十四、母性の目覚め
新暦一二五七年、虹介が十二度目の誕生日を迎えた頃、西通りの桜並木が色付いている。丸味を帯びた蕾も近い内に咲くだろう。地球と違って花期が長い為、存分に楽しめるのだが、それも五十年に一度の植え替えのお陰である事を忘れてはならない。
壬玖村は雪解けが始まっていたが、あちらこちらに雪があった。そんな中、春休みに突入したばかりの虹介は滝で釣りをしていた。岩の上で引敷を敷いて腰掛け、釣り糸を垂らしていた。桶には既に三匹の魚がいたが、まだ続けていた。
祥介が遠出をしていて留守だった。留守番のクルーも一緒にいたが、虹介を気にしつつも滝壷の方を見ていた。虹介は気付いていて時折山の方へ目をやった。
(鳴き声が聞こえないからキュウは近くにいないな。クルーが山を気にしているけど、山は不気味な程に静かなんだよな……。だからこそ何かがあるのかも知れないけど……。うーん……)
魚が近付いているのが見え、そちらに集中する。当たりがあるまで待ち、感触があったら合わせて手首を利かせて釣り竿を引くと水中から魚が躍り出る。糸を持って岩から飛び下り、桶に魚を入れた。クルーはそれを確認してから滝壷の方へ歩いて行き、時折振り向く。虹介は釣り竿を置いて付いて行った。
「何があるんだ?」
訊いてはみたものの欲しい反応がある訳でもなく、二本の尻尾の先が上を向いて揺れていた。
「うわぁ、嫌な予感しかしないぞ……」
険しい顔をして付いて行くが、クルーは滝壷の側で止まった。耳を立て、時折左右に振る。
(滝の音がするのに、何かが聞こえているんだろうか?)
訝し気に思っていると頭を上げて瞠った。虹介に一瞬だけ目を向け、即座に滝崖の岩が飛び出ている場所を選び、軽々と跳び移って上ってしまった。振り向いて虹介を見下ろし、徐に歩き出した。
「あーあ! 本当に……、ああ……」
虹介は声を上げ、塀の笠木に跳び乗り、西へ向かって走った。山門まで来ると隊舎側へ下り、今日の門番の松村が驚愕して声を上げた。
「うわぁっ!」
「悪い、クルーが入っちゃったから、行かないといけない!」
叫びながら門を潜った。
「何かあるのか!?」
「多分あるー!」
坂道を駆け上がりながら叫んだが、聞こえているかは不明だった。それよりもクルーだ。クルーの居場所を目指そうとしたら、クルーの方からやって来た。立ち止まると虹介を見る。虹介は溜息を吐き、無言で跨るとクルーが駆け出した。落ちないように首の毛を強く握るとクルーが一気に加速する。カルカルよりも遅いとは言え、時速百キロメートルを優に超える。
クルーは山間を北北西に向かっていて、木が密集し出すと速度を落とした。試験で通った獣道を通り過ぎ、麓海山の北東を目指しているようだった。
(危険区域の杭がない事を祈るしかないな……)
丸腰の虹介は大穴熊とやり合う事だけは避けたかったが、徐々に血の臭いが濃くなり始める。
(うわぁ……、最悪だな)
険しい顔も諦めに移り変わる。クルーが足を止めるとそこには三人が倒れていた。衣服は引き千切れ、獣に付けられた傷からは血が出ていた。クルーが臭いを嗅ごうとはしない為、死んでいる事が分かった。近くに落ちている槍を見付け、クルーから降りてそれを手にする。周りを見回すがそれしかなく、穂の色は水色だった。
(色が薄いとは言え青鉄だし、ないよりは断然いいか……。よし、持って行こう)
付いていた土を払っているとクルーが歩き出した。物音で振り向いた虹介に一瞥をくれて軽く走り出す。虹介はそれに付いて行った。隊舎の方に引き返しているように見えたが、麓海山に登っていた。
そして、またしても三人が血を流して倒れていて、今度は武器が落ちていなかった。クルーは臭いを嗅がず、更に進み始めた。麓海山にいる穴熊は小穴熊だが危険区域に指定されている。虹介はこの臭いでここまで下りて来られる事を懸念した。
(向かっている途中で出くわすんじゃないだろうな……)
小穴熊とは言え、立つと一メートル弱はある。程良く緊張をし、クルーの後ろを付いて行った。山を登りつつも南下をしていたが、虹介は方向感覚がなくなっていた。
少し平らな場所に辿り着いた所でクルーの足が止まる。木が少なく、日が当たっているすぐそこに、今度は見た事もない、真っ黒な獣が横たわっていた。その体には槍や刀、小刀までもが刺さっている。倒れていた奴等の武器であろう事は容易に想像が出来た。
黒い獣は頭を上げてクルーを暫く見ていたが、クルーに敵意がない事を理解したのか、頭を地面に着けた。クルーは虹介の周りを一周し、黒い獣の方へ頭で押した。
「俺かよ?」
小声で言うとクルーに更に押される。
「はいはい、行きますよ。行けばいいんだろ」
近付くに連れ、クルー程度の大きさである事が分かる。いつの間にかクルーは止まり、座っていた。
「これをどうしろと……」
刺さっている武器を抜けば更に出血する。虹介は難しい顔で見下ろし、息が荒い獣の腹側に跪いた。クルーの方を見ると、こちらを見ながら尻尾で地面を叩いていた。腕を組んで傷口を見たが、クルーと違って腹が大きい事に気が付いた。
(あ! 前に牛の腹が大きくなっている所を見た事があるわ。あれか! 子供が産まれるんだな? ……だとすると、これは誰かを呼んで来た方がいいんじゃないのか? この母親、いつ死ぬかも分からないし、離れている間に死にそうだよな……。どうしよう……)
手を伸ばし、腹を撫でた。獣の顔を見ていたが嫌がらなかった。
(俺が子供を外に出すとなると、一か八かで腹を切るしかないんだけど……)
躊躇をしていると大きな物音がしてそちらへ顔を向けた。斜面から平らな場所に移った場所に男が立っていた。
「ここにいたのか……」
そう言うとその場に座り込んだ。この男も血塗れだった。立ち上がっていたクルーが座る。
「この獣を殺そうとした一味の人間か?」
今にも死にそうな男に問うと、男は「そうだ」と答えた。
「こうなる筈では、なかったんだけど、こうなってしまったよ……」
「それよりおっさん、この獣が出産しようとしているんだけど、どうすればいいんだ?」
男は俯せになり、腕だけで前進して近付いて来た。獣が頭を上げた。
「それ以上は駄目だな。獣が嫌がっているから止めておけよ」
「はは……、嫌われたものだな。仕方がないけど……。尻の方に、穴が二つある。下の穴に、手を突っ込んで、子供を、引っ張り出せ。急げ」
獣はいつの間にやら虫の息になっていて、男はそれに気付いて急かした。虹介は尻の方に行き、上着を脱いで腰に巻き、跪いて右手を地に着けると尻にある穴を覗き込んだ。言われた通り、確かに穴が二つある。
「本当にあるわ。おっさんは物知りだな」
男を見る。男は上体を起こして木にもたれ掛かり、虚ろな目を虹介に向けていた。
「液体の、ような物、出ているか?」
虹介は首を横に振った。
「なかった」
「地面、濡れて、いないか?」
確認するが濡れていない。それを伝えると男は項垂れた。
「それじゃ、袖、捲って、腕を、突っ込んで、中から、引っ張り、出して」
虹介は厚手の服を着ていたがそれも脱いで腰に巻き、薄手の長袖一枚になって袖を捲り上げた。右手に付いた土を払い、且つ服に擦り付けた。まだ土が少し付いているが、深呼吸をして下の穴に手を突っ込むと、三本ある尻尾が全部動いて虹介を力なく叩いた。更に突っ込むと手が何かに当たる。
「あ、これは……、多分子供に行き着いたと思う」
「袋に、入って、いるから、それを、破れるなら、破って、引っ張り、出して」
掌を広げて撫で回し、取っ掛かりがないかを探した。すると、男は切れ切れに語り出した。名は吉野宗平、動物が好きで獣医になった事や、獣に精通している事、それで伝説の黒い獣を見たいと思い、誘われるがままに密猟団に入った事を呟いて絶えた。
虹介は名以外は聞いていなかった。漸く掴めた足を徐に引っ張り、何とか外へ出せた。途中、液体が出てしまったが、吉野に訊いても返答がなかった。クルーに目をやると同時に叫んだ。
「クルー!」
真横に来ていたクルーを呼ぶ。
「来るなら最初から来ておけよ。で、ここからどうすればいいんだ?」
そう言っている最中に、仔に纏わり付いている羊膜を舐め取り始めた。
「いやいや、そこでやられると手が突っ込めないんだけど……」
弱々しい仔を持ち上げて左側に持って行くとクルーもそちらへ移動する。虹介は再度手を突っ込み、二頭目の手応えを感じると格闘し始めた。か細い鳴き声が聞こえてくる。
(生きているんだな。ああ、良かった……。それにしても、ど素人にこんな事をさせるなよ……)
険しい顔で必死に掴める物を探した。その間、クルーは綺麗に舐め取った後、仔を鼻で押しながら母親の腹の方へ誘導していた。仔は乳房に辿り着くと乳首を探す。クルーはそれを見守っていた。
虹介は三頭目も引っ張り出し、母親の腹の方に仔を置き、クルーが羊膜を舐め取っている間に、四頭目がいないかを探っていた。三頭目は既に破水していたのだが、外に出た時には呼吸が止まっていた。それでもクルーが羊膜を舐め取っている事から、虹介は生きるのだろうと漠然と思っていた。
四頭目の確認は出来ずに手を抜き、寒いが袖を戻さずにいた。クルーが最後に取り上げた仔に乳を飲まそうと鼻で幾度も誘導している。その一所懸命さが虹介を動けなくしていた。
虹介は日と影の位置を見て大体の検討を付け、東と思しき方角へ向かって走った。深麓川に行き当たると冷たい水で右腕を洗い、川下を目指す。そして山門に到着し、松村が虹介を見て驚く。
「虹介! 誰とも会わなかったのか?」
「会っていないけど、何人が山へ入ったんだ?」
「隊長を含めて六人」
「足りないな……。死体が七体、獣も一頭死んでいて、クルーくらいの大きさで黒い獣なんだよ。尻尾が三本あって四足」
「え? え? 黒くて四足、尻尾が三本? 尻尾が三本なら伝説の黒豹じゃないか! マジでいるのかよ?」
「それよりも、人を集めてよ」
「ああ、そうだな。悪い」
慌てて門の側にある半鐘を鳴らした。もう一人の門番の真岡が虹介の側に来る。
「それで、その獣はどうなったんだ? 倒したのか?」
「いや、それが俺が見付けた時には倒れていたよ。死んだ奴等が武器を突き刺していて、どうも致命傷を負っていたみたいなんだよな。それで死んだ」
「黒い獣は弱いのか? クルーだとそういう絵面が思い浮かばないんだけど……」
「それもそうだよな……。俺もクルーがそうなる所は思い浮かばない。でもその獣が妊娠していたから、教えてもらって子供を引っ張り出したんだよ。それで子供の二頭は生きているんだけどな」
「えっ、それはマジで? マジな話?」
真岡が険しい顔で訊き、半鐘を鳴らし終えて話を聞いていた松村も驚愕していた。
「マジも大マジ、一頭は死んでいたんだけど、二頭は母親の乳を飲んでいたよ」
「へぇ! ……で、その子供はどうするつもりなんだ? 飼うのか?」
松村が声を弾ませた。不意の問いに思わず訊き返した。
「飼う? 誰が?」
「虹介に決まってるだろ」
真岡が苦笑しながら言うと、虹介は瞠った。
「戻そうにもどこへ戻しに行けばいいかも分からないし、そうなると殺すしかなくなるからな」
そう真岡が続けていて、松村は頷いて聞いていたが口を開く。
「そうだよなぁ、虹介の所なら、まだクルーがいるから躾は出来るだろうしな」
虹介は俄に責任が覆い被さって来て呆然とした。
門番の二人が交代がてらに付いて来ると言い、六人で入山した。三人一組で分かれ、呼び子が聞こえる程度に離れて移動する。虹介のいる組は松村が呼び子を吹き、最奥の遺体のある場所へ向かう。道中、郡司と合流が出来、事情を話した上で四人ずつに編成をし直し、郡司組が最奥、もう一組が手前の遺体三体の場所、虹介組が獣のいる場所へ向かう事となった。
虹介が戻るとクルーが仔等の前に立ち、頭を低くして睨み付けている。虹介は慌ててクルーの側に行き、首の皮を掴んで頭を上げた。
「駄目だぞ」
そう言っても聞かずに頭を下げようとした為、虹介は已むを得ず、クルーの後ろに回って尻尾を引っ張った。虹介に向かって「ゴァア!」と吼えたが、虹介が「バカ!」と吼え返すと、鼻を鳴らして何事もなかったかのように子等の側へ戻った。そして、死んだ仔を諦めきれないのか、乳を飲まそうと奮闘し出した。虹介はそれを見て諦めた。
獣から武器を抜くと血が出る為にそのままにしておき、枝を切って来て即席の荷台を拵えた。生きている子等は眠っていたのだが、クルーが邪魔で荷台に移せない。虹介は死体をクルーに咥えさせて「家へ帰れよ」と尻を叩いた。クルーは振り向く事なく、そのまま姿を消した。虹介は率先して獣を荷台に乗せ、更に眠っている仔二頭も乗せると一人で引っ張って隊舎へ戻った。
密猟者の事はさて置き、今度の一番の問題である、残された仔二頭は、クルーが乳を出し始めて育てられる状態になった事で、祥介のいない所で戸二谷家預かりとなった。虹介は郡司を始め、隊員等に肩を叩かれて激励をされた。
それとは別に、獣の死体を死んだ場所に埋めたいと虹介が我儘を言い、郡司が渋々許可を出し、クルーが離さなかった仔と共に、翌日に埋葬する事となった。出された条件が五メートルは掘るというもので、虹介は真面目に掘った。掘りに掘って、五メートルに届くかどうかという所で青い鉱石、つまり青鉄の元を掘り当てた。それを見ていた郡司は「こんな事、有り得ないだろうが!」と言いつつもその側を掘っていた。その場にいた隊員等も掘っていた。
大きな青い鉱石を引き摺って澤川家へ行き、大介と竜次郎を唖然とさせた。我に返った竜次郎が喜色満面になり、その日の内から青鉄にしようとした。喜び勇んで砕こうとした所、道具が砕かれて即挫折する羽目となる。
二日後、祥介が部屋に入って何気なくクルーを見ると、見た事もない真っ黒の獣の仔等に授乳している姿を見せ付けられる。
「虹介ー! 虹介ー!!」
玄関まで出迎えていた虹介が後から来て顔を覗かせた。
「何?」
「これは一体何だ? まさか穴熊の仔か?」
「伝説の黒豹の子供」
「伝説? それは一体何だ?」
いつもなら着替えながら話を聞く祥介だが、着替えずにある程度の話を聞いてから着替え始めた。
「それで…」
「飼うしかないな。虹介が世話をしろよ?」
納得出来た訳ではなかったが受け入れざるを得ない祥介はそう言った。
「分かった……」
「さて、俺等も飯にしようか」
脱いだ衣服を持って部屋を後にする。虹介は障子を閉め、それに付いて行く。




