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あやし奇譚  作者: 鶴田巡
10/12

拾.妖刀

 中庭には誰の姿もなかった。

狭い場所だったので、一度見回せば何かあればすぐに気づく。中庭から裏庭へと続く道があったので、もしかしたら裏庭の方へ行ったのかもしれない。由良は履き物も履かないまま、裏庭へと急いだ。

 裏庭に着いた時、またも左京の声と思われる唸り声を聞いた。一体どこにいるのだろうと辺りを見回していたその時、植え込みの影から凄い音をたてて何かが転がり込んで来る。 その塊を見た瞬間に、すぐ左京だと気がついた。

 その姿は傷だらけの血まみれ状態だった。由良はそんな様子になっている左京を見て、頭から血の気がさっと引く感覚を覚えた。

「左京ちゃん、大丈夫!?」

 唸り哮る左京に縋り付くと、一瞬表情を緩め穏やかな顔をして縋る由良の手に自らの頭をこすりつけた。そんな仕草に由良の涙腺が緊張を失う。

「ごめんね、私のためにこんなに傷つけさせてしまって…」


 どうして、自分の周りばかりが傷つくのだろう。

 どうして、こんなになるまで守られてばかりなのだろう。


 左京の体はあの女の鋭い爪で打ちのめされて、かなりの傷が出来ていた。茶色の毛並みもその傷から流れた血によってところどころが赤茶に染まっている。

 涙が落ちそうになるのもつかの間、再び左京が唸り始めた。

 はっとして顔を上げると、あの女が悠然と立ちはだかっていた。女も左京に噛みつかれたのだろう、着物の一部が裂けたり、千切れたりしている。

「しつこい狗だ、まだくたばってないのね」

 女は吐き捨てるように言うと、薄く笑った。

「お前が早く決めないからだ。そうして周りを傷つけて……生きることに貪欲で、誰かの生き死になど、興味もなくどうでも良い。さぞ満足だろう」

 そんな風に言われるのはひどく皮肉だった。

 望む痛みなど決してあるはずがないのに。

 それが自分を取り巻く周りの人々ならなおさらだ。

 女の嘲笑に、由良の中の心が、自尊が、谷底まで蹴り落とされたように感じた。

「私は傲ってなんかない。もう気持ちは決めたのだから。私一人の存在に、多くの人たちが傷つくくらいなら、私が居なくなればいいだけの話だわ」

 そうだ、もう戻ることのない決断を下したのだ。

 それを恐れていないと言えば嘘になる。

 けれど、それでも一度決めたことを覆すような、無様な格好だけは見せたくなかった。

「……聞いたか、狗神。お前が必死に庇う相手は、自ら魂を取られることを望んでいる」

 女はゆっくりとした歩調で、一歩、また一歩とこちらに近づいて来る。途端に左京の目が鋭くなるのを由良は見た。傷ついた体で、まだ戦うつもりなのだ。由良の覚悟など知らぬように、よろつきならが守る為に由良の前に立ちはだかる。

 もうこれ以上、左京を傷つけたくはない! そう願って由良は叫ぶ。

「ダメ、もう戦わないで! これ以上、傷ついたら左京ちゃんが死んじゃうっ!」

「往生際の悪い!」

 だが、無慈悲にも女は左京の前に立ち、鋭利な爪を振りかざした。

 ひゅんと一振りすると、ひゅんと軽い空気を裂く音。

 そして何度も聞いた、重たげな悲しげな悲鳴。


 胸が。

 耳が。

 引き裂かれるほど痛くなる。


 はね除けられた左京は、砂埃を巻き上げて数メートル地面を転がって行くとやがて止まり、けいれんしたように手足を引きつらせ、冷たい地面の上に横たわったまま立ち上がらなかった。

 由良は目が当てられない。

 痛ましい姿を目の当たりにして、それを直視できる勇気など何処にもなかった。

 それでも、自らを守る為に盾になろうとした左京に走り寄りたい、そんな思いが胸をよぎり由良はすぐに足を一歩踏み出した。

 しかし、すぐに足は止まってしまう。あの女が、一歩、また一歩とこちらに近づいて来るのが見えたからだ。

 それを見た途端、女が近づいて来る恐怖に足が竦んで動くことができなくなった。

 不甲斐ないと思う。

 未知の力を持つ女に、恐怖を覚えて動けなくなる自分。

 それに引き替え、ぼろぼろに傷つくまで戦って由良を守ろうとした左京。

 自分のことすら守れない、左京をあんなになるまで傷つけた罪悪感は身を打ちひしがれる以上の痛みだった。

 そして考えたくないけれど、嫌な思いが脳裏を過ぎった。


 もし、もしも、左京が死ぬようなことがあれば。


 由良は自分でも想像している以上に残酷な結末を思いついてしまい、その想像を振り払うように、頭を振った。


(そんなことになったら、誰が一番悲しむの? それは八重樫さんでしょ? ……そんなこと、そんな思いはさせちゃいけない)


 もうこれ以上、自分の前に悲惨な状況が散らばるなんてとても耐えられない。


 覚悟なら決めたはずだ。

 もう、戻らない。


 由良は一歩一歩と近づいていて来る女を見据えた。

 覚悟はできている。覚悟はもうとうの昔に決めたのだ。揺るがない。揺るがせてはならない。もう誰も傷つけない。


 女は由良の覚悟を見透かしたようにくすりと笑った。

 長く鋭い爪の照準を由良に合わせられる。


 たくさんの事が一瞬で頭を過ぎった。

 両親のこと。

 加奈のこと。

 友達のこと。

 左京のこと。


 そして、八重樫のこと。


(みんなごめんなさい。でも、もう誰も傷つけたくない)

「やっと、最後」

 由良と女の声が、リンクする。

 諦めと、確信。

「もう逃がさない」

 女は続けざまにつぶやいて構えていた手を力強く振り上げた。

「もう逃げない」

 鋭い刃の輝きを見つめながら、由良も諦念につぶやく。

 爪先は由良の心臓の辺りを狙っているのが分かった。一度で殺すつもりなのだと思った。

 

 振り降ろされる凶器を由良は目を開いて見つめた。


 これで、全部終わる。


 凶器が由良に襲いかかって来るのが、コマ送りのようにゆっくりと見えた。そして、その爪がまさに由良に噛みつこうとした時。

 目隠しのように黒いモノが視界を遮った。

 それが命を失おうとする瞬間に見えるものなのか。

 由良はそう思った。

 

 そして、間。


 うっすらと残る現実の感触に、ぼんやりと思考が働く。


 痛み。

 苦しさ。

 悲しさ。

 後悔。

 無力感。


 ……だがどれも、由良の中にはなかった。

 ただひとつあったものが。


 温もり。


 由良はそれで我に返った。温もり、誰かの温もり。抱きしめられている感触。懐かしいような匂い。


「大丈夫?」


 目を開くと声に呼応するように由良は口を開く。

「八重樫さ……ん」

 そこには八重樫の顔があった。

 由良が掠れた声でその温もりの名前を呼ぶと、彼は安堵したように微笑んだ。

 しかし、その顔は土埃にまみれ、所々に傷や痣があった。

「俺が来るまで無事でいてくれて、良かった」

 八重樫はまるで由良の存在を確かめるように、一度強くその体を抱き寄せた。

 由良はそれに苦しいと感じながらも、そうしてお互いが生きていることを確かめあっているのだと思った。そう思うと涙が出そうになる。

「八重樫さん、どうしてここに?! それにあちこちが傷だらけ……!」

 改めて八重樫の姿を見てみると、傷や埃にまみれているのは顔だけではなかった。

 この場に来るまでの間に、何かがあったのだと由良は直感的に思った。おもむろに腕の傷に手を近づける。酷いかすり傷で引き攣れた皮膚が赤くむき出しになってなっていた。

「今、詳しく話している時間はないんだ」

 困ったように一度笑うと、すぐに表情を引き締める。

 そして身を翻し、由良を庇うように立った。

「お前がここまで来たと言うことは、あの男を振り切ったのね」

「あの男とどういうつながりがあるか知らないが、随分邪魔をしてくれたよ。でも、あなたの言うように、振り切れたからここに居る」

 八重樫はそう言いながら、少し離れた場所に投げられたいた布で出来た長いものを手に取った。上部にぐるぐると巻かれた紐を解くと、包み込んでいた布がするりと抜け落ちた。

 そしてそこから姿を現したのは、黒塗りの長いモノ。

 八重樫はその長いものの端を両手で握るとゆっくりと広げた。


* * * * * * * *


 黒塗りのモノの中に納められていたのは、目映いばかりに光る銀色の鋭い刃だった。

 妖刀覇王。

 アヤカシを裁くために作られた刀。

 それは日の光を受けて、緋色の煌めきを放っているように見えた。

「来い、アヤカシ。決着をつける時だ」

 麻紀が挑発すると、女の顔が醜く歪む。あれほどまでに綺麗な顔が、あんなにも奇怪に変容する様を見て、麻紀自身がゾッとした。

 遺恨と言う感情は、物事を変容させる。それはヒトでも、アヤカシでも、同じなのだ。

「失せろ! 消えろ! イツバ!」

 左京を痛め付けて来た女の鋭い爪先が麻紀に向いた。麻紀は素早く鞘を投げ捨てると正面から真向かった。

 きいんと互いの刃がぶつかった。

「何故、此岸に来た?」

 つばぜり合いをしながら、麻紀が問いかける。

「何故か? 愚問だな。アタシは人間の人魂に惹かれて来た。それだけだ」

 それだけと言ったアヤカシだったが、麻紀には疑問が残った。

 彼岸から此岸へ来るリスクは大きい。まして人魂だけを求めてやってくるのは、かなりの危険を生じる。

 昔、祖父から聞いたことがあった。

 此岸と彼岸をつなぐ扉を開く事が出来るのは、ヒトでもアヤカシでも本当に限られた数しか居ないと。もし、このアヤカシがその扉を開くことが出来るチカラを持つのなら、こんな不確実性の中に長く留まろうとするだろうか。

 此岸にとどまれば、ととまるほど、アヤカシはアヤカシを狩るモノに遭遇する確率を上げる。もし、扉を往来することが出来るなら、ほとぼりが治まるまで身を隠すだろう。そうしながら何度も狙うはずだ。

 それがこのアヤカシに出来ないとして、では何故これほど長い期間、狩るモノたちから逃げ続けられたのだろう?

 それは何か特別な仕掛けがあったからだと思う。

 これは憶測だ。ただの仮説に過ぎない。

 その特別な仕掛けに繋がるものは、アヤカシの痕跡を消し去ると言う「技術」。五月から続いたあの事件の中で、消し去られた痕跡は、実は目の前にいるこのアヤカシのものではないのか。

 そして未明、麻紀は警視庁特務課の叔父から事件経過の報告を受けた内容を思い出す。

 その中に新しい情報が追加されていた。

 一人の少女の目撃情報だ。

 その少女は、事件現場付近の監視カメラにたびたび写っていたそうだ。しかし、写っていたものの、少女が事件に関わっていると言う決定的な証拠はなかったと言う。

 その話だけでは何ら事件解決の手がかりになることはなかった。

 だた、その少女の特徴が。

 競り合いをしながら麻紀は必死に考えた。

 戦うことだけを考えるべきだったが、腑に落ちない点がいくつもあって、どうしてもそれを考えざるを得なかった。

 思考を巡らせていると、どうしても動きが鈍くなる。危険を知らせるように意識が切り替わったその時、すでにアヤカシの爪が麻紀の頭上に掲げられていた。

「八重樫さん!」

 由良の声が悲鳴のように響いた。


 まずい。


 そう思った時は遅く、アヤカシの爪は麻紀の左顔面の皮膚をえぐった。それでも精一杯攻撃を避け、目をやられずに済んだが、こめかみと頬、それと耳と首に熱い痛みが走った。

「つッ……」

 血が流れ出している。肌の上を滑って行く生ぬるい血液の覚が嫌と言うほど感じられた。

「余計なことを考えているからよ。イツバとは、その程度なのね」

 アヤカシは勝ち誇ったように、口角を上げてにんまりと笑った。

 麻紀は右手の甲で目に入りそうになる血を拭う。

「……お前、誰にそそのかされたんだ?」

 麻紀はアヤカシをけしかけてみた。確信に至っていなかったが、これでもし、アヤカシが動揺するようなら、麻紀が立てた仮定が少し証明される。

「そそのかされた?」

 オウム返しのように、麻紀の言葉を繰り返すアヤカシの目に動揺のようなものが走った。

 その様子を見て、麻紀は確信に突き動かされたように言葉を紡ぐ。

「俺はお前には、此岸と彼岸をつなぐ扉を開く能力がないと感じている」

「何の話をしている?」

「もしそうであるなら、此岸と彼岸をつなぐ扉を持つ能力者のチカラを借りて、お前は少女を、由良を隠れ蓑に使いながらずっと俺たちから逃げ続けた。そして白磁の欠片は、お前達アヤカシの動きの痕跡や気配を消し去る能力をもつ石なんじゃないか?」

 これは本当にただの憶測だ。手元にある情報をつなぎ合わせてみただけの代物だった。けれど、麻紀にはこれ以上何も分からない。一か八か、組み合わせて出来た答えをアヤカシに投げつけて反応を見る他なかった。

「くく……あはは……あははははは!!」

 麻紀の出した答えが、さぞ愉快だったのだろう。アヤカシは豪快に口を開けて大笑した。

「面白い、面白い! イツバの人間とは、こんなにも面白いものなのね」

 一頻りあざ笑って、アヤカシは麻紀に向き直る。

「けれど、惜しいわ。……そうね、ここまで答えをでっち上げて得意顔出来るアンタに、少しだけご褒美をあげるわ」

 アヤカシの反応からして、やはり打ち立てた仮説は仮説程度だったのだろう。

 したり顔のアヤカシは続ける。

「アタシがこの娘を隠れ蓑に使っていたのは、残念ながら当たっているわ。何故だろうね、気配を消すことが出来たのは確かよ。おかげで人魂を盗るのに苦労しなかった。それに白磁の欠片も持っていたしね。……アタシにとっては嬉しい誤算だったけど。もしかしたら、白磁の欠片には、アヤカシを引き寄せて痕跡や気配を消してしまう性質があるのかもしれないわね。イツバのアンタが持つ、あの瑠璃の石の性質とは真逆の、ね」

 アヤカシは勝ち誇ったように笑みを浮かべている。

 口を開いたアヤカシから発せられた言葉は肯定を含んでいた。少ないが麻紀の推測は真意を擦ったのだ。

「でも、そんなことはどうでもいいのよ!」

 ふいに間合いを詰めて近づいたと思うと、あの鋭い爪を縦横無尽に振り回した。麻紀は咄嗟に半歩退いて身をかがめ、覇王を使い、あらゆる角度からなだれ込んで来る月白色をした氷槍を躱していく。

「アンタの空論の答えなんて、導く価値もないもの」

 にい、と、また唇を歪めてほくそ笑む。

 防戦一方の麻紀の様子に、勝機を確信しているのか、アヤカシの表情はひどく余裕のあるものだった。叩き込む刃により一層の力が込められるのを両手に伝わる振動で感じ取る。

 しかし、やられるだけで黙っていられるわけもない。

「そうだな、確かにそんなことはどうでもいいことかもしれない」

 追撃を刀身で受け止めると麻紀は呟いたが、自分で呟いた言葉に違和感を感じる。

 実際、麻紀の使命と言えば、アヤカシを管理すること……すなわち、その存在を害と見なし此岸から放逐することにある。平たく言えば、追放、あるいは駆除。イツバの言葉を借りれば、還す。封じる。だがその実は、覇王を持ってその存在を抹消すると言うことだ。

 アヤカシの存在を此岸から消してしまえば、それはもう完結だった。それまでの経緯や、アヤカシによって傷ついた人々、いざこざに巻き込まれた人々、全てはまるで夢の中の出来事のように無かったことにされて日常に帰す。

 イツバのもう一つの仕事は、人々の異常を正常に戻すこと。


 特異を祓い、常態を復する。

 それが、イツバの存在理由。

 それが、己の命題。


 終わってしまえば、全て解決したことになる。

 アヤカシが消えれば、全ては終わる。


 ……だが、本当に?


「それなら、もう消えてもらう! アヤカシ!」

 口で発した言葉と、心にある何かの不一致を弾き飛ばすように覇王を振りかざした。力一杯にアヤカシの刃をなぎ払うと、素早く刀を返して空いた脇を狙う。

 アヤカシはやられてなるものかと、身を翻し高速で後ろへ飛んだ。麻紀はそれを読んでいたようですぐに前へ踏み込み、大きく開いた距離を駿足で詰める。踏み込んだ拍子に真横から大きく刀を斬り込む。

 ざわっ、と空気が鳴いた。

 刹那。

 ぎいいいんと刃柱が衝突する。

「ちっ……」

 無音の中に仕留め損なった悔しさが滲む舌打ちが響く。

「鬱陶しい!」

 アヤカシが呟いた。

 麻紀の覇王をアヤカシが打ち返す。続けざまに手首をひねって氷槍を突いて来る。

 びゅうと槍先が空を裂く。

 突きの動きに、麻紀は地面を蹴った。宙に浮きながら足下を鋭く抉って行くアヤカシの刃を見下ろす。

「っ!!」

 しまったと言うアヤカシの表情が、軽々と宙を漂う麻紀を捉えていた。


 逃さない。


 麻紀の目が凛として眼下のアヤカシを見つめている。


 仄朱い閃光がアヤカシの視界を遮った。

 朝焼けに土埃と乾いた臭いが立ちこめる。

「うぐ……がッ!!」

 覇王の牙はアヤカシの左肩をえぐった。

 途端に、そこから瘴気が上がる。その様子はまるで黒い虫が集まっていたところに、物が触れで散らばって逃げて行くようだった。そしてしばらく空気に触れると、それは音もなく消え去ってしまう。

 アヤカシは切り裂かれた左肩を庇いながら、数歩よろめくように後ろへ下がって、しばらく下を向いて動かなかった。

「……いっ……」

 いつでも攻撃を始められる体勢で様子をうかがっていた麻紀の耳に、消え入るような嗚咽が聞こえた。来るか、そう思って柄を握り直す。

 だが、アヤカシはぐらつきながらもその場から動かない。もう一度、何か聞こえた。

「……だ、……だ」

 聞き取れない。だが、何か訴えているようだった。

 目を見張っていると、アヤカシは急に顔を上げる。その顔は優美な美しさの欠片もない、酷い形相だった。

「アタシは消えない! 消えてたまるものか! ははっ……はははははは!」

 錯乱したように一頻りせせら笑った後、アヤカシは鬼のような顔貌で麻紀を睨みつけた。

 幾度か、アヤカシの今際の際に立ったことがあったが、この時のアヤカシの顔には動揺してしまった。ふいに緊張の糸が切れる。それを相手は見逃さない。

「!!」

 一突きだった。持っていた刀は弾かれて弧を描く。

 手が見る見る内に赤く染まった。痛みと熱さが同時に神経を犯して行く。

 だが、そんなことに気を奪われている場合などではなかった。はっとしたその次には、足元を掬われて体勢を崩しかけていた。慌てて地面に手を付き、立て直しを図ったが負傷している手では体を支えきれない。急遽、肩から転がって間合いを取ろうとしたが、無理だった。

 背中に衝撃が走った。突っ伏すように無様に顔を地面に押しつけられた。

 振り返るとアヤカシがそこにいた。

「呆気ないねぇ……」

 そう言ってアヤカシは目を細める。

「イツバってこんなもの? ……アタシは何に脅えていたんだろうね」

 自嘲するように、静かに笑った。しかし笑っているのは声だけだ、顔は複雑に強張っている。

「見てよ、これ。アンタのおかげでこの様よ。体が砂礫のように崩れて浚われて行くのが嫌と言うほど実感できる」

 覇王に食いちぎられた箇所は、水面に墨汁を垂らしたように序々に広がっているのが麻紀の目のも明らかだった。

 苦しいのだろう。体が大きく揺れているが、麻紀を押さえつける足は力強く、そしてその喉元を狙う切っ先はブレることはない。

「この傷を癒すのに、どれだけの人魂が必要かしら? また、あの甘美な味を味わえると思うと……ふふふ……」

 もしも。

 もしもだ。

 ここで自分が倒れたして、それからどれだけのヒトがこのアヤカシと言う存在に傷つけられるのだろう。麻紀自身と、そしてきっと由良と。それから、考えつかない数のヒト。一人か、二人か。それとも十人? もっと? アヤカシの傷を癒すほどの犠牲の数など誰も教えてはくれなかった。

 思考が及ばない。体を蝕む痛みが頭まで鈍らせてしまっているのか。

 恐らく、ここで麻紀が息絶えたとしても別の誰かがこのアヤカシの存在を正しにくるだろう。イツバの者か、あるいはそれ以外になるか。総領が直に手を下すかもしれない。それならば一番安心だ。彼は心の底からアヤカシを憎んでいる。麻紀のように捩れた感情を持たない。そして、この件は解決する。アヤカシを律すれば、人々は日常を取り戻す。取り戻すはず。


 ……本当にそうだろうか?


 また同じ考えが頭を過ぎった。

 このアヤカシが消えれば、それまでのことも全部消えるだろうか。


 消えない。

 

 その四文字が頭を掠めた。

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