短い有効期限ですね」
「道は完成したら終わりではないからな」
ガランが扉を見た。
「雪が降るたび、確かめ直せってことだ」
夕方。
経路点検完了の札が、冬季中継所へ届いた。
青い丸が一つ。
すべての区間が使用可能。
ただし、荷重分散橋では氷柱確認。
凍結坂では水受け清掃。
二つの注意事項が加えられていた。
誠司は運行表の出発欄へ、翌日の日付を書いた。
今度は線を引かなかった。
「北方一号回収便」
ロウグが読み上げる。
「明朝、出発」
南へ送る連絡札も切り替える。
状態――回収便運行予定
出発――明朝
経路――使用可能
注意区間――二か所
水車町で、この札を受け取る者がいる。
返送受入所の暖炉へ火を入れる者。
寝台を整える者。
薬を準備する者。
待つ仕事も、同じ時刻から始まる。
*
回収便の朝。
誠司は、まだ暗いうちに満タン便の前へ立った。
赤い車体には、薄い霜が付いている。
まず、右前輪。
左前輪。
車体下部。
排気口。
灯火。
燃料。
飲料水。
荷台。
いつもと同じ順番。
特別な便だからといって、確認の順番を変えない。
焦っているときほど、体が覚えている手順を使う。
荷台中央には、可動枠。
ゴム板。
調整用のくさび。
固定帯。
氷晶石制御箱。
出庫温度基準札。
温度計。
連絡用の紐。
回収そりも、左右へ固定されている。
保存食と工具は、必要最小限。
荷台の大部分が空いていた。
「回収用空間、確保」
ロウグが読み上げる。
「可動枠、異常なし」
ガランが固定帯を引く。
「温度保持設備」
リアが出庫温度基準札を確認した。
青い光は一定。
「適合表示、継続中です」
カイルは車外の天候を確認する。
「風、弱い。北の雲も高い」
最後に、誠司は座席を確認した。
運転席。
助手席。
どちらも空。
補給網中継器には、次の表示が出ている。
回収時必要空席――二席確保
北方一号回収便――出発可能
「乗車します」
誠司が運転席へ。
ロウグたちは後方の補助席へ座る。
助手席には、何も置かない。
北方補給網中枢の管理人が帰路で座るための場所。
行きの間は、空いたままだった。
誠司はエンジンをかけた。
低い振動が、冬季中継所の前へ広がる。
「急がない」
誠司は自分へ言い聞かせるように呟いた。
「続けられることが一番大事です」
ロウグが続けた。
満タン便は、ゆっくり北へ走り出した。
*
北方返送庫へ到着したのは、予定時刻の少し前だった。
青い標識棒のそばに、預かり手の女性が立っていた。
灰色の外套。
雪板。
足跡をならす枝。
今日は革鞄のほかに、小さな木箱を抱えている。
誠司は満タン便を南向きに止めた。
帰る方向へ車首を向ける。
エンジンを切る。
車輪止め。
周囲確認。
それから、返送庫へ向かった。
「お待たせしました」
「時間どおりです」
預かり手は答えた。
「道は使えます」
「点検記録も受け取りました」
彼女は小さな木箱を差し出した。
「回収便へ追加したい物があります」
誠司は、すぐには受け取らなかった。
まず、台の上へ置いてもらう。
「荷名は?」
「休眠解除後の補給品です」
木箱の中身は、乾燥した果実。
薄い塩の板。
香りの弱い茶葉。
小さな木の匙。
どれも軽い。
「北方一号が目を覚ましたあと、口にする物ですか?」
「すぐには食べさせません」
預かり手は答えた。
「管理人が状態を確認し、リアさんが許可したあとに使います」
リアが内容を確かめる。
刺激の強い香草は入っていない。
量も少ない。
「医療品ではなく、回復後の生活用品として扱います」
リアが言った。
「使用時期は、水車町で判断します」
預かり手が頷く。
誠司は荷札を作った。
荷名――北方一号覚醒後補給品
使用条件――医療担当者の許可後
使用場所――水車町返送受入所
差出人――返送庫預かり手
名前の代わりに、丸の中の三。
仮登録された預かり手の印を押す。
「受領します」
木箱は満タン便の荷台へ載せる。
ただし、低温休眠容器の可動枠から離れた場所。
保冷区画にも置かない。
覚醒後に使う品を、休眠中の容器と同じ扱いにはしない。
次に、第一配送者宛ての書簡を引き継ぐ。
返送庫の二鍵保管箱。
一つの鍵を預かり手。
もう一つを誠司。
二人が同時に回す。
箱の中には、白い布に包まれた書簡。
対面受領の荷札。
受領資格を示す金属札。
封印異常なし。
「第一配送者宛書簡」
ロウグが読み上げる。
「最終配送先、補給網中枢・返送不能品保管区画」
「配送条件」
預かり手が続ける。
「第一配送者本人への対面受領。受領資格確認必須」
「受取人不在、または受領拒否の場合」
「水車町返送受入所へ返送」
すべて一致した。
誠司が受領欄へ署名する。
預かり手が、丸の中の三を押す。
二本の手の受領印。
第一配送者宛ての書簡は、正式に回収便へ引き継がれた。
荷台ではなく、後方補助席の下にある施錠箱へ収める。
低温休眠容器を載せると、荷台で書簡を取り出せなくなる。
返送不能品保管区画へ行くのは、容器の引渡しを終えたあと。
そのとき、すぐ持ち出せる場所に置く。
「あなたは、返送庫で待ちますか?」
誠司が尋ねた。
「はい」
「帰路の予定は、往路の二倍で組んでいます」
「遅れた場合は?」
「第三引継所から照会票を送ります。返送庫にも定時札が届くようにします」
預かり手は、小さく頷いた。
「帰ってこなかったら?」
誠司は運行表を見た。
「予定時刻を二時間過ぎたら、冬季中継所へ警告札を送ってください。ただし、ひとりで人送路へ入らないでください」
「助けに行かなくていいのですか」
「待つ場所を空にしないでください」
預かり手は誠司を見た。
その言葉は、彼女たちが引き継いできた役目と同じだった。
来る者を信じて。
返送庫を空にしない。
「分かりました」
彼女は白い布を返送庫の入口へ結んだ。
帰る便を待つ印。
「ここで待ちます」
満タン便は、返送庫を出発した。
*
北方引継所。
回収そりを降ろす。
満タン便を南向きに停車。
運転席と助手席から、全員が降りる。
補給網中継器の表示。
回収時必要空席――二席確保
車両待機状態――適合
誠司は鍵を抜いた。
低温休眠容器を迎えたあと。
誠司が運転席へ戻る。
管理人が助手席へ座る。
二つの空席は、帰路で埋まる。
五人は回収そりを引き、人送路へ入った。
第一照会所。
荷重分散橋。
橋の手前で長い確認棒を使う。
頭上。
路面。
氷柱なし。
一台ずつ通過。
第二照会所。
凍結坂。
水受けの格子を外す。
枝が一本引っ掛かっていた。
取り除く。
格子を戻す。
掃除棒を所定の溝へ収める。
空のそりは、横縄を越えながらゆっくり坂を下った。
第三休所。
短い休憩。
手足の確認。
水分。
出発時刻。
帰路予定。
異常なし。
第三引継所へ到着したのは、予定より三分早かった。
外側の扉。
床溝。
滑車。
温度調整装置。
すべて正常。
「回収便を申告します」
誠司が漏斗へ向かって言った。
「水車町返送受入所。回収責任者、田村誠司」
女性の声が返る。
「北方一号回収便を確認しました」
内側にいる、補給網中枢の管理人。
「同行人員を申告してください」
「田村誠司。ロウグ。ガラン。リア。カイル」
「回収そり」
「一台」
「出庫温度基準札」
リアが番号を読み上げる。
管理人が照合する。
「一致しました」
続いて、第一配送者宛ての書簡。
封印番号。
対面受領条件。
不達時の返送先。
一つずつ確認する。
「すべての付随荷物を確認しました」
管理人の声が言った。
「外扉を閉じます」
五人と回収そりが、二枚の扉の間へ入る。
外扉が閉じた。
温度が少しずつ下がる。
急には変わらない。
出庫温度基準札の青い光が、ゆっくり強くなった。
やがて。
内側の扉が音もなく開いた。
冷たい空気が流れ込む。
その向こうに、一人の女性が立っていた。
白に近い灰色の上着。
長い髪を後ろで束ねている。
年齢は、預かり手より上に見える。
だが、第一配送者の記録が残された時代から生きている者には見えない。
胸元には、向かい合う二本の手の印。
「北方補給網中枢管理人です」
女性は頭を下げた。
「回収便の到着を確認しました」
誠司たちも名乗る。
管理人は全員の顔と装備を確認した。
回収そり。
固定帯。
停止爪。
温度計。
記録板。
最後に、誠司の手を見る。
「受取人署名と一致します」
「筆跡ではなく、手を見るんですか」
「手は、荷物の扱い方を記録します」
管理人は答えた。
「傷。厚み。力を入れる位置。長く使った道具と同じです」
誠司は自分の手を見た。
配送車のハンドル。
荷物の角。
台車の持ち手。
ロープ。
日本で働いていたころから残る、小さな傷。
北方一号と同じ第二配送者登録。
だが、身体情報は測定不能と表示されていた。
「北方一号の手と、同じですか?」
誠司が尋ねる。
管理人は少し間を置いた。
「同じではありません」
「では、なぜ同一人物として登録されているんです」
「中枢は、人の同一性を身体だけでは判断しません」
「何で判断するんですか」
「どの約束を、自分の荷物として引き受けたかです」
管理人は、それ以上説明しなかった。
「先に出庫手続きを行います」
中枢の内部は、長い通路になっていた。
壁の中を青い光が流れている。
左右には、小さな扉。
飲料。
燃料。
医療。
修理。
文字と記号が付いている。
世界中の補給庫へつながる設備なのだろう。
だが、誠司は立ち止まらなかった。
今日は見学ではない。
北方一号を迎えに来た。
管理人の後ろを進む。
やがて、広い部屋へ出た。
中央に、一台の低い台。
その上に、透明ではない灰色の容器が載っている。
人が一人横になれる大きさ。
表面は薄い霜に覆われていた。
容器の周囲には、四本の冷却管。
細い光が、一定の間隔で脈打っている。
「北方一号です」
管理人が言った。
中にいる人物の姿は見えない。
名前も表示されていない。
側面には、北方一号という番号。
低温休眠。
生命反応あり。
返送先、田村誠司。
誠司は容器へ近づきすぎない。
まず床。
移動台。
出口までの幅。
回収そりの位置。
作業できる人数。
確認する。
「容器の重量は?」
ガランが尋ねる。
「人員を含め、二百八十七重量単位」
「こちらの荷重表に換算できますか」
管理人が壁の表示を切り替えた。
ガランは数字を見て、回収そりの試験重量と比べる。
「試験より少し重い」
「固定帯を二本追加します」
誠司が言った。
「坂の制動人員も一人増やします」
「往路は五人でした」
カイルが周囲を見る。
「復路は管理人を含めて六人。管理人にも制動へ入ってもらう必要がある」
「承知しました」
管理人は即答した。
「中枢の外では、運行責任者の指示に従います」
地位や知識があっても、道の上では役割を分ける。
誰か一人が、すべてを決めるわけではない。
リアが出庫温度基準札を、容器側面の受け口へ差し込んだ。
青い光がつながる。
札の目盛りに、一本の線が現れた。
「これが出庫時の基準温度」
リアは記録板へ写した。
時刻。
室温。
容器表面温度。
内部基準温度。
生命反応表示。
「変化なし」
ロウグが記録する。
容器を載せ替える前に、回収そりを移動台の横へ寄せる。
高さを比べる。
そりのほうが、わずかに低い。
持ち上げる必要はない。
容器の下へ布帯を通し。
手の幅一つだけ浮かせ。
移動台からそりへ滑らせる。
水車町で何度も練習した手順。
だが、本物は試験用の樽と違う。
中には、人がいる。
「作業を開始します」
誠司が言った。
一つ目の布帯。
二つ目。
前。
中央。
後ろ。
五人で位置を確認する。
管理人は容器の頭側に立った。
「こちらが上部です」
印はある。
しかし霜で見えにくい。
ガランが、霜を削らず布で軽く払う。
矢印が現れた。
「上下、確認」
「傾き上限は?」
「目盛り一つまで」
管理人が容器側面の小さな振り子を示した。
傾くと、青い線が左右へ動く。
持ち上げる。
高くしない。
そりを差し込む。
下ろす。
布を挟む。
固定帯を交差させる。
容器へ直接金具を当てない。
くさびで左右の隙間を埋める。
固く締めすぎず。
動かない程度に。
ガランが一つずつ確認する。
「前、固定」
「中央、固定」
「後ろ、固定」
リアが温度基準札を見る。
変化なし。
振り子。
中央。
生命反応。
継続。
「搬送可能です」
管理人が言った。
補給網中継器に表示が現れる。
北方一号
中枢保管設備より出庫
回収便へ引継ぎ中
誠司は受領帳を開いた。
引渡人――北方補給網中枢管理人
受取人――田村誠司
荷名――北方一号
荷姿――低温休眠容器
状態――生命反応あり
開封――不可
出庫温度――記録済み
管理人が署名する。
誠司が署名する。
二本の手の受領印。
ごん、と低い音が室内へ響いた。
引継ぎ――完了
北方一号は、長く留め置かれていた中枢の台を離れた。
まだ一歩も動いていない。
水車町へ届いてもいない。
それでも、止まっていた荷物が、正式に回収便へ引き継がれた。
誠司は回収そりの前へ立った。
「帰ります」
管理人が、中枢の奥を振り返る。
「その前に、第一配送者宛ての書簡を確認しますか」
誠司は時計を見る。
今日の運行表には、書簡の受領確認時間も含めてある。
十五分。
対面受領できなければ、持ち帰る。
「はい。ただし、十五分までです」
管理人は頷いた。
「返送不能品保管区画へ案内します」
*
保管区画は、北方一号の部屋から遠くなかった。
扉の前で、誠司は第一配送者宛ての書簡を取り出す。
封印。
荷札。
受領資格札。
異常なし。
管理人が扉横の読み取り台へ、受領資格札を差し込んだ。
受取人資格――第一配送者
対面受領指定――確認
扉が開く。
中は暗かった。
冷却設備のある部屋ではない。
乾いた空気。
壁際に並ぶ棚。
届け先を失った荷物が、番号ごとに保管されている。
衣類。
工具。
手紙。
壊れた標識。
片方だけの靴。
使われなかった受領印。
物だけではない。
奥には、人が横になれる大きさの寝台が一つあった。
だが。
誰もいなかった。
毛布が畳まれている。
枕元に、古い配送帽。
赤い荷車を示す印が縫い付けられていた。
「人員記録、一名と表示されていました」
ロウグが言った。
「第一配送者は、どこにいるんですか」
管理人は寝台へ近づいた。
「この区画から出ていません」
「でも、いない」
「はい」
壁の表示には、確かに記録がある。
返送不能品保管区画
人員記録――一名
受領資格――第一配送者
在庫状態――保管中
誠司は書簡を持ったまま、部屋の中央に立った。
「第一配送者への配送です」
声に出す。
返事はない。
もう一度。
「第一配送者宛ての書簡をお届けします」
棚の奥で、小さな音がした。
かちり。
古い受領印が、ひとりでに倒れた。
続いて。
空の寝台の下から、細長い金属板が滑り出てくる。
管理人も動かなかった。
誰かが押したようには見えない。
金属板には、第一配送者の印が刻まれていた。
ロウグが文字を読む。
受領資格を確認しました。
荷物は受け取りません。
誠司は息を止めた。
受取人は不在に見える。
しかし、受領を拒否する返答が出た。
荷札の条件どおりなら、書簡は水車町返送受入所へ持ち帰る。
「受領拒否を記録します」
ロウグが帳面を開いた。
「理由は?」
金属板に、次の文字が浮かぶ。
宛先が違います。
「第一配送者宛てと書いてあります」
エレナが言う。
さらに文字。
第一配送者は、ここに保管されている人員ではありません。
室内が静まった。
人員記録。
受領資格。
空の寝台。
第一配送者の配送帽。
すべてが、第一配送者本人の所在を示しているように見えた。
だが、金属板は否定している。
最後に、新しい宛先が表示された。
正しい配送先――満タン便・運転席
誠司は、文字を読み返した。
「満タン便の運転席?」
管理人が初めて、驚いた表情を見せた。
「この配送先は、以前は登録されていませんでした」
「運転席に置けばいいということですか」
誠司が尋ねる。
「対面受領指定です」
ロウグが答えた。
「運転席という場所ではなく、そこに座る誰かへ渡す必要があります」
満タン便の運転席へ座るのは、誠司。
だが、書簡の宛名は第一配送者。
「誠司さんが、第一配送者だということですか」
エレナが言った。
「違います」
誠司はすぐに答えた。
配送帳面は、田村誠司を第二配送者として登録している。
第一配送者の記録も、誠司がこの世界へ来るより前から存在している。
同じ人物とは考えにくい。
「今は決めません」
誠司は書簡を外装箱へ戻した。
「受取人を確認できないので、返送条件に従います」
水車町返送受入所へ持ち帰る。
途中で満タン便の運転席へ置くこともしない。
運行中に宛先を勝手に変更しない。
「北方一号の回収が先です」
時計を見る。
十五分。
予定時間の終わりだった。
誠司たちは保管区画を出た。
空の寝台。
古い配送帽。
受領を拒否した金属板。
すべてを、そのまま残す。
書簡だけを持ち帰る。
管理人が扉を閉める。
表示は変わった。
第一配送者宛書簡
配送状態――受領拒否
返送先――水車町返送受入所
宛先変更候補――満タン便・運転席
宛先変更――未承認
勝手には変わっていない。
候補のまま。
承認するかどうかは、これから確認する。
*
中枢を出る前に、役割を変更した。
往路は五人。
復路は六人。
管理人は、凍結坂での制動補助へ入る。
第三休所までは、ガランが先頭。
カイルと誠司が前方の引き手。
ロウグ、リア、管理人が後方制動。
エレナは容器横の傾き確認と記録。
役割を声に出して確認する。
「温度」
「基準線と一致」
「生命反応」
「継続」
「固定帯」
「前、中央、後ろ、異常なし」
「書簡」
「施錠箱へ保管。返送指定」
第三引継所の内側へ、回収そりを入れる。
内扉が閉じる。
温度調整。
急に外気へ出さない。
出庫温度基準札の線を見ながら、少しずつ変える。
容器の温度は維持する。
人がいる通路の温度だけを、外側へ近づける。
管理人が助手席へ乗るのは、北方引継所へ戻ってから。
それまでは、人送路を一緒に歩く。
外扉が開いた。
帰路が始まる。
空のそりより、はるかに重い。
最初の一歩で、全員が違いを感じた。
引く力だけでは動かない。
後ろから押す。
左右を支える。
合図を揃える。
「前、手の幅一つ」
「手の幅一つ、進めます」
「停止」
「停止」
ゆっくり。
予定より遅くても。
容器の傾きと温度を優先する。
第三休所までの二百四十街道歩。
往路では短く感じた距離が、帰路では長かった。
途中で一度、右側の滑走板が雪へ沈んだ。
「停止」
全員が合図を復唱する。
停止爪。
固定。
傾き目盛り。
許容範囲内。
無理に引き抜かない。
沈んだ側の雪を掘り。
板を差し込み。
そりの下を平らにする。
人を増やして、一度だけ持ち上げる。
高くしない。
手の幅より低く。
そりは元の位置へ戻った。
温度、変化なし。
生命反応、継続。
作業時間、八分。
誠司は帰着予定を修正した。
遅れは、返送庫へ照会札で送る。
第三休所の送達管から、短い連絡票を入れる。
北方一号回収便
帰路運行中
遅れ――十五分見込み
荷姿――異常なし
人員――異常なし
返送庫。
冬季中継所。
北砦。
水車町。
待つ者へ、同じ情報が流れていく。
遅れている。
だが、無事に進んでいる。
それを伝えるだけで、待つ時間の意味は変わる。
第三休所へ到着。
そりを折り畳み台へ固定。
地面へ直接置かない。
温度。
生命反応。
固定。
人員。
全員異常なし。
予定どおり休憩する。
遅れていても、休憩を省かない。
「急げば、遅れを取り戻せます」
管理人が言った。
「取り戻しません」
誠司は水を飲んだ。
「遅れは、知らせました」
時間を戻すことはできない。
無理に速度を上げれば、別の遅れや事故を作る。
「安全に帰ることを優先します」
管理人は少し黙ったあと、頷いた。
「第一配送者も、最初はそう言っていました」
「最初は?」
「最後の便では、急ぎました」
「なぜですか」
管理人は北方一号の容器を見た。
「この人を、早く帰さなければならないと思ったからです」
それ以上は、帰ってから聞く。
今は道の上だった。
休憩を終える。
凍結坂。
荷重分散橋。
第一照会所。
一つずつ進む。
荷重分散橋では、橋の上で止まらない。
渡る前に確認。
渡ったあとに確認。
板が軋む。
しかし沈まない。
送達管の音も変わらない。
橋を抜ける。
温度、正常。
傾き、正常。
生命反応、継続。
北方引継所の青い標識が見えたとき。
誰も声を上げなかった。
まだ終わっていない。
満タン便へ載せ替える作業がある。
誠司たちは回収そりを、満タン便の荷台後部へ寄せた。
車体は南向き。
すぐ出発できる。
荷台の可動枠と、そりの高さを合わせる。
出庫時と逆の手順。
固定帯を一つずつ外す。
容器の下へ布帯。
手の幅一つだけ浮かせる。
可動枠を差し込む。
下ろす。
ゴム板。
くさび。
固定帯。
前。
中央。
後ろ。
左右の揺れを逃がす帯。
傾き確認用の木片。
連絡用の紐。
「温度保持設備、接続します」
リアが出庫温度基準札を荷台側へ差し替える。
容器の青い光と、氷晶石制御箱がつながった。
目盛り。
一致。
「温度、維持」
「生命反応、継続」
「固定、完了」
補給網中継器へ表示が現れた。
北方一号
人力運搬より車両運搬へ引継ぎ
荷姿――適合
温度――適合
振動軽減――適合
誠司は運転席へ座った。
管理人が助手席の前へ立つ。
扉は閉じている。
彼女が手を伸ばす前に、かちり、と鍵が開いた。
「自力で乗車します」
管理人はそう言って、自分で助手席の扉を開けた。
席へ座る。
安全帯を締める。
二つの空席が埋まった。
運転席には誠司。
助手席には管理人。
荷台には北方一号。
補給網中継器の表示が変わる。
回収時必要空席――使用確認
同行者乗車――完了
北方一号回収便――復路開始
誠司はエンジンをかけた。
赤い満タン便が、低い音を立てる。
荷台から、連絡用の紐が一度引かれた。
ロウグからの合図。
準備完了。
「出発します」
満タン便は、ゆっくり南へ動き始めた。
返送庫では、預かり手が白い布を掲げて待っていた。
満タン便が見えると、布を大きく振る。
誠司は警笛を一度だけ鳴らした。
短い音。
帰る便の合図だった。
*
その夜。
北方一号回収便は、冬季中継所へ到着した。
水車町までは、まだ距離がある。
中継所で一晩、温度と生命反応を確認する。
運転手も交代する。
北砦から先は、整備された街道。
それでも急がない。
北方一号は荷台から降ろさない。
満タン便ごと、風を避けられる車庫へ入れる。
氷晶石制御箱。
燃料。
排気。
火気。
すべての距離を確認する。
リアと管理人が交代で温度を記録する。
誠司は運行記録を整理した。
往路。
引継ぎ。
出庫。
復路。
遅れ十五分。
人員異常なし。
荷姿異常なし。
第一配送者宛書簡は、受領拒否。
水車町返送受入所へ返送中。
そこまで記したとき。
配送帳面が淡く光った。
第一配送記録・北方第二十五便
私は北方一号を中枢から運び出した。
帰路を急いだ。
返送庫を通り過ぎ、休憩も減らした。
眠る者を一日でも早く帰せば、失ったものを取り戻せると思った。
だが、満タン便は北方引継所で動かなくなった。
運転席に座っていた私へ、帳面は一つだけ尋ねた。
「あなた自身の帰り先は、登録されていますか」
私は答えられなかった。
誠司は、助手席で休んでいる管理人を見た。
第一配送者は、かつて北方一号を運び出している。
それなのに北方一号は、再び中枢へ戻されていた。
記録の下に、新しい配送履歴が現れる。
北方一号
過去出庫回数――一回
過去返送回数――一回
前回受取人――第一配送者
前回返送理由――受取人配送先不明
「受取人の配送先が、分からなかった……」
第一配送者は北方一号を受け取った。
だが、その第一配送者自身に帰る場所が登録されていなかった。
だから便は完了せず、北方一号は中枢へ返された。
さらに表示が続く。
現在受取人――田村誠司
現在配送先――水車町返送受入所
受取人帰着先――水車町
今回は、受取人にも帰る場所がある。
水車町。
仲間たち。
返送受入所。
待っている人々。
第一配送者にはなかったものが、誠司にはある。
だが。
最後に、一つの警告が浮かんだ。
第一配送者宛書簡
宛先変更候補――満タン便・運転席
運転席登録者を照合中。
数字が現れる。
十。
三十二。
五十四。
七十九。
九十六。
そして。
照合完了。
現在の運転席登録者――田村誠司
過去の運転席登録者――田村誠司
誠司は帳面を見つめた。
第一配送者の名前ではない。
過去の満タン便。
第一配送者が運転していたはずの時代。
その運転席にも、田村誠司の名が登録されている。
最後の一行が現れた。
第一配送者登録名――未登録。
運転席登録名――田村誠司。
第一配送者と田村誠司が同じ人物だとは、まだ書かれていない。
だが、第一配送者が使っていた満タン便の運転席には、誠司の名前が残されていた。
降雪後の経路点検と連絡札の運用が始まり、待つ人々へ「変化がないこと」も届けられるようになりました。
北方補給網中枢では、北方一号が正式に回収便へ引き継がれています。
低温休眠容器は温度と生命反応を維持したまま、冬季中継所まで帰還しました。
一方、過去に第一配送者が使っていた満タン便の運転席にも、田村誠司の名が登録されていたことが判明します。
第一配送者とは、名前ではなく役割なのでしょうか。
それとも、誠司自身の知らない配送記録が、過去に存在するのでしょうか。




