拾壱.終決
「時」の流れは不変だ。
どんな力をもっても変えることはできない。
その「時」は続いていて、都合よく切り取ったり貼り付けたりなど出来ない。
それは人の思いと同じではないか。
生きている限り、時の中で感じたものは失われない。色あせてしまうことや、忘れることはあっても、無くなりはしない。
もしも、由良がこの場をどうにか切り抜けて目の前のアヤカシの脅威から逃れたとして、彼女は日常を取り戻せるだろうか。この数日間であった様々なことを切り離して今までのように生活していけるだろうか。
消えない。
再び同じ言葉が響いた。
「……なに、喰ってやるのはアンタだけじゃないよ。一人で逝くのはイツバと言っても怖いだろう? あの娘も後を追わせてやるから安心しな」
うすら笑いの後、企みの言葉を続けるアヤカシの声で強く思った。
白磁のカケラが何であるか、それに関わったことは消えない。
アヤカシに利用されたことも消えない。
利用されたことで、間接的に誰かを傷つけたかもしれないことも消えない。
疑問ですら疑問のまま、その姿を留めて消え失せることは決してない。
「二人分の人魂を食えば、この傷も癒えるだろう」
まるで勝ち誇ったように、悠然として由良を睨みつける。他のどんな可能性も排除し、己の勝利を予感し、それに酔いしれていると言うふうに。
「さて、それじゃあ、お別れだ。イツバの一つが絶えれば、御子神のチカラも弱くなるだろうね。そうすりゃ……此岸もアタシらに近くなるよ」
その顔はすでに勝者の顔だった。
この手に覇王はない。だが、目の前には倒すべきモノがいる。力の比率を計れば、麻紀には分が悪すぎた。だが、それも自らの失態が招いた状況だ。こんなことで守る者も守れないなんて、本当に失笑する。
だが、自嘲するにはまだ早い。
まだ負けた訳ではない。
死んだわけでもない。
傷は酷く疼くけれど体はまだ動く。
左の目が血で霞んでいる。
だが、右目は鮮明に景色を読み取れる。
右手はこんなだけれど、左の手が十分に動く。
だから、まだ、もうすこし、こちらにだって勝機の暫しの間はある。
麻紀は深く呼吸をする。
新鮮な空気が体を満たし、脳に冷静さを取り戻させてくれる。
そして、祖父の言葉が頭を過ぎる。
どんな苦境に立たされても、窮地から脱せる道は必ずある。
自分が諦めないでいれば、そこに道は開ける。
(そうだ。まだ俺は諦めていない)
麻紀は意志を己の力に変えるように、地面からぐっと顔を反らせると猛然とアヤカシを睨みつける。その視線にアヤカシは気づいていない。ふいに背中に掛かる重みが軽くなった気がした。
「なっ!?」
アヤカシが驚いた時、すでに麻紀は体をねじり、力尽くでアヤカシの束縛から逃れていた。しかし、相手も素早く体勢を立て直す。
「小癪な真似を!」
怒りを露わにするアヤカシが、ぎりと歯を鳴らした音が聞こえたような気がした。すぐにアヤカシの鋭い五枚の爪が一斉に襲いかかって来る。麻紀にはそれがスロー再生のように映った。痛みなど忘れて、がむしゃらに右手を伸ばし、振り下ろされる前にアヤカシの腕を掴む。
目の前に美しさなど何処かに置き忘れて来た、怒りに狂った女の顔があった。
「往生際の悪い……!!」
「簡単に諦めるワケにはいかないんだ!」
アヤカシの迫力は凄まじかったが、麻紀とてそれに負けるわけにはいかなかった。だが、手元に覇王が無い限り、目の前の敵を倒すことは不可能だ。
じりじりと氷槍が近づいてくる。刃が押しつけられる度に、足元の土がずるずる滑ってしまう。
「諦められないなんて言うのは簡単だね! でも、アンタにはアタシを倒す術はない! あの刀がない限り、アンタはアタシを倒せない!」
「それでも俺は諦めないっ……!」
でも、どうしたらいい?
そんな言葉が頭を過ぎる。弾かれた覇王は完全に麻紀の視界の外だった。どの位置にそれが落ちているのか、今の状況では検討すらつかない。
「格好の良いことばっかりぬかすなよ! 今のアンタに何が出来る!?」
くははは、とアヤカシは笑った。
一秒ごとに鋭い刃は目の前に迫ってきた。それはもう、眼球のすぐ目の前と言ってもいいくらいまで近づいている。
あと一押しされたら。
貫かれる。
「それじゃ、」
女は最後に優雅に微笑んだ。この世の者とは思えないほど、美しく、妖艶に、そして優しく。
「さようなら」
「やめてーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
二つの声が重なった。
つ、とアヤカシの体が反り返った。
「なん、だ、って……!!」
そう言ってアヤカシは糸が切れた人形のようによろりと蹌踉めいた。
麻紀はその隙をついて素早く間合いを取る。その瞬間、アヤカシの後ろに由良の姿を見つける。その手には、覇王。
「やめて、それ以上、八重樫さんを傷つけないで!」
「由良、ダメだ! 逃げろ!」
「んふふふ……、大胆な事をするわね。びっくりしちゃったぁ」
かあん、と何かがぶつかって弾かれる音。
振り返ったアヤカシが、由良の持っていた覇王を弾き飛ばしたのだ。
「きゃあ!!」
悲鳴と共に麻紀が目にしたのは、バッサリと斬られたアヤカシの背中だった。由良は意を決して覇王を手に取り、アヤカシのその背に刃を向けたのだった。
「なんてことしてくれるの……?」
アヤカシの左手がすっと伸びると、いとも簡単に由良の首根っこを掴んだ。
「は、う」
「痛いじゃない、凄く痛いのよ。痛くて痛くて、痛くて、死んじゃったらどうしてくれるの?」
ぎりぎりと音を立てて、指が、手が、由良の細い首にまとわりついて締め上げていく。由良はもがくことすらも出来ず、食いつくアヤカシの手にされるがままだった。一呼吸ごとに由良のその体はぎごちなく震え、力なく弱っていく。
「どれくらい痛いか、教えてあげようか!?」
アヤカシが右手を振りかぶった。
「くそっ」
麻紀は覇王を拾いに走る。一か八か、間に合うか、間に合わないか。いや、間に合わせる。由良をこれ以上傷つけることは許されない。
滑り込みながら覇王を掴み、急停止と共に振り返る。
その時。
麻紀の視線の先で何かが煌めいた。
何か、掌くらいの大きさの長いモノが、燕のように飛ん来てすぐ消えた。
「ふ……ぐぅ……っ……」
小さい嗚咽の様な、アヤカシの声。
ぐらりとその姿が揺れる。
由良を締め上げていた手元がゆるりと緩み、どさっと音を立てて彼女の体は地面に落ちた。
「……だれ……だ、こんな時に邪魔をするヤツは!!」
呟きながら振り返るアヤカシの背中を見て、さきほど煌めいたものが何だったのかようやく理解した。
銀色の簪に似たもの。取っ手の部分にぼろぼろの何か布か紙のようなものが巻き付けてある。そしてその簪、あるいは苦無は、奇妙に青白い炎のような陽炎を纏っていた。
「ッ……!! お前はっ!!」
その声は明らかに動揺していた。表情こそ見ないが、声色に焦燥感が混じっているのは麻紀の耳にも明らかだった。
何が起こっているのか、一瞬思考をかき乱される。
しかし、そこで立ち止まって考えている余裕などない。体が動くままに、時間が止まったように停止しているアヤカシに向かって覇王の刃を振り下ろした。
「アヤカシ! 太極の狭間、無へと還れ!」
刃から、その身を千切る感触が伝わる。斬りつけられたアヤカシは体が半分に割れた。割れると同時に、瘴気が渦のように吹き出し、次々と空気に溶けて行く。
「は、ぐ、ぐああああああぁぁぁぁ……!!」
一瞬、アヤカシと目が合った。しかし、それは本当に刹那で、妖女は断末魔の叫びを上げながら、ある方向をじとりと見つめていた。
そして憎ましげに低い声を上げながら、ぼそぼそと意味の分からない言葉を呟いていた。
「お前っ…裏切るのか! アタシを見限っ……! 許さな……、殺し……て……やる! …な……っ!!」
最後の方は何を言っているのか分からなかった。ただ激しい嫌忌、憎悪、怨念、遺恨と言った感情を迸らせていた。
「あああああああぁぁ!!」
今際の際だ。麻紀はアヤカシの姿形が無くなって行くのを見ていた。この光景は何度見ても耐えられない。形あるモノが消えて行くのは、やはりアヤカシと言う存在であっても痛ましい。そしてそれは、麻紀の心にも切なさを覚えさせた。
そして瘴気が全て消える頃、ようやく麻紀は息をついた。一人でいたら座り込んでしまっていただろう。由良が近くで座り込んでいなかったら、その場で倒れていたかもしれない。すぐに近くにいる彼女の元へと駆けつけた。
「由良ちゃん……大丈夫?」
縋り寄る由良に声を掛けると、彼女は下を向いてこほんこほん、と何度か咳をついていたがちらりとこちらを見ると無言で頷いた。
どうやら由良はなんとか無事だったようだ。見た限りでは怪我もないようだし、本当に良かった。
これで終わり。
全て……終わり。それならば良かったが、まだ全ては片付いてはいない。
麻紀はすうっと息を吸い込むと何処に向かって話しかけるでもない様子で声を上げた。
「何故、手を貸すような真似をしたんですか?」
その様子に由良が少し不思議そうな表情で顔を上げた。
すると少し離れた場所の木がざざっと揺れ、小高い枝から何かがするっと落ちてくる。
「……徳永さん?」
由良の言葉にびっくりしたのは麻紀の方だった。この二人に接点があるなどと予想だにしなかったからだ。
「すでに藍花には、白磁の欠片を奪えるだけのチカラは残っていなかった」
降りて来た徳永は、肩についた葉っぱを丁寧に取り除いて、ようやくこちらに顔を向けた。
「そうなった以上、不必要な存在でしかありませんでした。よって、こちらも藍花の始末に掛かった。その時に利害が一致したに過ぎません」
無機質な声で淡々と説明する口調のまま、徳永はゆっくりと歩き出し、二人の側をすり抜けると、消えたアヤカシ----藍花言う名前を持っていた----の後に残された銀色の簪を拾い上げた。それにはもう、あの陽炎のような紫の揺らめきは消えていた。
「あなたがあのアヤカシを此岸に呼んだのか?」
警戒しながら麻紀は背を向けたままの徳永に問う。
徳永は振り返ることもせず、ただ何事も無かったように静かに答えた。
「いえ。私は彼女を監視するよう言われていただけ。そして使えなくなったら始末するよう命じられていただけです」
簪を全て拾い上げると、徳永は振り返って薄く笑った。端正な顔についた青痣が醜悪だった。それは麻紀が付けた痣だ。
「あなたがあなたの守りたい者を守れたことには敬意を表しますよ」
徳永はふいに由良に視線を向ける。麻紀は由良を後ろでに隠し、警戒した。
「白磁の欠片を手にいれることが出来なかったのは大変残念です。手を伸ばせは届く距離にあっても、私では白磁の欠片に触れることさえできない」
「ハクジの欠片とは一体何なんだ?」
結局そこを藍花から聞き出すことはできなかった。だが、徳永と藍花はつながっていて共にハクジの欠片を求めていた。そして、それは今自分の後ろにいる由良が持っているものだと分かった。
だがその正体は未だに暗闇の向こう側にあって何も見えず分からない。
「私は答えられません。ただ言えることは、白磁の欠片を持っているのは、彼女だけではないと言うこと。そしてそれを見つけるのは困難であること。彼女が持つ白磁はこれからも狙われ続けること」
徳永はそれだけ告げると身を翻した。
「……それでは、また、何処かで」
その時、麻紀は徳永尚也と言う人物と、これから何度も出会うだろうと、消えていく後ろ姿を見つめながら思った。




