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Project BLUE LADY  作者: 宇佐視ひろし
第三章 SQUADRON
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第十九話 出撃

「異種族との戦いは熾烈だ。空の淑女(ブルーレイディ)に最高の勝利を、などと戦術総隊は言っているが、そんなに綺麗なものじゃない。これだけの魔法技術と強力な兵器を手にしながら、我々はいまだに失った領域を取り戻すことすら出来ない。年に数十人の航空魔法士官が戦死し、それ以上に軍人の命が失われていく。戦いに生き残ることが出来ても、その現実に耐えられず除隊していく者も多い。私も多くの戦友を失った」

 魔を置き、数瞬瞑目する教官。

「貴様らはこの話を聞いても、それがどういうことなのか本当に理解することは無いだろう。安心しろ。私も訓練生のときは同じだった」

 視線を上げた彼女は居並ぶ教え子達を見渡す。

「だが、覚えていて欲しい。生き残った者には生き残った者の義務があると。戦い、命を散らした者達の生き様を伝え、それを次なる戦い、己と周りにいる仲間達の戦いに活かす義務だ。それは軍による戦争のことだけでは無い。生きるということ、生き抜くことに真剣に向き合うのだ。そこには軍に残るも、去るも関係は無い」


 早朝の教官室のデスクで残務処理に追われていたシャル・ディータ中尉は、書類を作成する手を休め、眼鏡をずらして強張った眉間を揉む。

 戦闘鳥(グリフィン)の襲撃が三日が経過した。第三滑走路の修復工事と終わったが、破壊され――一部は自ら破壊したが、それら施設の完全再建の見込みは立っていない。倒壊した三棟の管制塔の再建にも二ヵ月がかかるだろう。現在は一部の施設を簡単な補修で稼動させ、帝都に駐屯していた移動管制群の一個大隊が第一滑走路周辺に展開して管制業務を一手に引き受けている。

 今日も瓦礫の撤去と死骸の処理、そして行方不明者の捜索が行なわれる。うず高く積み重ねられた死骸を燃やす光景は何度見ても慣れない。それが、敵であっても味方であっても。

 人的被害は大きかった。死者行方不明者は千二百五十人。特に第一三防空群の全滅は大きく、また第九九戦術飛行隊は出撃準備中を襲撃された、十八機の主力戦闘機と格納庫一棟を失った。人的損害も大きく、戦死、負傷を含めてロアシーズ・フェルクライン准尉ら三十二名の搭乗員を失った。

 結果、稼動機は僅かに八機。

 地対空設備を失い、主力戦闘機の大半を失った初等教育航空団(ヴォンデルランド)の防空能力はゼロに等しい。

 シャルの担当する第三八八期生も軽傷以下の被害だったのは三十八名。五名が重傷を負い、十三名が戦死した。しかも、機体は移送途中でいまだ到着していなかった六機を除けば、全て失った。

 その移送が終わっていない今、唯一機体を得られたのはシャル自身の乗機四四・三一〇四を受領したレクス・キャロイとエリナ・フルセクターだけだ。

 キャロイが謹慎処分を受けて営倉入りしていたため、今日から戦闘空中哨戒(CAP)に従事することになっている。本来なら妖精戦闘機は搭乗員の喪失とともに解体されるはずなのだが、二人と妖精の相性が想像以上に良好なため、定期的な心理療法を受けることを条件に実験ケースとして認められた。

 教え子を実験動物のように扱うことには抵抗はあったが、自分の育てた妖精が再び空を飛べることに喜びを感じてもいた。

 謹慎の理由は別だ。


 戦闘終結後、夕暮れの戦術科管理棟の前に集まった生き残った第三八八期生。そのなかで起こったハヤト・カルランザの訓練総隊長解任論。理由はカルランザが救えたかもしれない仲間達を見捨てたという論調だったが、あの戦闘状況ではどんな指揮官もそれ以外の選択肢を持たなかっただろう。

 むしろ、早期に篭城を決めたからこそ被害を抑えられたのだ。司令部はその才覚を改めて認めなおしていた。

 だが、感情では割り切れない者達――切り捨てられた側に自らの小隊長が含められていた者達がいて、その受け皿となるべきユリスタン・シュタンジットはラピスミストレス運用の件で不在だったため、騒動は次第に大きくなりつつあった。

 それを力尽くで鎮めたのは、キャロイだった。

「うるさいな。力も無いヤツは引っ込んでてよ」

 彼はそう言って不満派を挑発したらしい。

 シャル自身はそれを聞いていなかったが、騒動を聞きつけたときには、キャロイは十数人の訓練生を相手に大立ち回りを演じていた。

 止めに入ろうとしたシャルだったが、苦虫を噛み潰したようなカルランザの表情と、キャロイの夕陽に照らされ悲しげに揺れる瞳を目の当たりにして息を呑むしかなかった。二人の意図を理解してしまったのだ。

「そんだけ?それで敵が倒せるの?」

 飛び掛かって来る訓練生達を、障壁で妨害し、いなし、大気を操作して足元を掬い、吹き飛ばし、次々と嘲笑を浴びせるキャロイ。だが、見事なまでに相手に傷を負わせないそのやり口は、思わず称賛してしまいそうなほどの惚れ惚れするほどの魔法戦闘。

「僕やシルヴァみたいに敵と戦ったわけでも無いくせに騒がないでよ。見苦しいから」

 地に伏した訓練生達に容赦なく浴びせられる冷酷な現実。その暴力に屈していた彼らは気付いてはいなかった。

 周囲で見守っていた者達――中立的な訓練生達や教官達、地上作業員の何人かは気付いていた。

 キャロイの目がいつまでも哀しげに潤んでいたことを。

「ハヤトを辞めさせたいなら、まず僕を倒してからにしてよ。負け犬さんたち」

 憎悪に近いものを呼吸を乱し、倒れ伏した者達から向けられながらも、キャロイは片頬を吊り上げて見せた。それは絶対的強者だけが出来る嘲笑――に見せかけた彼の強がり。

 そこにつかつかと歩み寄る大柄な影。その姿はつい三カ月前まで見慣れた青年のものだった。

「キャロイ。弁明はあるか?」

「ある訳無いじゃないですか。自分はするべきことをしただけです」

 直後、青年の右拳がキャロイの顔面を捕える。もんどりうって地に倒れるキャロイ。

 一瞬、冷やりとしたシャル。キャロイに害をなすものは、教官だろうとなんだろうと殺意を向けて来るフルセクターの存在を思い出したのだ。

 そこにシャルが見たものは異様な光景だった。何の感情も見せず事態を彫像のように無表情で、無感情で眺める集団。問題ばかりを起こす、しかし感情豊かな若者らしいバイタリティを持った集団が、まるで人形のように身動ぎ一つしない。そこに一つ影が足りない。

 エリナ・フルセクターだけではない。いつもさっぱりとしていて笑顔の絶えないマリ・コルリー、ひそかに毒舌を振り撒く腹黒さを最近隠さなくなったレイ・ソルビス、面倒くさそうにしつつも内に熱い物を持つナクル・リンデル、刹那的なところはあるがいい意味でも快楽主義者のリデル・スターン。

 その誰もが、仲間の所業をただただ傍観している。そこにはどんなものがあるのだろう。それとも失ってしまったのか。


 キャロイは、彼を殴り倒したヒューイ・レイビス少尉に連行され、シャルの命令で営倉に送られた。

 レイビスといえば、フェルクラインのことだ。第二〇九戦術飛行隊(VF209)から救援機として到着した彼だが、敵掃討後着陸するとすぐさま訓練生の取りまとめを開始した。二期前の訓練総隊長の手腕は見事で、VF099の生き残った面々をまとめ、それから病院へ搬送される直前のフェルクラインと再会を果たした。

 そこにはいつもの厳しく烈しい女王はおらず、ただ素直に再会を喜ぶ無垢な少女がいるだけだった。担架から身を起こし、右手を伸ばし、涙目で幼馴染を抱き寄せる彼女は、もう軍に戻って来ることは無いのだとシャルに痛感させた。

 それがいいとも思う。彼女には軍は合わないとシャルもずっと感じていたのだから。ただ、母の不名誉を雪ぎたいという一心で志願した彼女は、今は本来の可憐な少女の姿を取り戻していた。

 教官室の扉が開き、戦術科第三八八期生訓練総隊長のハヤト・カルランザが入室して来た。他の教官達はちょうど出払っていて不在だ。空に上がって哨戒に就いている者も多い。コクピットを失った彼女にはもう存在しない任務だ。

 カルランザは真っ直ぐ彼女の元に向かって来た。たった一日とはいえ、戦闘指揮を経験してその精悍さに磨きがかかったのか、より大きく感じる。

 ――いや、私が弱くなったのか。

 二つの大切なものに去られた彼女の前に、カルランザは直立すると小さく頭を下げた。

「三八八期訓練生全員の身上調査書です。あと、キャロイとフルセクターの報告書、始末書、それと反省文です」

「キャロイは反省なんてしていないだろ?」

「いえ」

 存外に強く否定する彼を不思議に思い見上げる。

「あんな風にしか出来なかったことを悔やんでいました」

 カルランザの表情にも微かな翳りが見える。

 ――優しい子だ。

 報告書に目を通しながら、シャルは思う。戦闘行動を経験し、自らの手で敵を殺戮した。死を、人間、異種族を問わず忌避していた少年が、精神的に傷を負いながらも、相棒のため、仲間のためにその力を揮った。

 その傷も癒えないうちに、同じ訓練生達の反感の眼前にその身を晒し、その憎悪にも近い感情を一身に受け止め、涙を浮かべながら力を行使した彼の心情はいかばかりのものだったろう。

 彼の行動とその姿は、カルランザを中心とする訓練生達の結束を強め、一方で反抗的な者達はその力を失い、細々とくすぶるだけの存在になった。

「シュタンジットとコルリーは大丈夫か?」

「……はい」

 間が空いたのは、二人の名を並べて口にしたシャルへの疑念か。

「カッファーの戦死については、シュタンジットとリロイに自分から伝えました。シュタンジットは、それでも精力的に動いてくれています。ニルサーク達へのフォローもしてくれています」

「そうか」

「はい。コルリーもしばらく様子がおかしかったようですが、昨日から少し元気を取り戻しているようです。ただ、キリハラの遺族への報告は自分でしたいと……」

「それは許可しよう。問題ない」

 どうせ、しばらくは空を飛べないのだから。

 自分を凝視している気配に目を上げると、慌てて逸らされた。

 彼女はそれを追及しなかった。彼には見抜かれているのだろう。コルリーに何があったのかを、シャルが知っているということを。


 昨日の朝のことだった。仮眠を取り、再び残務処理に戻ろうとした彼女の耳に聞こえたのは、人通りの無い廊下に響くマリ・コルリーを呼び止める声。

 それは珍しく声を張り上げたユリスタン・シュタンジットだった。

 なんとなく憚れて来た道を引き返そうとしたシャル。シュタンジットが様々な感情の入り混じった複雑な表情をしていたからだ。徹夜明けと分かる疲労の濃い顔色、さらさらの金髪は色褪せてぼさぼさ。完全無欠の優等生の姿はそこには無かった。

「ほっといてよ!」

 静寂を切り裂いたのは、コルリーの金切り声。そこにあったのは疲労と、隠し切れない焦り。いつもの自由勝手気ままな猫のようなしなやかさは無い。

 それをシュタンジットは宥めようとしていた。

「うりさいな。今はそれどころじゃないでしょ!みんな大変なんだよ!」

 さらに感情的になるコルリー。

 シュタンジットはまだ冷静だったが、続いた一言が余計だったのか、コルリーの声がさらに大きくなる。

「なんであんたがカツキのこと言うんだよ!知りもしないくせに!」

 報告ではカツキ・キリハラは、コルリーを庇って戦死したと聞いていた。

 シャルはシュタンジットが地雷を踏んだと判断。二人のもとへ向こうとした、その眼前に予想だにしなかった衝撃が襲ってきた。

「分かってないのはマリの方だ!」

 それがシュタンジットが放った私情剥き出しの怒声だったことに気付くのに、僅かばかりの時間を必要とした。

 シュタンジットが決して冷静沈着なだけの男ではないことを、シャルは知っている。小隊や仲間達に檄を飛ばすこともあるし、罵声を浴びせることもある。その頻度がフェルクラインやレイビス、カルランザより極端に少ないだけだ。それゆえにその威力は教官の足を止めるほどの力を持っていた。

 だが、そのときのそれは普段のものとはあまりに違っていた。おそらく、訓練小隊長やシュタンジットといった家名や、そんな余計なものに捉われず、そこにいたのはユリスタンという一人の男だったのだろう。

 物陰から窺うとびくっと硬直しているコルリーに向けられた、いくらか抑えられていたがよく通る声はシャルの耳にも届いた。

「惚れた女を守って何が悪いんだ?」

 教官達の間では、公然の噂だった。キリハラはコルリーに惚れていると。気付いていないのはコルリー本人くらいのものだ。

 そして、もう一人彼女を長年想い続けている男がいることも。

 二人は二言三言言葉を交わし、しばらくするとコルリーの嗚咽だけが誰も通らない廊下に木霊していた。

 成長したシュタンジットの姿に感心しつつも、失われた若い命にも思いを馳せる。喧嘩っ早い問題児だったが、カツキ・キリハラは間違いなく正義漢だった。ロイドがそんなキリハラを個人的に気に入っていたことは、教官達の間のトップシークレットだった。

 数分もすると廊下は静まり返っていた。

 泣き疲れたのか、緊張が緩んでしまったのか、力無く眠り始めたコルリー。持っていたブリーフケースとともに、両腕で器用に彼女を抱き上げるシュタンジット。

 その表情は安心したような、しかしどこか悔しさを滲ませたものだった。

 おそらく、彼はまだ自分の気持ちを打ち明けていないのだろう。そして、生涯打ち明けるつもりも無いのだろう。そういう律儀で、どうしようもないカタブツだ。


「場合によってはコルリーを再編後の小隊長に指名するかもしれない。本人に内諾を取っておいて欲しい」

「はい?マリをですか?」

 素を晒して驚くカルランザ。

「ああ、そうだ。三八八期の小隊長は今や四名だ。原隊復帰を志願する者がどれだけいるか分からないが、四十名程度の五個訓練小隊になるだろう。ジュピタスはシュタンジットから切り離せない以上、コルリーしかいない」

 カルランザの顔が微かに歪む。自分が戦場で切り捨てた同期の仲間のことを思い出しているのか。

「貴様のせいじゃない」

「しかし……」

「貴様のせいじゃない」

 二度否定すると、彼はようやく押し黙った。それでも彼の中にはわだかまりが残っているのだろう。

「コルリーに関しては問題ないはずだ。環月祭の時の面子を軸に考えている」

 渋々頷くカルランザ。

「それに彼女を小隊長にすると絶対に必死になる奴に心当たりがある」

 カルランザの眉根が寄る。シャルを非難する珍しい表情だ。

「自分にもありますが、それはさすがに酷いかと」

「だから事前に伝えて欲しい。再編成にはそれなりに時間がかかる。それまでに彼女の努力が実るかもしれない。今はそれで充分だ」

「はい。了解しました」

 気乗りしないのがみえみえの承諾。

 シャルは微かに笑みを浮かべるとキャロイの戦闘詳報に視線を戻した。キャロイから戦闘詳報を受け取る日が、こんなに早く来るとはさすがに彼女も思っていなかった。

 そんな感慨に耽っていた彼女の目が、見慣れない一つの単語に吸い寄せられる。気になってフルセクターの報告書、そして伝視科から昨日届いたものとフライトレコーダーの記録に目を通した。

「これに目を通したか?」

「はい」

 カルランザの即答。そこに疑問の余地は無かったのだろう。

 だが、シャルには疑問しか無かった。

「……グラニタとは、なんのことだ?」

「は?」

 怪訝そうなカルランザ。それに気付かず、彼女の中に渦巻いているのは困惑と疑問。

「私はグラニタなんて名前は知らない」

「中尉の乗機のパーソナルコードでは?」

 ――そんなバカな。

 ロイドは言った。

 ――妖精に名前を付けるなんて恥ずかしい。いいんだよ、名前なんていらねえ。

 そのはずだ。だから、機体番号四四・三一〇四にはパーソナルコードは無い。あの子がシャルを母、ロイドを父と呼ぶとしても……。

 いや、それだからか。別に家庭を持つ彼だから。

 そう納得したはずなのだ。

「キャロイが付けたのか?」

「そうは言っておりません。キャロイとフルセクターの報告だと、コードを口にしたところで発進準備を開始したと。つまりは登録されているということではないんですか?」

 思い浮かぶのは、照れ臭そうに笑う巌のような表情を不器用に歪める男。

「そんな、まさか……」

 ――シャルバートの子だから、グラニタ……。

 お菓子作りの趣味が高じて本まで出版していた母が、自らの娘(シャルバート)に付けた名前。その由来は、“甘くとろけるような可愛らしい我が娘”。

 思い浮かぶのは、“甘くとろけるような可愛らしい仕草を見せる妖精(グラニタ)”。

 ――なんてバカな女……。

「中尉?」

「ねえ、知ってる?私、ロイドの奥さんに嫉妬していたの」

 教え子の問いかけに気付かないまま吐露したのは、今まで抑えこんで来た黒い感情。

 曝け出し、剥き出しにして、容赦なく傷付けられたかった。こんなもの無残に引き裂いて貰いたかった。

 だから、震える唇が紡ぎ出すのは己を傷付けるための呪詛。それで相手を傷付けることになろうと、相手から遠ざけられようと構わなかった。

「だって、私のロイドを横から取ってったのよ?ちょっとくらい嫉妬してもいいじゃない」

 手元にあったはずのもの。それが絶対と信じていた。それなのに、いつの間にか両手からすり抜けて行った。

「でもね、一つだけ優越感を感じていたの」

 純白の衣装に身を包んだ二人の姿。それをその他大勢の中から祝福するしかなかった彼女。

 でも、彼女にしか見ることが出来ない景色があった。愛する男の背後に座り、愛する娘を巧みに操る姿。

「私だけがロイドと一緒に死ねるんだよって……」

 それは所帯を持っていても、子をなしても、それだけでは決して手に入れることが出来ない、シャルバート・ディータのみに許された特権。

「ははっ。……最低でしょ?」

 それこそ最低な台詞だった。目の前の若者は自分に好意を寄せている。訓練総隊長に指名されるときに自ら大々的に発表し、それゆえに三八七期の全会一致の支持を受けた、ある意味筋金入り(・・・・)なのだ。

 そんな彼の感情に付け込むなんて……。

「ああ、あんたは最低だな……」

 その声は驚くほど近くから発せられた。椅子に座った彼女が振り返ると、しゃがみ込んだ彼の顔がそこにあった。精悍な、ただ歳の割には少し落ち着きすぎた男の顔。

 節くれだった、しかし若々しい張りのある指先が彼女の頬に触れる。

 それは冷たかった。それは彼女の頬をとめどなく伝う雫の冷たさ。

「自分で自分を傷付けようとする最低の女だ」

 恐る恐る、しかし確固たる意志を持って自分に触れる十本の指。肩を撫でられ、首筋に垂れる黒髪を掬い上げ、そして力を込める。

 咄嗟に男の両手を振り払おうとした。それは駄目だと思った。この男には有望な未来がある。自分のような傷物がこの子の汚点になってはいけない。教官としての矜持が頭を擡げようとした。

 だが、それは男の両腕に座っていた椅子ごと捻じ伏せられた。

 広く逞しい胸板が頬に押し付けられる。力強い腕は、彼女を逃がすまいとがっちり締め付ける。

「あんたはいつも俺をどうしようもなくさせる最低の女だ」

 告げられた言葉が熱い息吹をともなって首筋から胸元へと伝う。その熱が抵抗する意志を容赦なく奪っていく。

「どうせ、俺の腕の中で他の男のことを想っているような最低の女だ」

 温もりとともに浴びせられる優しい罵声。久しく感じていなかったそれに身体の力が抜けていく。

「だから……。せめて……、分かっててこんなことをしている最低の男を、傍に置いてくれませんか?」

 シャルは無言でハヤトの胸に寄りかかった。


 秋のヴォンデルランド特有の朝靄の中、赤白緑の灯火を輝かせる濃紺の魔法戦闘機。その強力な魔法吸気エンジンが轟音を立てている。

「機体番号四四・三一〇四、パーソナルコード、グラニタ。発進準備完了」

「こちらヴォンデルランドタワー。 滑走路(ランウェイ)00R手前にて待機せよ」

「グラニタ、ウィルコー」

 主脚のブレーキが前席のレクスによって緩められ、機体がゆっくりと進み始める。

 計器に目を配りながら、バブルキャノピーからの光景に、マスクの中で静かに息をつくエリナ。

 戦術科格納庫群のうち、大破一、中破三。うち一つはレクスとエリナの手によるものだが、堅固なコンクリートと強固な魔法障壁で作られていたはずのそれは、無残な姿を晒し、その前に広がる駐機場にはいまだにブルーレイディとイーグレットの、砕かれ、引き裂かれ、燃やされた翼が乱立している。

 エリナ達が出て来たVF099用第二格納庫前だけが、戦闘空中哨戒(CAP)のために整備されていたが、未だ完全復旧には程遠い墓標のような影が白くかすんだ視界の中、次々と流れていく。

 本来ならCAPなんて有事でなければ必要ないのだが、防空能力を失った初等教育航空団を守るには第九九戦術飛行隊と教官機、そしてグラニタの残存十六機と近隣の基地のブルーレイディで防空任務を果たさなければいけなかった。

 エリナ達にとってはじめてのCAP。まともな演習課程を経てない上に、妖精戦闘機であり他の前席後席(コクピット)との協調訓練も実施していないため単機での発進というオマケ付き。

 司令部はどうかしている、と声を大にして言いたいが、レクスがグラニタとの約束だからと承諾したのでエリナに否やは無い。


 昨日の朝まで営倉に入っていたレクスを迎えに行くと、二人には二十四時間の完全休養がアトハウザー大佐直々に命じられた。勿論CAP任務に就くことを前提にしたものだった。

 訓練生、教官、整備員、事務官、果ては出入りの業者に至るまで関係なく復旧作業に従事している中、エリナはこれ幸いとレクスを連れ出して環月湖へ散策に出かけた。

 すれ違う人はみな、一瞬この非常時に何をしているのかという目で睨んできたが、訓練生の制服に、何故か正規搭乗員を示す真新しい少女の横顔を象った徽章を付けている二人を見て、小さく目礼、あるいは敬礼して通り過ぎて行く。妖精戦闘機搭乗員は正規搭乗員であるという規則のせいでもあるのだが、一方で事件の経緯が全兵士職員に通達されたおかげでもあった。白兵戦、戦闘機戦闘含め千体近くもの戦闘鳥(グリフィン)を撃破したコクピットが、訓練生であり妖精戦闘機搭乗員であることを誰もが知っていた。

 便利なプレゼントだと、エリナはアトハウザー大佐に心の中で感謝していた。

 それでも、レクスは恐縮しきって湖までの道すがら終始おどおどしていた。

「自信を持って。あなたはみんなを救ったのよ」

 彼の右を歩き、右手にはバスケット、左手にはレクスの右手という制服制帽の装いには似つかわしくない格好のエリナの口調は、レクスを励ましているのか、窘めているのか分かりにくい。

「すみません。そういうことよく分かりません」

 エリナの手を柔らかく握り返しながら、レクスは小さく頭を振る。その左手には大きめのトートバック。中にはレジャーシートやクッションなど。

 二人の装備は完全にピクニックのそれ。営倉の中で書いた報告書と始末書、反省文をレクスがハヤトに提出している間に、全てエリナが酒保(PX)で調達したものだ。

 その準備の良さにレクスは引き攣った笑みを浮かべたほどだ。しかも制服制帽の理由が、出遭う人達からの非難を避けるためという念の入れよう。

 しかし、彼の見ていないところで彼女はそれを遥かに上回る行動に出ていた。エリナの要請に難色を示したPXの職員や業者に、翌日からCAP任務に就くレクスは未だ戦闘で負った心の傷は癒えておらず、心からの休息が必要であると訴え準備をしてもらった。教官達にも頭を下げてまわった。

 教官達からは羽目を外しすぎないことを釘を刺されたものの、出発前にPXに頼んだ物を受け取りにいったエリナは不思議と笑顔で迎えられた。最初は不満顔だったはずの業者のおばちゃんの一人には、うちの嫁に欲しいわと言われ困惑した。

 森を抜ける湖までの道中、木立の向こうから漂う微かな焦げ臭さ。

「対空陣地だよね?」

「そうね」

 戦闘のことを忘れてもらいたい一心だったのに、レクスの意識はそこに吸い寄せられてしまう。

「でも、誰が破壊したんだろうね?」

 戦闘中に壊滅したのだから、それは当然敵だと想ったエリナ。

「こんなに奥にあるのに、反撃出来なかったのが不思議だよね」

 湖を中心に円周配置されているヴォンデルランドの中で、第一三防空群の主対空陣地は中心に位置している。全速力のグリフィンでも数十秒はかかる。それまでに対空砲火の一つもないということは考えにくい

 レクスは立ち上る黒い煙をしばらく凝視していた。その横顔は何も表していなかった。

 エリナを襲う胸を締め付けてくる痛み。

「あ、ごめんね」

 エリナのそんな様子に気付いたのか、謝るレクス。

 黙って小さく首を振った彼女は、彼を促がすように歩を進める。

 木立を抜けて行くと、陽射しを受けてキラキラと輝く湖面が目の前に広がる。眩しい光に細められる二人の目。

 手を繋いだまま、黙って涼やかな風に揺れる光り輝く波紋を見つめる。時折、頭上を通過するエンジン音以外人の営みの存在しない中で、隣りに立つレクスの胸の中を過ぎるものはなんだろう。

「お弁当、食べましょ」

 エリナの提案。

 湖畔にある草原――休日なら遊びに来た訓練生達、イベント開催時には屋台と来場客でごった返すそこは、今は二人だけの空間。

 レジャーシートを広げ、PXで調達したお弁当を広げる。サンドイッチにハーブの利いた鶏の唐揚げ、保冷剤できちんと包まれたトマトのサラダ、新鮮な野菜ジュースにハーブティー、etc.etc.……。

 ――いつのまに……。

 その豊富なラインナップに頼んだエリナ自身が驚いていた。

 話を切り出した最初は非難がましかったおばちゃん達の視線が、彼女の話が進むにつれ柔らかくなり、出来上がったお弁当を取りに現れたときには、満面の笑みで送り出された。

 その結果が今、並んでいる料理の数々。この非常時に、ここまで気を遣ってくれる。溢れんばかりの好意と善意がそこに詰まっていた。

 ――レクスのためにここまで……。

「ありがたいね。お礼しに行かなきゃ」

 小さくこぼれた謝意。彼の瞳は潤んでいた。

「エリナのためにみんな手伝ってくれたんだね」

「私のためじゃないわ」

 エリナは説明したのだ。傷付いたレクスを癒すために手伝って欲しいと。これからも進むために力を貸して欲しいと。

「そんな風に頑張ったエリナだから、みんな助けてくれたんだよ。一生懸命なエリナが、エリナの優しさがみんなを動かしたんだよ」

「私は、レクスの……」

「一生懸命な人は、誰でも応援したくなるんだよ」

 だから、と言って、レクスは両手を伸ばしてきた。エリナは素直にその腕の中に身を委ねる。

「ありがとう」

 完璧なんてあり得ない。無欠なんて存在しない。そう信じていたエリナですら、耳元で与えられた感謝はあらゆる物を彼女に与えてくれた気がした。

 不意に二人の間で鳴るもの。はっとして自らのお腹を抑えるエリナ。その顔は一瞬で朱に染まる。

 吹き出すレクス。

 ――仕方ないじゃない。お弁当が美味しそうなんだから。

 という抗議は口から出て来ない。

「相変わらずの食い意地だね」

 そう笑うレクス。

 その笑顔があまりにも柔らかくて、優しくて、暖かくて、エリナには唸る以外の抵抗する術はなかった。


 弁当を食べ終わり、休むにはいいとは言えない環境だった営倉に一日いたレクスは、疲れと柔らかな陽射しにうとうとし始めた。

 耐えられなくなったのか、そのまま寝転がろうとした彼の頭を、自らの膝の上に導くエリナ。まだ意識はあったのだろう。彼の寝顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 ――さっきはあんなことをしたくせに……。

 思い出すと恥ずかしい、先ほどのやり取りの相手の初心な反応が可愛くて仕方ない。

 蓄積した疲労は大きかったのか、すぐに彼は安らかな寝息を立て始めた。

 黒髪を優しく撫でるエリナ。やっと押し潰されるような緊張から解放された彼の寝顔に、エリナも癒されていた。

 撃破スコア一千。二人で成し遂げたそれは、しかしほとんど最終的には戦術魔法師(パイロット)たるレクスの決断によるものだ。少しでもタイミングが違ったり、躊躇ったりしたらその瞬間に結果は変わり、あるいは二人とも戦死していたかもしれない。

 それでも、人と同じ赤い血と肉を持つ異種族を殺すという彼にとっては酷過ぎる行為を、レクスは遂行した。

 同期内の反ハヤト派の制圧。あまりの被害を直視できなくて、論理的な思考を失ったのだろう彼ら。戦闘、いや一方的敗戦の直後で箍がはずれ、日ごろの鬱憤が噴出してしまったのだろう。

 ユリスタン不在のあの時、レクスは彼らを力で制することを選んだ。圧倒的な魔法技量の差を見せつけ、無傷で彼らを制圧した。自分自身を不満の標的とすることで、全体の安定を狙った。

 ハヤトもそれを理解していたし、そしてもうハヤトはレクスを護ろうとはしない。レクスの行いは間違いなのだから。理由も無く味方を攻撃したのは彼だ。

 同期の結束のため、訓練総隊長はそう振舞うだろう。

 友人を失ってまでも隊全体を守ろうとしたレクス。そのために力を揮って仲間を倒した事実は、彼をこれからも苦しめるだろう。

 ――私は、あなたの味方……。

「なに?」

 レクスが彼女を見上げていることに気付いて問いかける。

「マリに、ナクル達に謝りに行かなきゃ」

 乱闘のあと、マリ達は戦術科の復旧にハヤトやユリスタンとともに奔走していた一方、エリナは報告や聴取に拘束されていたし、レクスは営倉だった。二人はマリ達と顔を合わせる暇が無かった。

「そうね」

 彼女も謝らなきゃいけないことがたくさんある。懸命に指揮官として振舞おうとしていたマリ、その拙いながらも必死な手をエリナは無情にも振り払ってしまったのだから。

 穏やかな風が湖面を渡り、草原を揺らす。その木々と草のざわめきが心地よい。

 レクスはまた眠りに就いていた。


「よく眠っているわね。昔と変わらないわ」


 全身を電流が貫いた。安らかに眠る愛しい人を起こさないように、懸命に動揺を抑え込むエリナ。

 軽やかに歌うように紡がれたたおやかな声音は、エリナが今最も聞きたくないものだった。

「こんなところまでいらっしゃるとは思いませんでした」

 努めて平静を保ち、目の前で白いリボンで緩く纏められた長い黒髪を風にたなびかせる、無邪気な笑みを浮かべる美貌を見やった。右手の扇子を真っ直ぐエリナに向け、麦わら帽子をかぶり、淡いオレンジ色のドレスを纏う姿はまさに清純。

 しかし、エリナはその女の本質を垣間見たことがある。

「うん。久しぶりにその子の顔を見たかったの」

 寝息を立てるレクスを覗き込みながらも、その扇子だけはエリナの顔から逸らさない。おそらく女とエリナの間だけで会話が通じるための魔法が刻印されいてるのだろう。相変わらず芸が細かい。

「私の可愛いアレックス(・・・・・)

 その言葉に、頭の芯がすうと冷やされていく。

 エリナの変化に気付いたのか、女は三日月形に目を細めた。いたぶり甲斐のある獲物を見つけたときの癖だ。

「今日はお礼をしに来たのよ」

「お礼……ですか?」

「そうよ。あなたはよくやってるわ。おかげでこの子は類稀な才能を振るうことに躊躇しなくなった。これは本当にあなたのおかげ。ありがとう」

 明るく朗らかに告げられた事実。そこには、レクス自身の苦しみは一切考慮されていない。

 思わず彼の身体を抱き締めてしまいそうになる。だが、それは出来ない。彼を起こしてしまう。彼を、この女に会わせてはいけない。

「別に起きたって構わないわ」

 心底愉しそうに笑みを深くする女。

「現実を知ってもいい頃合でしょうし」

 本心から言っているのではない。それはエリナに対する踏絵。愛しい男を守るために女に従うか、裏切るか。

 現時点で全てを知った場合、レクスは躊躇いなく処分されるだろう。たとえこの女の目的の途中であろうと。そしてエリナももろともに消される。

 身体の奥底から燃え上がり、沸き出し、溢れそうになる黒いものを、ありったけの理性で抑え込み、レクスの頭を優しく撫でる強さ、ペースをコントロールする。

「いいわ。その目、好きよ。五年前のあの事故(・・)の時から、あなたは私を憎んでいた。心の底から。それでも忠実な犬のふりをしてる。その健気な姿に、私はもうメロメロよ」

 身体をくねらせながらの独白に、エリナは奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締めた。それでも手の動きを乱すことなく、身動ぎすることもなかったのは、ただ彼を守りたいという一心。

「本当にあなたは最高だわ。ご褒美に一つ教えてあげる」

「この事件の手引きをしたのは、あなたですね。ファーストワーズ」

 一瞬だった。瞬時に距離を詰めた女の左手が、エリナの両頬を力の限り挟む。先ほどまでの笑みが消えうせ、精巧な能面のような無表情がエリナを見下ろす。

 軍事教練を受け続けてきたエリナにはたいした痛みではない。動きがおかしかろうが、魔法を使おうが、この女の身体はただの女なのだから。

 しかし、この女は人類最強の魔法使いだ。彼女の命なぞ風前の灯火。

 それでもエリナが浮かべたのは冷笑。何故かこの女は、自分の尊称ともいえる呼び方を嫌悪する。それも極端に。余裕が無くなったその姿を見た彼女に浮かぶのは、嘲りと愉悦。

「本当に最高だわ」

 その声はあまりに平坦で、表情とともにその真意は読み取れない。

「私の言葉を遮っただけじゃなく、そんな顔をする。思わずこのまま頭をバラバラにしちゃいたくなりそうだわ」

 なら、すればいい。このままエリナを処分し、心の支えを失って戦えなくなったレクスも亡き者にし、これから訪れるであろう苦難から解放すればいい。

 そう嘲笑う彼女の前で、女は不意に笑みを浮かべた。

「そうね。それもいいわね。あなた達を二人ともモルモットにしてもいいわね」

 エリナは目を見開いた。

 女は愉しそうに歌うようにのたまう。

「だってブルーレイディのラムジェットに抗う強度の重力魔法(グラヴィティ)を使えるのよ。イメージ強度なら世界一と言っても過言ではないわ。さすがのガンダルフの弟子。色々刺激を与えてみましょう。たとえば、あなたを目の前で傷付けたら、どんな反応するかしら?」

 衝撃だった。自分の身体に起こる苦痛はどうでもいい。

 だが、それを見たレクスは一体どうなるのか。この子の心がどんな悲鳴を上げるのか。それを想像しただけで彼女は絶望に叩き落された。

「いろんな手で嬲るのもいいわね。その綺麗な瑞々しい肌を切り裂いてあげるわ。しなやかな筋肉をバラバラに解すのも愉しそうだわ。そうね。またどこぞの高官にあなたの身体を差し出して、それを見せるのもいいかもしれないわ」

 ――なんてことを!

 この女は自分の……。

「でも、そんなことをしたら相手はこの子に踏み潰されちゃうわね。大変。でも、もしかしたら、この国を滅ぼすくらいはやってくれるかしら。それはそれで愉しそうね。人類最強なんて嘯いている国なんて潰れちゃえばいいと思わない?」

 本気で言っているのか。そんなことをしたら、レクスは……。

「一番いいのは、そうね。あなたを薬漬けにして快感で蕩けさせて、そんな痴態をこの子に晒させることかしら。そうなったら何人か用意したほうがいいわね。でも、それじゃ壊れちゃうかな?」

 可愛らしく首を傾げる女。おぞましいまでの可憐さ。

「そうね」

 愕然とするエリナの前で、しばらく考え込んでいた女が思いついたように破顔する。

「壊れたら、今度はあなたの前でこの子をばらばらにしてあげるわね」

 極寒の空気がエリナを包み込み、押し潰した。

「どんな肉の色しているのか、どんな柔らかなはらわたなのか、あなた興味あるでしょ?色んな部分をばらばらにして色々実験したら、全てあなたに返してあげるわ。よかったわね。死ぬまでこの子と一緒よ」

 狂気ではない。この女はそれを平然とやってきた。エリナには想像もつかない時間をそうやって過ごしてきたのだ。

 この女に常識なんて通用しない。反抗が度を越せばあっさりと手放す。たとえ今までこの計画にどれだけの時間をかけて、労力を注ぎ、金を費やしてきたとしても、この女には関係ないのだ。

「使えるサンプルを集めたら、それから次のことを考えればいいのよね」

 今、思いついた、というように朗らかに言う女に、エリナの反抗心はへし折られた。

「そうよ、エリナ」

 呆然とするエリナにかけられたのは凍て付くような、優しさ。

 震えが止まらない。汗が噴出して止まらない。涙が止まらない。レクスを起こしてしまうかもしれないというのに、全身を蝕む恐怖に彼女の理性は打ちのめされていた。

「あなたは私の犬なのよ」

「は……い……」

 目を見開き涙を溢れさせたまま、エリナは従属を受け容れた。

「この子の傍にいられるのは、私のおかげなのよ」

「はい。感謝しています」

 謝辞は服従の証。

「これからも、この子を導いてね」

「はい。全身全霊をもって努めさせて頂きます」

 女はふわりと慈愛に満ちた笑みを見せた。エリナにはその笑顔に抗う術を全て失った。

「安心しなさい。その子の感覚はカットしてあるわ。あと十分は目覚めないわよ」

 顔から女の左手を離れる。

 レクスの頭をかき抱くように頭を垂れるエリナ。担がれていたとか、弄ばれていたとかそういう感覚は微塵も起きない。

「お心遣いに感謝致します。イザナミ様」

 ただ、この女に支配されることこそが彼女のあるべき姿。

「うん。それじゃ、またね」

「はい」

 エリナは顔を上げなかった。

 歩み去る気配が途切れる。

 顔を上げると女の姿はドレスのほつれ糸一つ残っていなかった。

 ただ、あんなに安らぎをもたらした青空と草原とキラキラ輝く湖面が、今は酷くよそよそしかった。


「マリ達だ」

 レクスの声で現実に引き戻されたエリナ。

 キャノピーの外に目を向けると、瓦礫の山に見慣れたBDU姿の一団。マリ、レイ、ナクルが作業の手を休めこちらに向かって手を振っている。少し離れたところでは、リデルもこちらを見ているようだった。

 自然とエリナは右手を挙げて敬礼していた。こんな人間を、あんなことをした女を、これからどんな酷いことをするかもしれない裏切者を、彼らは仲間だと思ってくれている。そのことに万感の思いを込めて。

 帰還したら、真っ先に彼らに会いに行こう。とう固く誓うエリナ。

 グラニタが第三滑走路南端に到着すると管制隊から通信が入った。

「グラニタ。離陸の前にシャル・ディータ中尉殿からのお言葉だ」

「ディータだ。キャロイ、フルセクター、戦闘の一番の功労者にこんなことをさせてすまないな」

「いえ、任務ですから」

「問題ありません。今は自分達にしか出来ないことをやるだけです」

 エリナ、レクスと続いた返答に中尉はそうか、と呟いたものの黙ってしまった。

 二人は彼女の言葉を待った。二人が乗るのは、中尉が愛する男と乗り、そして育てた愛機だ。

 素晴らしい愛機だとエリナは思う。

 戦闘の最後、極超音速(ラムジェット)に逆らってグラニタを拘束していた重力魔法は、度重なる高レベル魔法の行使によるレクスの意識喪失によって消失し、一瞬で音速を突破する超加速を行なった。

 あの瞬間、グラニタに意識を失ったレクスの保護を命じながら、エリナ自身は数箇所の骨折を覚悟した。対Gスーツも無しに、通常の慣性制御魔法しかかかっていないコクピットでは、その最大Gは計り知れなかったからだ。

 だが、一瞬の意識の喪失のあとに感じたのは、身体を包むような暖かな感触と機首引き上げを指示する警告音。

 咄嗟にレーダーを確認。味方機のシグナル四つ。

 正面には滑走路北端の木立。急速に迫るそれは、あと数秒で彼女達の命を刈るデッドライン。

「合図と同時に右旋回しながら上昇。…………今!」

 その指示が出せたから三人は生き残った。

 では、何故その指示が出せたのか。

 それはグラニタが、レクスだけではなくエリナをも重力魔法で保護したからだった。何故、そうしたのか彼女には分からない。レクスには心を許していたようだが、グラニタはエリナに対して脅えていたはずだ。

 エリナを守らなければ前席後席(コクピット)を失い、空を飛べなくなるという利己的な計算か。

 それとも、レクスのパートナーを守ろうという善意か。

 あるいは、グラニタのほんの気紛れか。

 しかし、そのどれでもエリナには構わなかった。

 ――ありがとう。

 心の中の感謝に、くすぐったそうに笑う幼子のイメージ。

 そんなグラニタを、少し好きになっていたエリナ。

 そんな愛娘を失うディータ中尉は、一体どう感じているのか。それはエリナには想像もつかないことだ。

「モニターで姿は確認している。その子……、グラニタは元気そうだな」

「はい。問題ありません」

 努めて簡潔に応えるエリナ。抗いようの無い、見えない力に引き裂かれ、愛機をも失おうとしている彼女が、自分の未来に重なるようで居た堪れなかったのだ。

「了解した」

 そんなエリナの耳朶を震わせたのは、教官が本来持つ芯の強さを感じさせる凛とした響き。

「その子を……、私達のグラニタをよろしく頼む」

「はい」

 レクスが張りのある声で返答したとき、エリナの目から零れ落ちる雫。

 抗えない力。程度の差こそあれ、それによって傷付き、大切なものを失っても、そこに少しでも希望が見えるなら、それさえ見えるなら立ち上がろうとすることが出来る教官に、エリナは女として入校以来初めて憧れを抱いた。

 だからこそ、答えた。

「はい。レクスとグラニタは、私が責任を持って生還させます」

「ありがとう。そして、行ってらっしゃい」

 優しい、女性らしい声に、びくっと反応する気配。

「グラニタ。中尉に……、ママに挨拶をしなさい。行ってきますって。思いっきり」

 エリナを訝しげに窺っている気配。思わぬ許可に動揺しているのが伝わって来る。

 そんな仕草が可愛らしくて、彼女は涙をこぼしながら笑いかけた。

「早くしなさい。時間……無いわよ」

 ――ありがとう。

 パタパタと交互に振られる、フラップと尾翼。それは幼い子供が一生懸命その思いを伝えようとしている、そんな可愛らしい姿。

 エリナは人知れず静かに涙をこぼし、その愛おしい姿を目に焼き付けた。

ここまで読んでくださった皆様ありがとうございます。


エリナの絶望で終わるこの章。――当初は、彼女の平穏で終わるはずでした。


でも、たった一人のキャラの行動で、全てが台無しになりました。


これから、エリナにはどんな苦難が訪れるのか。それはとても気になるところだと思います。私自身気になります。(一応、予定は決まっています。ですが、この章のように突然ひらめいてとんでもない展開になることも考えられます)


ですが残念ながら、しばらくは続きの更新は出来ません。申し訳ございません。


この第三章 SQUADRONはカツキの戦死で仕事も手に付かないほど2日間欝になったところから、ロイドの戦死で後悔し、レクスの大量虐殺で震えが止まらず、シャルの希望とエリナの絶望で涙を流しながら、自分でも驚くほど身悶えながら書き上げた作品でした。それだけ気持ちを込めて書けたのは、15年以上色々なものを書いてきて初めてでした。そういう体験を私自身にも与えてくれた、素敵なキャラクター達に育ってくれたことが、嬉しくもあり、それを皆さんにうまく伝えることが出来ただろうかと不安にもなるそんな創作期間でした。


いわば、精神力の限界ですね。続きの手書き原稿が全く無いのも、更新の予定が無いことの理由の一つですが、それでも幸せにして、苦しい時間でした。


それにしては面白くない。と言われたら、私は笑って、もっと精進します、としか答えられません。


ですが、これから素敵な“私の子供たち”をより魅力的に描いていくためには、お時間を頂戴するしかないと思いました。


以前も半年ほど更新が滞ってしまいましたので、それよりも短い期間で再開したいとは思いますが、その時は変わらずのご愛顧を頂戴できればと思います。


これからも、レクスとエリナと、彼らに関わる多くの人たちのことを見守っていてください。


では、また再会する事を願っています。

宇佐見ひろし

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