開けてけれ
昭和初期 北国
はあっ、と吐いた息が太一の指のあいだから白く咲く。
外で雪を丸めていた弟の手は赤くふくれて、氷を握っていたように冷たい。私はその手を両手で包んで、もう一度はあっと息を吹きこむ。囲炉裏の火はぱちぱちと鳴っているのに背中には板の間の冷えがしみてきて、吐いた息は火の明かりの中でゆるゆるとほどけていく。
「父ちゃの煙管だ」
太一がけたけた笑うと笑ったはずみに、こん、こん、と咳をする。秋から抜けない咳で、母ちゃんはその背中をさすりながら私の膝の上の手紙に目をやる。
手紙は昼に峠を越えてきた郵便夫が置いていったもので、『ハナ、読んで聞かせてやれ』と書き出してある。家で字が読めるのは小学校へ通っている私だけだから、もう三べん読まされている。父ちゃんは峠向こうの町の酒蔵へ冬じゅう出ていて、紙の終わりのほうに小さな字で『春まで帰れぬ』とある。母ちゃんはそこを聞くたびに火箸で灰を平らにならす。
「もう一ぺん煙管」
太一が手を突きだしてくる。私はまたその手を包んではあっと吐き、白いのが指のあいだから咲くたびに太一は目をまるくして笑った。
*
日の落ちぎわに桶を提げて井戸へ出る。
釣瓶の縄は凍ってこわばり、手袋ごしにもぎしぎしと指に食いこんでくる。水を汲みながら、私はいつものように田のあぜの稲架木を数える。刈った稲を掛けて干すための細い木が一列に雪の中に立っていて、ひとつ、ふたつ、と数えていく。ななつ目のすぐうしろにもう一本。
ほかの木より頭ひとつ高い。てっぺんが丸く、その下がなだらかに落ちてなで肩のように見える。そこへ雪がしんしんと降りかかり、丸い頭と肩が見ているうちに白くふくらんでいく。
やっつ。
私は桶を提げなおして家の前まで戻って、もう一度ふり返る。稲架木はひとつ、ふたつ、と数えて、ななつで終わっている。雪が目に入ったのだろうと思い、私はだれにも言わずに戸を引いた。
*
爺さまが見回りから戻ってきたのはすっかり暗くなってからで、白い髭の先が凍って固まっている。土間で雪を払いもせずに鼻をすすり、爺さまは囲炉裏の前へ座りこむ。
「今夜はいちばん凍みる」
それきり黙って火箸で赤い炭を寄せ、上から灰をかぶせていく。爺さまは若いころマタギで、熊を十いくつも獲っていて、目の前で熊が立ちあがっても槍の先ひとつ揺れなかったと父ちゃんから聞いている。その手が灰をすくった火箸ごと、かちかちと震えている。灰がこぼれて爺さまの膝に白く散る。
火が埋まると、爺さまは梯子を梁へかけて上がっていき、屋根の煙出しの口へ藁束を押しこむ。
「煙は家の息だ。今夜はひとつも外さ出すな」
梯子を下りてきた爺さまは、母ちゃんと私と太一の顔を順に見る。
「今夜は凍み人が下りてくる」
母ちゃんが笑いかけて爺さまの顔を見て口を閉じる。行灯の火がじじっと鳴る。爺さまは囲炉裏の縁に両手をついて灰の上を見たまま話しだす。
「五十年も前だ。与吉と二人で尾根さ鹿を追ってた。日暮れにうしろの与吉が何か言うからふり返った。口は動いてるのに、白い息が口からひとつも出ねえ」
「親方の口ぐせがあった。『大寒の山で白い息の出ねえ者は、もう人でねえ』。おら与吉を置いて狩り小屋さ走った」
「夜更けに与吉の声が戸を叩いた。開けてけれ、開けてけれ、って。戸板の下に拳ひとつほどのすきまがあってな、覗いたら与吉の顔があった。戸にもたれて座りこんでこっちを見て、唇が、あけ、あけ、と動く。白いのはやっぱり出ねえ」
「朝まで開けなかった。朝になって戸を開けたら、与吉が戸口で口を開けたまま凍ってた。口の端から耳のうしろさ、霜のすじが一本ついてた。与吉のすぐうしろからでっけえ裸足の跡が山さ登っていってた」
爺さまはそこで息をつく。
「あれが与吉の皮をかぶって叩きに来て、朝にそのすじから皮を脱いで帰ったんだ」
「そんな話は、おら嫁に来てから初めて聞いた」
母ちゃんの小さな声に爺さまは答えない。膝にこぼれた灰を何度も何度もはらっている。
それから爺さまは、私と太一の前にしゃがみこむ。
「いいか。あれは顔も声も真似る。だども、白い息だけは真似られねえ。喋っても口から白いのが出ねえのが、あれだ」
太一がこくりとうなずき、爺さまはその頭に手をのせる。
「息は袖の中さ吐け。戸は開けるな。一番鶏が鳴けば、あれは山さ帰る」
母ちゃんが行灯を吹き消すと、家の中は障子の白さだけになった。
*
座敷に一枚の夜着を広げ、四人で綿入れのままもぐりこむ。板の間との境の襖は開けはなしてあって、襖のそばに寝る爺さまからは、その先の土間の板戸まで目が届く。並びは障子の側から、私、太一、母ちゃん、爺さまで、爺さまは山刀を胸に抱えている。私は四人の端で障子に背中を向けて横になる。
雪囲いの上のすきまから雪明かりが落ちて障子が青白く光っている。綿入れの袖に口を当てて息を吐くと、袖の中がしめってぬくくなる。太一の背中が私の胸にくっついて、その背中が、こん、と咳をこらえて小さく跳ねる。
母ちゃんの帯のこすれる音が止まり、爺さまの息が袖の中で止まり、家じゅうの音が一つずつ消えていく。
ぎゅっ
凍みた雪を重たいものが踏む音だ。それきり何も聞こえないまま、太一の背中がゆっくり三べんふくらんでしぼむ。
ぎゅっ
「狐だべ」
母ちゃんがささやく。爺さまは返事をせずに山刀の鞘をずるりと引き寄せる。
ぎゅっ、は長い間をあけて一つずつ田のあぜから井戸のあたりへ、井戸のあたりから雪囲いのすぐ外へと寄ってきて、最後の一つは縁側の板の上で鳴る。
私は首だけをひねって肩ごしに障子を見る。
影が映っている。肩から下だけで障子の背丈がいっぱいになっていて、頭は鴨居より上にあるのかどこにも見えない。腕は稲架木のように細く長く、指の先が障子の下の桟まで垂れている。
影がしゃがむ。
膝が二つ、寝ている私の頭より高い所に突き出し、盥をふせたほどの大きな平たい頭がゆっくり下りてくる。紙一枚むこうでその頭はかしいだまま止まり、こちらを覗いているように動かない。私は首をもとに戻して太一の背中に額を押しつける。
太一の喉が、ひくっ、ひくっ、と鳴る。咳をこらえて袖を噛んでいるのに、その袖の端からすうっと白い糸が漏れる。
白い糸は夜着の上をただよい、畳を渡り板の間を渡って、細く長くのびていく。どこにも風はないのに糸の先は迷わずに土間へ下りて、板戸の節穴へ吸い寄せられていく。
爺さまが夜着をはねのけて土間へ飛び下り、手のひらで節穴をふさぐ。戸のすきまから差す雪明かりの中で、その手の甲に霜がぱりぱりと花のようにひらいていくのが見える。もう片方の手は山刀の柄を握っているのに、刃は一度も上がらない。
けほ、けほ。
爺さまの手のひらのすぐむこうで、板戸の外で太一の咳がする。
太一は母ちゃんの胸の中にいる。母ちゃんの手が太一の口をふさいでいて、その指のあいだから太一の目がまるく開いている。
「……真似てる」
爺さまが節穴に手を当てたまま、かすれた声で言った。
*
どれだけ待っても、ぎゅっ、は遠ざからない。
爺さまは土間で板戸に肩をあずけ、節穴を手でふさいだまま石のように動かない。
そのうちに太一の背中がゆっくりと上下しはじめ、すう、すう、と寝息になる。母ちゃんの肩から力がぬけて、夜着の中でこわばっていた膝がのびる。
「一番鶏まで、もう少しだ」
土間の暗がりから、爺さまの声がする。
私の頭のすぐうしろの障子で、ぷつ、と小さな音がする。凍みた障子が鳴ったのだろう。
うなじに、冷たいものがひとつ触れる。針の先ほどのひやりとした点で、それはうなじのまん中から動かない。
袖の中に吐く息が、もうぬくくならない。肩が綿入れの上から雪をのせられたように重く、私は太一の背中に頬をつけたままとろとろとまどろんでいく。
しくしくという声で目があく。
太一が夜着の中でこちらを向いて泣いている。夢を見たのか寒いのか、しゃくりあげながら私の胸に両手を押しつけてくる。その手が冷たい。
私はいつものようにその手を両手で包んではあっと吐く。
白いのがでない。
吐いた息は口を出たとたんに頬を伝い、耳のうしろへすうっと引かれていく。その通ったあとだけが刃物を当てられたように冷たい。
太一が泣きやんで私の口をじっと見る。
「姉ちゃの煙管、出ねえ」
母ちゃんが跳ね起きる。土間から爺さまが上がってきて、囲炉裏の灰を火箸で掻き赤い炭を一つのぞかせる。
「ここさ来い。一人ずつ吐け」
炭の赤い明かりの上で、まず母ちゃんが吐いて、白い息がふわりと立つ。太一が吐くと震えた白いのがちぎれながら立つ。爺さまが自分で吐いて、太い白いのが炭の上でゆっくり渦を巻く。
三つ。
私は数える。三つの白い息が炭の上でまだ消えずにただよっている。
四つ目の私の口からは何も出ない。
「ハナだ」と言おうとして、唇だけが動く。声も出ない。爺さまの目が私の口もとに止まったまま動かない。
爺さまが立ちあがり、座敷へ入っていく。私の寝ていた所にかがみこみ、枕のすぐ近くの障子に顔を寄せる。そこに指一本ほどの丸い穴があいていて、雪明かりが一すじ枕の上へ差しこんでいる。穴の縁の紙は外からめくれたまま凍っている。
「ここからやられた」
爺さまの声が震えている。
「与吉も、こうだった」
爺さまは山刀を握ったまま、もう片方の手で私の襟首をつかみ、板の間を引きずって土間へ下りる。母ちゃんは太一を胸に押しつけて顔をそむけている。太一が私のほうへ手をのばし、その手を母ちゃんの手が上から押さえる。
爺さまが心張り棒を外し、板戸を細く開ける。
凍った雪明かりが土間に一枚差しこむ。背中をどんと押されて、私は裸足のまま雪の中へ転がり出る。うしろで板戸がしまり心張り棒が、ごとんと掛かった。
*
雪は膝まである。
足の裏が雪に触れたそばから焼けるように痛くなり、それから何も感じなくなる。私は板戸にすがりついて、どん、どん、と叩く。開けてけれ、と叫んでいるのに声が出ない。口を大きく開けても、白いのがひとつも出ない。
節穴に、爺さまの目が来る。
雪明かりに光る濡れた目だ。その目が私の顔を見て、私の口を見る。
「白いのが、出てねえ」
目が節穴から離れる。
私は叩きつづける。どん、どん、と叩く手が顔の高さから胸の高さへ下がっていく。腕が重く、肩が重い。叩く手は膝の高さまで下がって、もう板戸の下のほうを撫でているだけになる。
肩に何かがのる。
細く長い指が、左の肩に一本、右の肩に一本、氷柱のようにのっていた。指がのった所から綿入れがぱりぱりと鳴って凍っていき、その冷たさが肩から背中へ、背中から腰へゆっくり下りてくる。
うしろに、何かが立っている。
首だけでふり返ると、雪の上に、私の足を三つ並べたほどの青白い裸足が二つあった。そこから細い脚が、上へ上へとのびている。
私は上を見る。
真上から顔が覗きこんでいる。
盥をふせたほど大きく平たく白い顔で、鼻がない。霜の厚くついたまつ毛の下で細い目が半分閉じている。背を丸め、私の頭の上へ顔をかぶせるようにして、その顔はまっすぐ私の口を見おろしている。
小さな口がまあるく黒くひらく。
私の吐いた息が、口を出たとたんに頬を伝い、耳のうしろへ引かれて頭の上の黒い口へ吸いこまれていくのが分かる。
白い顔が、目を細める。
湯につかった人のように、まつ毛の霜をきらきらさせて、うっとりと笑う。
黒い口がもう一度ひらく。
「爺さま、開けてけれ」
私の声だ。
「ハナだ。寒い。爺さま、開けてけれ」
私の頭の上から、白い息がたっぷりと流れ下りてくる。私の額と鼻先をかすめて、板戸の節穴へまっすぐ流れこんでいく。私の頬にそのぬくさが触れる。私の口からは何も出ていない。
板戸のむこうで節穴に目が当たる気配がする。
「白いのが……出てる」
爺さまの声だ。
「ハナ!」
母ちゃんが私の名を呼ぶ。
私の唇が動く。
あ、け、る、な。
声が出ない。私の頭の上で、黒い口が私の声で「開けてけれ」と言いつづけている。
ごとん、と心張り棒が外れる。
板戸がからからと開く。戸口から家じゅうのぬくい息が白くあふれ出てきた。母ちゃんの息も、太一の息も、爺さまの息も、ひとかたまりの白になって、私の頭の上のまあるく黒い口へ流れこんでいく。




