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第2話 倍で買う銀狐

 赤いオープンカーのハンドルを握るのは僕で、助手席には取り巻きのトビー、後ろの座席には歌い手のルシールと用心棒のジーナが乗っている。

 今日の行き先は、まず仕立て屋だ。


 仕立て屋は港寄りの繁華街を抜けた先の、銀行が三つ並ぶ通りにあって、そこへ出るには港通りとの交差点を一つ跨がなければならない。


 繁華街を流していくと、街の連中の顔がおもしろいように二つに分かれる。


 店の前を掃いていた商店主たちは、赤い車を見るなり箒を放り出して帽子を取って頭を下げる。

 行きつけの帽子屋の親父などは、わざわざ車道まで出てきて揉み手をする。


「アッシュクロフトのレオン様! 新しい中折れが入っておりますよ、お帰りにぜひ!」


「気が向いたらね! いいのを取っといてよ」


 手を振ってやると、親父は振られた手を拝むようにもう一度深々と頭を下げた。

 あの親父の店の売り上げの何割かは、僕と僕の取り巻きの帽子代だ。拝みたくもなるだろう。


 角の菓子屋の前では若い売り子が二人、白い前掛けのまま手を振っている。

 僕が車の上から一ダル硬貨を二枚放ってやると、二人は黄色い声を上げてそれを拾い合う。


 いい眺めだ。


 ルシールが聞こえよがしに鼻を鳴らした。


「一ダルで黄色い声が買えるなら安いものね。あたしの声は、もうちょっと高いわよ」


「知ってるよ! 九千ダルだろ?」


 ルシールは返事の代わりに、満足げに襟巻きの狐の頭を撫でた。

 九千ダルで機嫌が直るのなら、安いものである。


 一方で、歩道を歩く工員たちは赤い車を見ると目を逸らす。

 昼飯の包みを抱えた女が、手を引いていた小さな娘をさっと店の軒下へ引き寄せた。


 この街の母親たちはアッシュクロフトの次男の車の前に子供を出すな、と娘に教えているらしい。


「ほら、また隠された。レオンの車、この辺じゃ人さらいの車より怖がられてるんだよ」


「轢いたことなんか一度も無いぞ!」


「轢かれたって、誰もレオンを訴えないからだよ。番頭が封筒を一つ届けて、それで終わりだもんね」


 トビーは号外の陰で、なぜか得意げな顔をした。

 轢いてもいない子供のことで手柄顔をされても、ちっとも嬉しくない。


 前の世界の物語なら、こういう金持ちの息子は最後に痛い目を見ると決まっている。

 だからといってやめる気は少しも無い。痛い目とやらが来る前に、この人生を楽しみ尽くしてしまえばいいだけの話だ。


 港通りが近づくと、歩道の顔つきがまた変わる。


 角の酒場の前で若い人足が三人、袖を肩までまくって煙草を吹かしている。

 三人とも肘から先が生体部品(バイオウェア)で、肌との繋ぎ目を刺青でぐるりと縁取ってある。鎖に茨に蛇。


 目を逸らす工員と違って、こいつらはこっちを見る。

 一人が太い作り物の腕を持ち上げて、見せつけるように拳を握ってみせた。


「よう、坊ちゃん! いい車だな。この腕なら片手で引っくり返せるぜ!」


 残りの二人が、げらげらと笑って口笛を吹く。

 笑い声まで安っぽい。


 何の自慢だ、と思う。安物の腕を、よりによって僕に見せてどうする。


 見せびらかす相手も分からない能無しどもだ。


「やだ、こっち見てる。港の子って、なんであんなのが自慢なのかしら」


 ルシールが狐の襟巻きの陰で、心底呆れたように眉を寄せる。


「安いウェア」


 後ろの座席でジーナが鼻で笑った。歩道の腕から目を離さず、品定めでもするように目を細めている。


「色も形もいじってない、一番安い型。それに繋ぎ目に線なんか彫っちゃってさ。ばらす奴が喜ぶよ。どこで切ればいいか、ちゃんと書いてあるんだもん」


 ジーナは自分の手首の縫い目を、指先ですっと横になぞってみせた。

 ひどく楽しそうな顔だった。


 考えたこともなかったが、言われてみればそのとおりだ。この娘はこういう所にだけはよく目が届く。


「やめてよ、気持ち悪い」


 ルシールが自分の手首を絹の袖の中へ引っ込める。


「でもほんとだよ。先週も運河で一人浮いてたってさ。両腕とも、繋ぎ目のとこからきれいに無くなってたって。両替に来た人足が青い顔して話してた」


 トビーが号外から顔を上げて声をひそめた。怪談でも話すような口ぶりで、こういう話になるとこの男は妙に嬉しそうだ。


「腕なんか取って、どうするのよ」


「闇の施術所に流すんだよ。買い叩かれて、また別の誰かに安く入れられるんだって。剥がされたほうは運河か溝に浮く」


 ルシールが小さく身震いして、聞かなきゃよかったという顔をした。


 もっとも、そういう死体を僕は一度も見たことが無い。朝までには会社の警察が片づけておいてくれるからだ。


 見たことの無い物は、僕にとっては無いのと同じである。


「あたしのとこにも来ないかなあ。あたしの、高いんだよ」


 ジーナが扉の縁に頬杖をついて、本気で残念そうにぼやく。

 来た奴が次の朝に運河に浮く番になるのは、目に見えている。来てくれれば一つ見物が増えるのに、と僕も少し残念に思った。


 交差点の手前で、路面電車が鐘を鳴らしながら車の列に割り込んで来た。

 仕方なくブレーキを踏む。


 せっかくの仕立て屋行きが電車一台で足止めとは、ふざけやがって。


 目の前を塞いだ電車の横腹には、白い大きな字で標語が書いてある。


 ――人は人のまま、強くなれる。


 うちの会社の文句だ。工場の門にも給料袋にも同じ字が刷ってある。


「人のままで強くなれるんなら、さっきの連中、給料つぎ込んで腕なんか換えないよね」


 ジーナが電車の横腹の白い字を見上げて、意地悪く目を光らせた。

 身も蓋も無い言い草に、僕は思わず吹き出した。そのとおりだが、文句を考えたのは僕ではないので知ったことではない。


 電車の窓には昼飯に出る工員がぎっしり詰まっていて、その誰もが吊り革につかまったまま号外の株式欄を覗き込んでいる。


 電車が行ってしまうと、向こうの壁に色の褪せた大きな広告が一枚貼ってあるのが見えた。


 ――あなたの身体に、もう一度働く力を。戦傷者向け新型生体義肢。

 国立医療研究局認可。分割払い可。適合検査無料。ハーグレイヴ義肢会社。


「あ、ハーグレイヴだ。一ポイント半。レオンが持ってるやつ」


 トビーが壁を見るなり、条件反射のように読み上げた。


「壁にまで株を探すなよ!」


「探してないよ。目に入っちゃうんだもん」


 トビーは心外そうに首を振ったが、目はまだ広告の会社の名前に貼りついたまま離れようとしない。


 広告の下の煉瓦には、赤い塗料で大きく書きなぐってあった。


 ――輪を割れ。


 まだ新しいのか、字の端から赤い筋が垂れている。


「ねえ、まだ乾いてないじゃない。書いた人、その辺にいるんじゃないの?」


 ルシールが気味悪そうに歩道を見回す。


「どうせ港の若い人足か帰還兵だろ。いたって、僕の車に石を投げる度胸も無い連中だよ」


 腹は立たない。壁の落書きにいちいち腹を立てるほど、僕は暇ではないのだ。


 その落書きの下の歩道に、男が一人、木箱に腰掛けている。


 四十をいくつか過ぎた無精髭の男だ。

 陸軍の古い外套を着て、胸には色の褪せた略綬を三つ並べ、左の袖を肘の上で結んで垂らしている。

 足元に置いた帽子の中にはマッチ箱が十ばかりと、小銭が少し。


 前の大戦から帰ってきた兵隊である。

 繁華街の角には、こういう男がどこにでも一人は座っている。


 男は僕の赤い車を見上げていた。

 正確には、車の扉に小さく描いたアッシュクロフト家の紋章を。


 それからゆっくりと歩道に唾を吐いた。


 頬がかっと熱くなった。


 女を乗せているときにやられると、さすがに顔に出る。


 ああ、またか、と僕はうんざりする。帰還兵ってのはどいつもこいつもこうだ。

 歩道の犬の糞と同じで、こっちが避けて通るしかない。


「感じ悪い。何よ、あれ」


 ルシールが唾の落ちた歩道から顔をそむけて、鼻に皺を寄せる。


「さあ。僕の車が気に入らないんだろ」


 紋章を見られたのは分かっていたが、僕はとぼけた。


「車じゃなくて紋章だよ、レオン。あの略綬、前の大戦のだもん。アッシュクロフトの銃を担いで海を渡って、手足を向こうに置いてきた人たちなんだ。うちの店に両替に来る帰還兵も、レオンの家の話になると、みんなああいう目をするよ」


 トビーが号外を膝に伏せて、気の毒そうな顔で講釈をした。

 気の毒がっているのが帰還兵なのか僕なのか、どうもはっきりしない顔だ。


 大戦のあいだに祖父の小さな銃の工房が新大陸一の兵器会社にまで大きくなったことくらいは、僕だって知っている。


「それがどうした。その戦争が終わったのは、僕が生まれる三年も前だぞ」


「それはそうだけどさ」


 トビーは何か言い返しかけて、結局また号外に目を落とした。

 僕と言い合ったところで一ダルの得にもならないことを、この男はよく知っているのだ。


 手足を失ったのはお気の毒だが、戦争に行ったのは彼らで僕ではない。


 銃を売ったのは祖父と父で、これも僕ではない。

 おまけに彼らの多くは、街の角で物乞いをするか酒を飲んで暴れるか、薬が切れて何をするか分からなくなるかのどれかだ。


 この街の厄介事の半分は、帰還兵が持ち込んでいると言ってもいい。


 そうやって言い返しているうちに、腹の底がじわじわと熱くなってくる。

 片腕の物乞いに唾を吐かれて、黙って通り過ぎるアッシュクロフトの次男では、どう考えても格好がつかない。

 おまけに後ろの座席には、女が二人も乗っているのだ。


 相手は片腕で木箱に座った物乞いだ。こちらに損が来る相手ではない。

 頭の上の赤い字だって、こいつが書いたのかもしれないのだ。


 胸糞が悪い。


「ジーナ」


「なに」


「やれ」


 それだけで十分だった。

 ジーナは膝の上の鞄を座席に置くと、車の扉を開けもせずにオープンカーの低い縁をひらりと跳び越えて歩道に降りた。


 作り物の両脚が石畳を猫のように軽く打つ。


 男が顔を上げたときには、もう遅い。


 ジーナの白い右の拳が、男の頬を真横から打ち抜く。

 男は木箱ごと後ろへひっくり返り、帽子の中のマッチ箱と小銭が歩道に派手に散らばる。


 起き上がろうとした男の腹に、ジーナの靴の先がめり込んだ。二度、三度。


 男が体を丸めると、今度は残った右腕を掴んで捻り上げる。

 男の口から、潰れた蛙のような声が漏れた。


 いい気味だ。


 あんな細い腕のどこにそんな力があるのか、と通行人たちは目を丸くするのだろう。

 答えは簡単で、その腕はジーナの物であってジーナの物ではないのだ!


 ジーナが手を放したとき、男は歩道の上で鼻から血を流し、肩で息をしていた。


 僕は運転席の扉を開けて歩道に降りる。


「……ちょっと、レオン。何しに行くのよ」


 後ろの座席から、ルシールの呆れた声が追いかけてくる。


「挨拶だよ! 唾のお礼をまだ言われてないからね」


「よくやるわね、ほんと」


 ルシールは狐の襟巻きに顎を埋めて、心底うんざりした顔をした。

 止める気は無いらしい。止めても無駄だと知っているのだろう。


 僕は歩道に転がった男の前にしゃがみ込む。

 間近で見ると、男の外套は袖口が擦り切れていて、安酒と汗の臭いがした。


「なあ、おじさん。唾を吐く相手は選んだほうがいいよ? 僕が生まれる前の戦争の恨みなんか、僕に言われても困るんだ。ほら、マッチ、全部買ってあげようか? 十ダルでいい? 気前がいいだろ?」


 自分でも、意地の悪い声が出ていると分かった。それがまたたまらなく気持ちいい!


 男が血の混じった唾を飲み込んで、僕を見上げた。


 その目に何か光るものがあった。


 次の瞬間、男の外套の懐から、残った右手が飛び出してくる。

 握られていたのは、刃渡りの短い折り畳みのナイフだ。


「レオン!」


 ジーナの声と、僕の手のひらに熱い線が走ったのが同時だった。


 顔をかばって突き出した僕の左手を刃がかすめていく。

 二撃目は来ない。ジーナが横から男の手首を掴み、そのまま歩道の石畳に叩きつけたからだ。


 乾いた枝を折るような音がして、ナイフが歩道の上を滑っていく。

 男の悲鳴はさっきの蛙の声よりずっと高い。


 ジーナは止まらない。

 男の胸ぐらを掴んで引き起こし、白い拳を顔に腹にもう一度顔に打ち込んでいく。


 換装(グラフト)した腕の拳だ。鈍い音のたびに男の体が人形のように揺れる。

 歩道の石畳に赤い物が点々と散っていく。


 だが僕はそれどころではなかった。


「血……血が出てる!」


 左の手のひらに赤い線が一本斜めに走っている。

 そこから、ぷつぷつと血の玉が浮き上がって、指の付け根へ流れていく。


 痛い。


 信じられないくらい痛い!


 この世界に生まれてから十九年、僕は転んで膝を擦りむいたことすらほとんど無い。

 屋敷には医者がいて、外では取り巻きが先に転んでくれる。

 痛みというものにまるで慣れていないのだ。


 前の人生の世の中では、風邪ひとつで病院の待合に半日座って待つのが当たり前だった。


「そんな傷、唾つけとけば治るよ」


 いつの間にか、ジーナが僕の前に立っていた。拳の甲には男の血がこびりついている。

 肩越しに見ると、男は歩道の上で体を丸めたまま、動いているのかいないのか分からない。


「治らないよ! ナイフだぞ! あいつのナイフ、どこで何を切ったか分からないんだぞ!」


「いいから、貸して」


 ジーナは僕の左手首を掴んで引き寄せると、ためらいもなく手のひらの傷に舌を這わせた。


「ちょっ……汚いって!」


「汚くないよ。あたしの、効くんだから」


 ざらりとした舌の感触に、思わず手を引っ込めかける。

 だがジーナの作り物の手は、僕の手首を万力のように掴んで離さない。


 二度、三度と舐めて、それから彼女はぺっと血の混じった唾を歩道に吐いた。


 手のひらを見る。


 赤い線はまだそこにある。だが血の玉はもう浮いてこない。

 傷口の縁が薄い膜を張ったように閉じかけていて、見ているあいだにもその膜が少しずつ厚くなっていく。


「……なにこれ」


「言ったじゃん。効くって。心臓と肝を替えてから、あたし、怪我がすぐ治るんだ。舐めると、人のも治る。小さいのなら」


 ジーナは手の甲の血を自分のワンピースの裾で拭きながら、つまらなそうに肩をすくめる。


「なんで舐めると治るんだよ」


「換装(グラフト)した心臓と肝から何か漏れてて、それが血と一緒に体じゅう回ってるんだって。だから傷がすぐ塞がるの。医者が説明してたじゃん。レオン、あのとき欠伸してたけど」


 ジーナは僕の顔を下から覗き込んで、意地悪くにやりと笑った。

 言われてみれば、そんな話を聞いた覚えはある。自分の手で確かめたのは初めてだった。


 痛みもさっきより半分ほどに減っている。

 モンスター由来の物を体に入れた、と兄が聞いたら目を剥くだろうが、傷を治しただけならうちの白輪派でも治療のうちに入る。


 文句を言われる筋合いは無い。


 僕は急に恥ずかしくなった。何が「ナイフだぞ」だ!


 車の中からトビーが身を乗り出して、僕の手のひらを覗き込む。


「ほんとに塞がってる。……でもレオン、さっき『血が出てる』って叫んでたよね。煙草屋の親父が店から顔を出してたよ」


「叫んでない!」


「叫んでた。ルシールより高い声で」


 ジーナが拳の血を眺めたまま、さらりと付け足した。余計なことだけはよく覚えている娘である。


「ちょっと、なんであたしが引き合いに出されるのよ」


 ルシールが後ろの座席から身を乗り出して眉を吊り上げる。


「だって、レオンのほうが半音高かったもん。あたし、ちゃんと聞いてた」


「聞かなくていいんだよ、そんなもの! 切られたら誰だって声くらい出るだろ」


 自分でも、ろくな言い返しになっていないのは分かった。顔が熱くなる。


 クソったれ。


 そこへ鋭い笛の音が通りに響いた。


 紺の制服の警官が一人、ようやく車道を渡ってくるところだ。

 肩に叔父の会社の徽章を付けたその男は、通りの向こうの角に突っ立って、どうやら一部始終を眺めていたらしい。


 僕が切られるまで、のんびり見物していたのだ。


 見物する暇があったら、あのおっさんの懐でも探っとけ。給料泥棒め!


「レオン様! お怪我は」


「見れば分かるだろ? 手だよ。もう塞がったけどね」


 警官は僕の手のひらの赤い線を見て、目に見えて肩の力を抜いた。

 アッシュクロフトの次男が自分の受け持ちの角で刺されたとなれば、この男の首が飛ぶのだ。


「それはようございました。……お車のほうは」


「車も無事だよ。唾も掛かってない」


 人の次に車の心配をして、歩道に転がった人間は数に入れない。それが叔父の会社の警官というものらしい。


 それから警官は、ようやく歩道の男を見下ろした。


 男はジーナが手を放したときの格好のまま、体を丸めて転がっている。

 顔の形がさっきとは少し違って見える。捻られた腕は肘から先があらぬ方を向いていた。


 口の端から赤い泡がぷくぷくと浮いては消えていく。


 警官はしゃがみもしない。

 靴の先で男の肩を押して、呻き声で息があるのを確かめると、角のほうへもう一度笛を吹く。

 それから歩道の端に落ちていたナイフを拾い、ハンカチにくるんで胸のポケットにしまった。


 すぐに角から見回りの車が一台、幌を揺らして曲がってきて、降りてきた警官二人が男の両脇と両足を抱えて持ち上げる。


 男は幌の下の荷台へ放り込まれ、折れた腕が荷台の床板に当たったところで、くぐもった呻き声を一つ漏らした。


「幌は下ろしとけ。表通りだぞ」


 笛の警官が荷台に声を掛けた。

 表通りの買い物客に、血まみれの物乞いを見せて回る訳にはいかないらしい。


「あの腕、もう元には戻らないよ。施療院なら、肘から切って終わり」


 ジーナが幌の閉まっていく荷台を眺めて、舌なめずりでもしそうな顔をした。

 自分がへし折った腕の行く末を、この娘は誰より正確に知っているのだ。


「どこへ運ぶんだ」


「市の施療院でございます。帰還兵の物乞いは、あそこへ届ける決まりでして」


 警官は手帳を開きながら、事もなげに返してきた。

 届けた後のことまでは、この男の仕事に入っていないらしい。


「先にナイフを出したのはあっちだからな!」


「承知しております。帰還兵、刃物にてレオン様を襲撃。……そう書いておきます」


「傷のこともちゃんと書いとけよ。手のひらを切られたんだからな」


「はい。左の手のひらに、かすり傷と」


 警官は手帳に鉛筆を走らせるあいだ、ジーナの拳にこびりついた血には一度も目を向けなかった。

 かすり傷は余計だが、話の早い男だ。給料泥棒は取り消してやってもいい。


 書き終えると、警官は顔を上げて壁の赤い字に目を留めた。そこで初めて眉をひそめる。

 手帳の頁をめくり、垂れた筋の形まで字を書き写し始めた。


 トビーが助手席から首を伸ばして、その警官を顎で指す。


「見てよ、あの警官。おっさんの時より、壁の字のほうを丁寧に書いてる」


「血は明日には乾くけど、字は誰かが消さないと消えないからだろ」


 ルシールは荷台のほうを見ないまま、狐の襟巻きを口元まで引き上げた。


 見回りの車は鐘も鳴らさずに、来た角を曲がって行ってしまった。


「あのおっさん、施療院まで持つかな」


 トビーが角のほうを振り返って、ぽつりと漏らした。

 そのくせ目はもう、膝の号外の株式欄に戻りかけている。


「知らないよ。医者に訊いてくれ」


 帰還兵が一人繁華街の角で死んだところで、明日の新聞の三面に一行載るかどうかの話だ。


 この街では――いや、この時代では、誰もそんなことを気にしない。

 気にするのは、刃物を出された僕の手のひらの傷の具合くらいのものである。


 僕は左手を一度握って開いてから、運転席に戻った。痛みはもうほとんど無い。


 トビーが水筒を差し出した。


「ゆすいだら? 血の味、するでしょ」


 ジーナは首を振って押し返し、口を結んだまま、舌の先で奥歯のあたりを探っている。

 唾を吐いたあとで口が気持ち悪いだろうに、意地を張る娘だ。


 さあ、仕立て屋だ。


    ◇

 仕立て屋で新しい背広(スーツ)を二着誂え、ついでにトビーの分の上着も一着誂えてやった。


「いいの? 僕の分まで」


「その袖の擦り切れた上着で隣に座られると、僕まで両替屋の倅に見えるんだよ」


「両替屋の倅だよ、僕」


「だから言ってるんだよ! 今日から少しはましな倅に見せてやる。感謝しろよ?」


 トビーは口を尖らせたが、仕立て屋の鏡の前で新しい生地を胸に当てたまま、なかなか離そうとしない。

 文句を言いながら顔が緩んでいるのだから、安い男だ。


 それから僕たちはグリーン街の角の毛皮屋へ回った。


 銀狐の襟のコートは店の奥の硝子の箱の中に、首のない人形に着せられて飾ってある。

 襟の銀色の毛先が、店の明かりを受けて一本ずつ光っている。


 その袖口に小さな厚紙の札が一枚、絹の紐で下がっていた。

 ――御売約。


「あら」


 ルシールの声が、目に見えてしぼんだ。

 舞台の上では一度も見せない、菓子を取り上げられた子供のような顔だ。


 店の女主人が揉み手をしながら飛んできて、申し訳なさそうに眉を下げる。


「まことに相済みません、レオン様。そちらは昨日、この先の銀行の支店長の奥様がお取り置きを、と……。銀狐でしたら、ほかにも奥にございますので、ただいま」


「奥のはいいよ。これがいいんだろ、ルシール」


「……これがいい」


 ルシールは硝子の箱から目を離さずに、子供のように小さく頷いた。

 この女にこういう顔をさせておくのは、僕の趣味ではない。


 なら、簡単な話だ。


「じゃあ倍払う! 奥様には別の狐を見繕っとけよ」


 女主人の揉み手が、ぴたりと止まった。


 その目が硝子の箱と僕の顔の間を二度往復する。支店長の奥様に何と詫びるかを考えている顔だった。


「……あの、奥様には、何と申し上げれば」


「アッシュクロフトの次男に横から取られた、って言えばいい。それで向こうも分かるさ」


 僕を断った後で、この通りで店を続ける方法までは思いつかなかったらしく、女主人は黙って箱の鍵を開けて袖口の札の紐を指でちぎった。


 名前と金で順番を抜かすのは、何度やっても気持ちがいい!


 顔も知らない支店長の奥様が明日この店に来て空の硝子の箱を見る顔を思うと、なおさらだ。


 ルシールはコートを素肌の腕に羽織るなり、鏡の前でゆっくりと回ってみせる。

 さっきのしぼんだ顔はどこへやら、勝ち誇った顔だ。

 回りながら鏡越しに僕と目を合わせ、襟の毛皮を指先でなぞって胸元を少しだけ開く。


 今夜のことを思い出せ、という合図である。


 女主人がまた揉み手を始めて、一万八千ダルでございます、と上ずった声を弾ませた。倍の値段を口にするのはさすがに初めてなのだろう。


 生まれ変わる前の世界なら、値段を見て黙って棚に戻すところだ。

 倍と聞いても迷わずに済む今のほうが、どう考えても楽しい。


「いただくわ。ね、レオン?」


「いただくよ! 屋敷に請求書を回しといて」


「一万八千って、工場の人の半年分だよ。狐一匹で」


 トビーが僕の肘をつついて、頼まれてもいない計算を小声で披露した。数字を口にしているときのこの男は、いつもどこか嬉しそうだ。


「三十ダルの狐が、一万八千。いい商売」


 入り口の脇からジーナが鼻で笑った。車の中で言ったのと同じ台詞だが、今度は女主人の顔を見ながら言っている。

 女主人の頬が引きつったのを、ジーナは楽しそうに眺めている。


 ルシールは聞こえないふりで満足げに喉を鳴らし、毛皮の襟ごと僕の腕に体を押しつけてきた。

 柔らかい物が二の腕に当たる。


 今夜この女がこのコートの下に何を着てくるのか、あるいは何も着てこないのかを考えると、手のひらの疼きなどすっかり吹き飛んでしまった!


 ジーナはさっきから店の入り口の脇に立ったまま、一歩も中へ入ってこない。

 硝子の箱に並んだ毛皮を、まるで解体場の吊るし肉でも見るような目で眺めている。


「ジーナ! お前も何か選びな。さっき、買ってやるって言ったろ?」


「要らない。死んだ狐、着たくない」


「じゃあ何が欲しいんだよ」


 ジーナは少しのあいだ黙っていた。

 それから縫い目の残る白い右手を持ち上げて、店の明かりにかざす。


「背中」


「……また?」


 僕は思わず天井を仰いだ。


「先月が右手で、その前が目で、その前が脚だろ。お前の体、いつになったら落ち着くんだよ」


「さっきのおっさん、片手だったのに、ナイフ出すまで分かんなかったんだ。あたし、背中に鳥の筋肉を足したら、もっと速く動ける。それから、拳に蟹の殻を張ったら、殴っても手が痛くないし。指の先も獣の爪みたいに硬くしたら――」


「駄目」


「なんで。背中なら、服で見えないじゃん」


「見えなくても駄目」


「……ふうん。ま、そういうことにしといてあげる」


「うるさい」


 ジーナは僕の顔をしばらく眺めてから、それ以上は何も言わずに目を逸らした。何もかも見抜いたうえで、黙っていてくれる顔だった。

 この娘は強くなれるなら、腕に殻を張っても目を光らせても、背中に鳥の筋肉を瘤のように盛り上げても構わないのだ。


 人間らしい見た目などには、これっぽっちも未練が無い。


 だが僕にはある。この白い顔と黒い瞳と細い手首が、僕は気に入っているのだ。

 それに見えるか見えないかの話ではない。


 ジーナの手足も目も心臓も、もうあらかた生まれたときの物ではないが、それでも今はまだ抱き寄せれば柔らかいただの女の体なのだ。

 そこに鳥の筋肉だの蟹の殻だのを詰め込まれたら、僕はたぶんこの娘を女として見られなくなる。


 それは困る。


「……ちぇっ」


 ジーナはしばらく横目で僕を睨んでいたが、やがて諦めたように鞄を胸に抱え直した。


「じゃあ、何なら買ってくれるの」


「銃でもナイフでも! 一番いいのを選べよ」


 ジーナの目の色がぱっと変わった。

 毛皮屋に入ってから一度も見せなかった顔で、噴水の晩に「どのくらい?」と訊き返したときの顔に近い。


「……ほんと? じゃあ、もっと細いナイフ。骨と骨の間に、すっと入るやつ。入れたまま捻れるくらい硬いの」


 嬉しそうに言う中身がそれなのだからたまらない。

 殻や爪は駄目でも手に持つ道具なら天井知らずでいい。それが僕の線の引き方だ。


 僕はまだ赤い線の残る左手で請求書の控えをポケットにねじ込みながら、ジーナの頭を軽く叩いてやった。


「お前の体は今のままでいいんだよ。これ以上強くなられたら、僕が困る」


 ジーナは返事の代わりに、僕の左手を軽く叩き返した。傷の所はちゃんと避けている。

 銀狐を抱えて店を出てくるルシールと、鞄を抱え直すジーナと、請求書の控えで膨らんだ僕のポケット。

 毛皮屋の硝子戸に映ったそれを眺めながら、僕は思う。


 金持ちの家のドラ息子というのは、やってみると、実に楽しい。


カクヨムで先行公開しています。続きを早く読みたい方はこちらへどうぞ。

https://kakuyomu.jp/works/11054822666094116079

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