拾弐.始まりの終わり
救急車が呼ばれ、辺りは騒然となっていた。倒れた人たちは次々と目を覚ましたが、加奈だけは目を覚まさなかった。
「加奈、大丈夫かな……」
由良が独り言のようにつぶやいた。その表情は憂いに染まっている。麻紀は気休めにしかならないかもしれないと思いながら、由良のつぶやきに言葉を返した。
「人魂を少し獲られたって言ってたね。大丈夫、死にはしないし、時期に目を覚ますよ。一概には言えないけど、失ったものを取り戻すことはできるよ。だから、人魂をとられたから、死期が早まるとは言い切れない。加奈ちゃんはまだ若い。若ければ、人魂だって回復する」
それを聞いて由良は少しほっとしてか、頷いて笑った。
救急車の赤い回転灯と共に、警察車両も入って来ていた。そのうち、事情聴取されるだろう。何よりも先に、こちらから従兄弟に連絡を入れておいたから、不審扱いはされないと思うが、そうなった時は時間との戦いになる。そうなれば当然、由良にも尋問が及ぶだろう。できるだけ、彼女への負担は軽減させるような答えを用意しておかなければならない。由良は被害者なのだ。
そんなことに思いを巡らせていると、一人の刑事らしい人がこちらに近づいて来た。
「八重樫麻紀さん、ですね?」
そう問われて麻紀は二つ返事で返した。
「本庁特務課より連絡を受けました。今回の件は、特務課の事件範囲であることを伺っています。表向きには大きな事件として取り扱わないよう申し受けました。しかし、お話は聞かせて頂きます。勿論、特務課の方がいらっしゃってからと言うことになりますが。一応、ご同行願います。……その前に救護措置ですね」
麻紀の身なりを見て、刑事は苦笑した。思うに、それだけ怪我してもよく普通にしていられるな、と言ったところだろうか。
しかし、上手く話が通ったものだ。県警は特務課のことを周知し理解してくれていた。本庁特務課はあまり表に出ない専門課であるために、その存在を知っている県警や所轄長も少ない。知られざる存在であるゆえ、話がこじれることも多い。こちらの長は、少なからず特務課の存在を知っていたようだ。少し肩の荷が降りた気がした。
「由良ちゃん、俺は行くけど一人で大丈夫?」
麻紀が由良に問いかけると、側にいた刑事も由良の顔をみた。
「はい。大丈夫です。加奈が運ばれる時、私もついていかなくちゃいけないから」
少し不安の色が隠せない様子だったが、妹のことをとても心配しているようにも見えた。
「分かった。それじゃ妹さんについて行ってあげて」
「自分から部下に言っておきます。何かあったら、すぐに声を掛けたください」
刑事は人懐っこい笑顔で由良に諭した。
「落ち着いたら、また連絡する。それじゃ……」
麻紀はそう言って由良に手を振ると、彼女はぺこりとお辞儀をした。刑事に連れられて、パトカーに乗り込んだ。刑事が部下に先ほどの旨を伝えている間、麻紀はその窓から由良の姿を見ていた。こちらの車が走り出すより前に、由良は担架に乗せられた妹の元へ走り寄っていた。
長い長い、朝がようやく終わろうとしている。
*******
朝の出来事があってから、夜になるまではあっという間だった。祖父母と両親が病院に駆け込んで来て事情を聞かれた。家族には何かのガスが出て、それを吸い込んだ人たちが倒れ、その中で加奈だけが重傷を負った、と言うことになっていた。
家族が病院にそろって、それから少しして警察の関係者が現れて別室で話を訊かれた。訊かれたと言うより、聞かされたと言う方が正しかったかもしれない。麻紀を連れて行った刑事も少ししてから来て、今回のことはあまり触れ回らないで欲しいと頼まれた。
当然由良は強く頷いた。こんな奇怪なことを誰かに話して、そんなものなど信じて貰える訳もない。それなら、表向きになっている話題で上手いことかわした方が楽だ。口裏合わせをして、由良は一時間ほどで解放された。それから出された食事も少し手をつけて箸を降ろした。仮眠室を借りて少し眠ったが、体中が興奮しているのか、ほとんど寝ることができなかった。
気がついたら、日は暮れていた。
仮眠室を出て、加奈が入院している部屋に行くと母と祖母が加奈を見守っていた。どうやら少し前に加奈は目を覚ましたと言う。思っていたよりも元気で、二人は胸をなで下ろしたようだった。
加奈の中の記憶はどんな風になっているのだろう。
倒れた時点から、目を覚ますまで、一連の出来事を多少なりと覚えているのだろうか。
ぼんやりと談話室の椅子に腰掛けて、暮れて墨色になった空を眺めていた。
本当に夢のように過ぎた一日だった。
朝早くからとんでもないことに巻き込まれ、命を失う寸前まで追い込まれた。由良は自分の手のひらを握ったり開いたりしながら、生きているんだと言うことをなんとなく確認していた。
それでも生きていることが不思議で、本当はこれは由良が世界から切り離されて起きていることなんじゃないか、そう思うほど、自分が生きていることに実感を得られなかった。
その時、談話室の入り口に影が見えた。由良がそちらに視線を向けると、そこに立っていたのは八重樫麻紀だった。
「八重樫さん」
由良は立ち上がって、彼の名を呼んだ。
「妹さん、目を覚ましたんだね。良かった」
ゆっくりと歩み寄ってくる八重樫の姿が鮮明に映る距離まで近づいて来る。その顔には包帯やガーゼが当てられていた。刺された右手の甲も包帯でぐるぐる巻きだった。
由良はそんな八重樫の姿を見た途端、由良の目からほろほろと生温かくてしょっぱいものが次々と溢れ出して止まらなかった。体を緊張させていたものが弛んだのだろう。
「やえ……が……しさ……」
声が声にならない。八重樫は苦笑すると左腕を差し出して、静かに由良を抱き留めて頭を撫でてくれた。その時、やっと自分が生きていることを実感できた。八重樫の優しいぬくもりは嘘などではないと確信に至ったからだ。
「怖かったよね。ごめん」
耳元で小さく八重樫の謝罪の声を聞いた。
何故、八重樫が謝るのか、由良には分からなかった。お互いが奇怪な出来事に巻き込まれ、お互いが被害者なのに。
それなのに八重樫は何度も由良に謝罪の言葉を向けた。
「俺がもう少し、いろんなことに早く気づけていたら、君をこんな酷い目に遭わせずに済んだんだ」
そんな風に自身を責める八重樫に、由良は否定を言葉にしなければと思うのに涙は溢れて来て止まらず、上手く喋ることができない。何度も涙を拭って、ようやく声が出せたのはそれからずいぶんしばらくしてからだった。
「そんなことはないです。確かに怖い目に遭ったけど、その時はいつも八重樫さんが側に居てくれて、私のことを助けてくれました」
未だに止まらない涙と格闘しながら、なんとか、言いたいことが言えた気がした。本当はもっとたくさんの言葉で感謝を示したかったのに、その時はそれ以上のことは言えなかった。
「本当にありがとう。八重樫さんも左京ちゃんも、たくさん痛い思いをしたのに、私を守ってくれて……左京ちゃんの方は大丈夫ですか? あんな酷い傷、たくさん血が出てしまっていたけど」
「左京は大丈夫。あれくらいなら三日もあればすぐに治るよ。俺と違って、すごく丈夫にできてる。普通の犬に見えるけど、あれでも一応は犬神の末裔だから」
ちょっと悔しそうに八重樫は苦笑した。
そして犬神とは何か、説明してくれた。
「犬神も元は俺たちと同じように、アヤカシ……由良ちゃんが見たあの女のような存在を狩る一族だったんだって。犬神はどこかの一族に仕えていたらしいけど、時と共に絶えたとされていたんだ。でも、俺は犬神の左京と出会って一緒に仕事をする間柄になった。最初はそんなの知らないから、随分勇敢で頑丈な犬だと思ってた。でも、傷の治りの早さや、アヤカシに向かって行けることを考えて、普通じゃないな、って薄々は感じていたけどね。実際、左京が犬神の末裔と聞かされた時は本当にびっくりもしたし、こんな俺を相方に選んでくれたことにも驚いたよ」
「八重樫さんは、いつもあんな化け物みたいなモノと向き合っているんですか?」
話の流れから、由良は八重樫が少なからずあんなモノたちと日々関わっているように思えた。すると八重樫は頷いた。そして、少し話が長くなるだろうから、と言って椅子に座ろうと勧めてくれた。
長椅子に二人で腰掛けると、彼がどんな立ち位置にあってどんな風に日々を過ごしているのかを話してくれた。
アヤカシと言う存在。此岸と彼岸。イツバ。そして何故、由良がその中に巻き込まれたのか。ハクジの欠片については、八重樫自身もその存在意味は未だに分からないと言った。
徳永は由良にハクジの欠片があると断言した。しかし、彼ではそれを手にすることができない。まだ不可解なことも多いようだった。
由良は八重樫の話を聞いて、少なからず不安を覚えた。徳永が言ったように、ハクジを持つヒトはそう多くは存在しないのだったら、一度覚えられてしまったなら、次だって今回のように命を狙われる危険に晒されなければならない。
また、今朝のような惨劇が繰り返されるのではないかと思うと、背筋がゾッとする。
「……私はこれから、どんな風に生活していけば良いんでしょうか? 毎日が不安で、そして恐ろしいです……」
由良は両手を胸の前で掴み合わせると、祈るように頭を下げた。
自分はおろか、関係のない人々を巻き込むことになるかもしれないと思うと、一体どんな風にこれからを生きて行けばいいのか、分からなくなる。
「そうだね……由良ちゃんの立場に立たされたら、俺だって怖くて仕方ない。毎日毎日、誰かに監視されたいるんじゃないかなんて、疑心暗鬼に陥るよ」
由良の気持ちを察してくれた八重樫の言葉は優しかった。だが、アヤカシに対抗できるチカラがあるかないかで、それは雲泥の差だ。由良には、戦うすべはない。こそこそと怯えて生きることしか出来ない。せめて、少しでも、アヤカシから身を守ることが出来れば……そう思っても、そんな特別なチカラは由良に宿りはしない。
ありふれた日常も、ありふれた学校生活も、ありふれた授業、ありふれた友達も。
それらは両手にすくった砂のように指の間からさらさらと零れ落ちて流れていく。もう元のような生活に戻ることはできないかもしれない。そう思うと、さらに絶望感が増して行く。
また由良は泣いてしまっていた。
先ほどの安堵の涙ではない。今度は悲しみと恨みの涙だった。
悪いのは誰でもない。
こんな迷路に立ち入ることを示した、運命を呪う他ない。
だが、こうなる前触れに、八重樫と出会ったきっかけがあったのだと思うと、彼の存在を厭んでしまう。
悪いのは八重樫ではない。
分かっていても、どうにも、彼を責める気持ちがわいて来てしまう。
「俺が……るから」
ふとした瞬間に、小さな八重樫の声を聞いた。
由良がゆっくりと顔を上げると、八重樫は急に立ち上がって由良の目の前で跪いた。
そして、もう一度、今度は鮮明にその言葉を誓った。
「俺が、由良ちゃんを守るから。どんなことが起きても、どんなに遠く離れていても、俺は由良ちゃんを絶対に守る。だから、もう何も心配しなくていいんだよ。もう泣かなくていいんだよ?」
その時の八重樫の顔は本当に真摯だった。その言葉はどこからも疑うすべもなく、どこにも隙がなく、どこにも嘘がない。
どうしてこんなに、彼の言葉を信じられるのだろう。
自分でも不思議だった。真っ直ぐな眼差しを見た瞬間、恐れは安堵へ転遷としていた。
「でも……」
それは確実なものなのに、由良は自分から懐疑的になってしまう。
そんな言葉を本当に鵜呑みにしていいものか。
そんなことができるのか。
それを本当に信じていいのか。
一度疑い出すと、何もかもが悪い方向へと流れてしまう。
だが、八重樫は首を横に振った。
「大丈夫。何も心配しなくていいよ。俺が、守る」
そして由良の手を掴むとその手を八重樫の一回り大きな手が包み込んだ。
「俺は、自分の命と同じくらい大事なものを君に託す。このブレスレットが君の手にあるかぎり、俺は君を見捨てたり、傷つけたりしない」
由良はふと自分の左手首に掛かった、あの瑠璃色をした石たちのことを思い出した。そしてそれをじっと見つめていると、あのときのことを思い出す。
約束するよ。君をひとりにはしない。
それは俺の命と同じだから。
俺は俺の命と、君の命を放り出したりはしない。
それはその約束の証だ。
その言葉を思い出したら、由良の瞳からまた涙がこぼれ落ちた。
ぽろぽろ。
結晶みたいに透明な粒。
優しい涙。
頬を伝って流れ落ちていく。
そうだった。
彼はそう言って、あの時助けに来てくれた。
「約束するよ。だからもう、泣かなくてもいいんだ」
そう言って微笑んだ顔は、穏やかで頼もしく優しかった。
「ありがとう……私、あなたの言葉を信じます」
由良は涙を拭うと、真っ直ぐに八重樫を見て答えた。
信じる。信じなければ、気持ちはすぐにでも揺らいで崩れてしまいそうだったから。
だから、信じる。八重樫の真摯な目に嘘はないから。
その時、大きな音とともに光が飛散していく風景が、由良の目に映った。
どん、ぱらぱらぱら…
光が夜空に咲く大輪の花を咲かせ、そしてやがて散っていく。
「八重樫さん、見て」
八重樫が振り返ると、またどおおんと轟音を立てて光柱が立って空で爆ぜた。
「花火か、綺麗だね……」
もっと近くで見ようと、二人は窓辺に近づいた。ガラス越しに見る花火は爽快でとても美しかった。
花火の光が何度となく二人の顔を照らした。そのたびに歓声を上げて由良は喜んだ。
「この花火が打ち上げられると、夏ももう終わりです」
由良が独り言のようにつぶやくと、八重樫はどこか心寂しそうに由良の方に顔を向けた。
花火が終われば、それは夏の終わりを告げる。序々に日は短くなり、空気が冷たさで澄んでくると、名月が由良たちを待っている。
「でも、俺たちはまだ始まったばかりだよ」
穏やかな笑顔を見せた八重樫を見て、由良は頬が熱くなる感覚を覚えた。こんな赤い顔を八重樫に見せるのは恥ずかしいと思ったが、きっとこの暗闇で分からないだろう。分からないでいてほしいと由良は思って、再び窓の外に視線を向けた。
夏の終わり。新しい季節が物語とともにやってくる。




