1話 知らなかったこと/知ってたこと
『知らないんだってば!』
駅前のひらけたフロアで女性の声が響いた。
駅にあるスーパーへ向かう途中、階段かエスカレーターを使って上のフロアに向かう必要がある。
普段なかなか外へ出歩くことがないから、運動がてらに階段を使うことが多かった。
今日はただ、なんとなくエスカレーターを使ってみただけだったんだ。
『お姉さんべっぴんやねー!いーや地元にこんなん居るんは知らんかったわー!!』
絡み方からしてナンパなのか、はたまた只の面倒くさい奴なのか、エスカレーターを上がった瞬間に顔を合わせたその中年らしき男は、目の前で言葉をまくし立ててくる。
『…』『どなたですか?』『興味ないです』『来ないでください』『警察呼びますよ』
無視したり、なんとなく思いつく限りの言葉を吐いてみたが効果はない。
辛抱たまらず『知らないんだってば!』と叫んだが、まるで効果がなかった。
『なぁ、そろそろ構ってくれへんとおっちゃんは…』
男の口調が荒くなりかけたところで、私は男の後ろに立つ人物に気がついた。
身長は見上げるほど高く、筋骨隆々という言葉を擬人化したような、マイクの顔をしたその人物が口を開いた。
『うちの妹になにか用ですか?』
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私は自分の名前を知らない。生まれも知らない。
今までどんな景色を見てきたかも、どんな匂いを嗅いで、どんなご飯を食べて、どんな物に触れて、どんな人の声を聴いて生きてきたかも、私は何も知らない。
数ヶ月前に路上で倒れていたところを発見され、 警察に届けられたあと、自治体やら政府やらの支援で、いま隣で歩いてる男のもとで居候することになった。
麻黄 天大。21歳、フリーターの男性。
私の歩幅に合わせようと、忙しなくこちらの足元を確認してくるこの人は、私を世話してくれている保護者だ。
元々数年前から一人暮らしだったらしく、
私が突然暮らし始めたことで、なにか迷惑をかけていないか、私は正直不安だった。
麻黄さんが何考えてるかもあまり分からないし。
ただこの前、おそらく自治体から送られてきたであろう、ぶ厚めの封筒を見て、麻黄さんが安堵しているだろう場面を見掛けた。
そりゃあただのフリーターで、突然食い扶持が1人分増えたんだもの。支援がなけりゃ私を引き取ってないよ。
たぶん傍から見たら、私も安堵の表情してたと思うな。
『大丈夫か?』『なにかされなかったか?』
頭の中を整理してる中、横から麻黄さんの声がした。
『ううん、大丈夫。ありがとう。』
私の顔を覗き込もうとしてきた麻黄さんの顔らしきものを見て、私はギョッとしてしまった。
何度見ても慣れないんだよな……
記憶喪失してるとはいえ、だいたいの言葉とか、常識とか、生活するうえで必要なものは覚えてるんだけど、こればかりは私の普通とは違ってしまった。
普通の人の顔は、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、みたいな感じでパーツがあって、髪の毛があったりなかったり…だったと思うんだけども
私を心配する麻黄さんの顔は、灰色で、テカテカとした球体に包まれていた。歌唱番組やカラオケでよく見るような、あのマイクの頭の部分がそのまま、人の顔にスポッとハマってしまったような、そんな見た目をしていた。
すれ違う人々の顔を見ればどの人も、顔が大きな時計になっていたり、靴の見た目をしていたり、さっき絡んできた中年男の顔もドアの蝶番のような形をしていた。
そんな世界の中、見渡す限り私の知る人間の顔を見掛けない中、私だけが、マネキンのようにきちんとパーツを持った人間の顔をしていた。
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私たちが住むアパートの目の前を、丸い頭をしたおばさんが箒で掃いていた。
『あらおかえり、天大くんに類ちゃん』
類…"麻黄 類"
類という名前は麻黄さんが考えてくれた。
"麻黄天大"と同じように、なかなか読みづらい名前だ。おかげで眼前に立つおばさんがマトモに私の名前を呼べたのは、会ってからしばらく経ってのことだった。
箒でアパート前を掃いてるおばさんこと大家の頭は、
ボウリングの球の形をしていた。
初めてこのアパートにきたとき、曲がり角からボウリングの球がにゅっと出てきて悲鳴をあげてしまったことは、今では良い思い出だ。
アパートの部屋に帰ってきて、いつも通りレンジで温めたご飯を食べて、いつも通りテレビの前で横になりながら、ゴロゴロとする。
麻黄さんみたいに顔があんなので、どうやって食べるのか…何度眺めても顔の中へフォークに刺さった肉が、いつの間にか消えていく…
テレビの中では、テレビの顔をした司会が、猫カフェが近々オープンするだの、王がある2つの国の仲を取り持っただの、色んなニュースを紹介している。
王?もっとなんか総理大臣とか、大統領とかじゃなかったっけ…
そんな思考をしてる間、そばで洗濯やらゴミ処理やらしている麻黄さんに
『やっぱり手伝ったほうが…』と尋ねてみるものの
『いやいいよ』と返されてしまった。
麻黄さんは過保護だ。
私は家事もろくにさせてもらえないし、外に出ることもほとんどない。
記憶喪失なのを心配してくれてるんだろうけれど、
それにしたって中々働かせてくれない。
私は空っぽだ。何も得てない空っぽ。
だからもっと知りたい。知って何かを得て、
元の記憶だって取り戻したい……この空っぽの渇きを潤したい。
でも麻黄さんには伝えられず、結局こんな状況だった。
ただつい最近、大家さんから教えてもらったことがある。
麻黄さんには妹がいた。
数年前、麻黄さんの目の前で轢かれて死んだらしい。
そりゃあ…こうも過保護になるわけだよね。
なおさら伝えづらくなっちゃったな。
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朝が来た。顔を洗い、バイトの制服を頭をギュッと絞りながら着込んでいく。制服が外から見えないように薄めのパーカーをさらに着て、まだ寝ている類の顔を見てからアパートの部屋を出る。
バイトをこなして、帰ってくる頃には類はとっくに起きていて、食事をしたり俺が掃除をしたりして、寝る。
数年前、あいつが死んでからもう、空っぽになってしまった。
嬉しいことがあっても、辛いことがあっても、満足に心が動かない。
何も感じないわけでもなくて、自分がどんどん別のものに変わっていく感覚があって、肌の外からじわじわと浸透してるみたいで、気持ちが悪い。
数ヶ月前、アパートに役人を名乗る男が来た。パトカーのサイレンの頭をしたその、サイレン男は
『預かっていただきたい人がいます。』
と言い、いくつかの書類と写真をくれた。
俺の数ヶ月ぶんの給料に匹敵するお金が、およそ1ヶ月おきに届くことを受け入れる紙、それらに税金とか面倒なものが絡まないことを宣誓する紙、あとはこれから来る人物の個人証明に必要なものとかだった。
なんで俺なんだ、そんな考えを頭に据えられるほど、
俺の心は余裕がなかった。
何も考えず受け入れて、そのまま類を引き入れた。
名前も俺がつけなきゃいけない、なんて聞かされたときは驚いたが、ネットで色々調べながら考えた。
結局なんで類にしたんだったか…
あのサイレン男は定期的に経過観察で様子を見てくれている。今日はちょうどその日だ。
類の定期検診も行うので、病院に類を届けたあと、
俺だけ役所に向かい、建物の隅っこにある空き部屋へと入った。
部屋の奥の窓から強く陽が射している。
逆光で既に座っていたサイレン男こと、"園田さん"の姿が真っ黒な影になっていて、少し怖い。
『…今日は一段と陽射しが強いですね。』
『……そうですね。』
毎回、園田さんがその日の天候か、陽射しがどうとかの話を言葉にしてから、面談が始まっている。
何を隠そう、俺と園田さんはどちらも口下手だ。
世間話が出来ないぶん、面談はかなり早く終わり、類の検診が終わるまで園田さんと二人きりで気まずい時間を過ごすのがいつもの流れだ。
普段生活をしていてなにか不自由なことはないか、おかしな様子はなかったかを事細かに聞かれ、伝えて、いつも通り面談が進んでいく。
しかし、今日は少し様子がおかしかった。
『…最近、麻黄さん自身になにか変化はありませんか?』『最近麻黄さんはなにか、おかしなものを目にしませんでしたか?』
『私の後ろになにか見えませんか?』
なんだか質問が妙だ。俺の精神的なカウンセリング?から始まり、どんどん心霊的な話になってきている。
園田さんなりの冗談で会話を盛り上げようとしているんだろうか、しかし園田さんの態度は真剣で、より一層不気味に感じた。
そう考えていたところ、園田さんがこんなことを聞いてきた。
『麻黄さん、あなたに乗り越えられないトラウマはありますか?』
その質問をされ、真っ先に妹の顔が浮かんだ。
『あー、えぇと…前に園田さんにも話したことがあると思うんですが、妹が、亡くなっておりまして』
『ええ話してくださいましたね、"麻黄天音"さん…でしたよね』
『はい…あの日、横断歩道を天音と二人で渡っていたところ、居眠り運転のトラックが突っ込んできて…』
『あのとき、俺は辛うじて避けれたんですが、天音は遅れて、それで』『俺が天音の手を掴んで、一緒に避けれていれば…という後悔がずっと頭に沈んでるんです。トラウマ…になるんでしょうね』
前と同様、話してみても心は晴れない。
きっと俺が死ぬまで、この後悔は纏わりつくんだろうな。
『麻黄さん、もしも、もしもですが。トラウマが形となって貴方の前に現れでもしたら、今の貴方は乗り越えられますか?それを対処できますか?』
『例えば、死んだはずの妹さんが目の前に現れるとか』
…乗り越えるとか、対処とか、出来るわけないだろ。
少し苛立ちつつ、それを隠しながら答える。
『難しいですね、きっと無理です。それに、妹は死にました。死体も見て、見送りました。』
『もう、諦めました。』
役所を出る際、またもや園田さんが奇妙なことを言ってきた。
『最近不審者が出てるんですよね、全身が植物のようなものに覆われていて、おそらく女性の』
『いままでの事例や傾向から、類さんが狙われるかもしれません。よく見てあげていてください。』
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この前の定期検診から麻黄さんの様子がちょっとおかしいかもしれない。
普段以上に黙っているし、受け答えもしっかり出来てない。
バイトに出る前にいつもは布団で寝てる私の顔を覗きにくるのに、今日は来ない。
妹さんが関係あるんだろうか。思い当たる節はそれしかない。というかそれ以外を知らない。
『私、麻黄さんのこと全然知らないや』
ボソっと思いを吐露したとき、
『リンゴーン!!』
チャイムが鳴った。
布団から急いで起き上がり
ドアスコープを覗いてみると
誰もいなかった。
押し間違いかな?そう思いつつ玄関扉を開けて廊下に顔を出してみる。
左右を確認してみると、階段の近くに人影が見えた。
いまチャイムを鳴らした人?他の部屋の住人?
はたまた大家さんかな?
暇だったし、とても気になるので麻黄さんのサンダルを履いて、玄関を飛び出した。
さっき影が見えた、階段に繋がる曲がり角の裏。
人の気配がする。しかもそこに微動だにせず立っている。たぶん。
私を待ち伏せしてる?誘い出して?
なんて昨日テレビで観たスパイ映画みたいなことを
考えながら、曲がり角の向こうを覗こうとする。
どうせまた大家さんが出てきてビックリしちゃうんだろうな。
そこには化け物がいた。
ボロボロのコートのようなものを羽織っており、
細かに姿を見ることはできないが、全身が茨のような植物に覆われていた。
チラリと見える手らしきものからは、指のような細い茨が6本生えていた。
顔らしき位置に茨が密集しており、茨の裏に口か顎のようなものが少し見えた気がした。
そんな2mはあるだろう化け物がこちらを冷たく見下ろしていた。
『あら…あたしの姿は見えるのね』
聞こえたのは女性の声だ。透き通っていて、この状況でなければ聞き惚れていた、そんな声だった。
『記憶喪失って聞いたわよ、貴女…』
化け物がこちらに話し続けている。まだ状況が分からず身体が固まっていたが、化け物がまた言葉を出す。
『あたし、記憶を喪う前のアナタを知ってるのよ』
私の混雑した頭が一気に晴れた。知ってる?知ってるって何を?
『あたしについてきてくれたら何でも教えてあげるわ、貴女のこと』
私の頭の中を見透かしたように化け物は話しかけてくる。
『あんな男のところにいたって何も解決しないわ』
ついていきたい、知りたい、私のこと。
記憶を取り戻せるかもしれない。
この渇きも、飢えも、満たせるかもしれない。
この考えが化け物に対する不信感を払拭し、私の意識を塗り替えていく。
『もしもついてきてくれるなら、あたしの手を握ってくれないかしら?』
差し出された茨だらけの6本指を、私は迷わず掴んだ。
ふと一瞬、頭に麻黄さんの姿が浮かんだ。
何でだろ
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最近ずっと頭の中がぐるぐると回っている。
以前の面談以降、妹のことを深く思い出してしまったこともあるが、同時に類のことをどう捉えるべきかも悩んでいる。
俺が類に対して過保護になっているのは、きっと妹を重ねているからだ。
もう失いたくないから、外にも出せないし、何もさせたくないのだ。
類は記憶喪失したまま、いつかは帰る場所を見つけるかもしれない。もしくは記憶を取り戻して、どこかへ消えてしまうかもしれない。
妹の代わりになんてしてはいけないし、そもそも代わりになんてなれない。
…俺は類にどう思われたいんだろうか、いやそもそも類はどう思ってるんだろうか
類がどう考えてるかなんて聞いたことがなかった。
『帰ったら…ちゃんと話してみるか』
アパートの近くまで来たとき、俺の頭上を大きな布のようなものが飛んでいった。
『うおっ?!!』
驚いて声を出しつつ、飛んでいった後方を見た。
自分から50mほど離れた位置にソレはいた。
全身が植物のようなものに包まれ、コートのような布で身体を覆い、2mはあろう化け物を俺は見た。
役所で園田さんから聞いた不審者の話を思い出していたとき、化け物のそばに人影を見た。
類だ。類が力の抜けた姿で、化け物に掴まれ寄りかかっている。意識があるように見えない。
俺が驚いて固まっていたところで、
化け物は類を掴んだまま、身体を大きく捻り、
道の遠く向こう側へと飛んでいった。
頭の整理がつかない中、類の姿が頭をよぎり
俺は化け物が飛んだ方向へと走り出した。
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近くで電車が走る音と、遮断器が下がるときの聞き慣れたあの音が聞こえてくる。
類はこっち側に飛んできたはず…
金網のフェンスの下、向こう側で地下鉄の電車が大きな音を立てて走っている。
しばらく先にあるトンネルの中へと走り抜け、駆動音が吸い込まれていく。
その音に惹かれるように視線を横に流すと、そこに奴はいた。
『…君も連れていくつもりはないんだよ、お兄さん』
6本もある茨のような指で、その指先だけで類を掴んで宙に浮かせていた。
指だけの力で1人分の体重を支えていることからも
その化け物が人ならざることを麻黄天大は察していた。
『この娘はアンタのなんなのさ?』
思いがけない問いだった。類は、俺の、何?
固まる俺を見て、ため息らしき所作をする化け物。
辺りが静まりかえる中、俺は化け物に掴まれた類よりも
俺の中の類への思いに迷っていた。
そんな静寂をかき消すように遠くから機械の駆動音が徐々に近づいてくる。
トンネルから銀色に光る電車が現れ、すぐ側の線路を通っていくところだった。
化け物はソレに視線をやり、
『残念だけど、この娘は死ななきゃいけない』
そう言い残し、化け物と掴まれた類はふわりと跳躍して金網のフェンスを越え、線路を走る車両の上に飛び乗った。
…死ぬ?類が?
それを想像した瞬間、頭が晴れた。
迷いも惑いもない、ここ数年で経験したことがないくらい、青々とした気分だった。
『違う』
違うんだ、死んだから頭が晴れるんじゃない。
立ち向かうべきトラウマが無くなって、安心しただけだ。
ふと園田さんの言葉を思い出した。
『トラウマが形となって貴方の前に現れでもしたら、今の貴方は乗り越えられますか?』
少し迷いつつ、俺は金網のフェンスをよじ登り、
下を走る電車の車両の上に飛び乗った。
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真っ暗な空間だ。何も見えない。
トンネルの中?違う気がする。
電車の出す騒音も聞こえないし、身体の感覚もない。
たしか電車の上に飛び乗ったとき、
身体に大きな衝撃が走って…
『お兄ちゃん』
久しぶりに聴いた声だった。
小さな頃から俺の隣で聴こえてた声。
あの日、失ってしまった声。
『天音…?』
『よくわかったね、お兄ちゃん』
たしかに天音だ。天音がすぐそこにいる。
事故の日の姿のまま。そこに。
『天音……俺はどうしたらいいんだろな』
『うちに類って女の子が来てさ、なんだかお前みたいに感じちゃって』
『天音を守れなかった俺に…あの子を守れるのかな』
気付けばツラツラと、抱える不安を吐露してしまっていた。
何をしてるんだ俺は…死なせてしまった、俺が守れなかった天音に謝らなきゃならないのに…
天音が口を開いた。
『守れなかった、って何?』
『あの日…トラックが突っ込んできて、俺だけが上手く避けれて…お前は避けきれずに、それで…』
『………ふふっ、んふふ』
不意に天音がクスクスと笑いだす。
…なんだ?何かが引っかかるような、何か変だ
『変なのはお兄ちゃんでしょ、ふふふ』
『……………え?』
『あの日、わたしはトラックに轢かれたよ?』
『でもわたしを殺したのはトラックじゃない』
『お兄ちゃんがわたしを殺したんでしょ?』
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あの日の情景が朧げに頭の中へと浮かんでくる。
トラックに気がついたとき、俺と妹はトラックの目の前だった。
俺は必死に避けようと
腕を伸ばした気がする。とっさに何かを押して
その反動で避けれたんだ。
何を押したんだっけ…
次第に事故のときの感覚が、じわじわと俺を飲み込んでいく。
動かない足を無理やり動かした。
トラックから横に避けようと、身体を必死に捻った。
妹を押した。押した反動で俺はトラックから避けたんだ。
『?!!、っう、ぉげぇ、うぉっ、ぇ…』
思い出した途端、出るはずのない吐瀉物を出すため
ひたすらえずいた。
吐き気も何もかも止まらなかった。
真っ暗な空間で妹、天音が囁く。
『ねえ、お兄ちゃんのせいで死んだんだけど』
『それで今度は別の女の子で気分を紛らわすの?ずるいよねほんと』
『精神的なショックで忘れてた?そんなわけないよね。お兄ちゃんはわざと忘れるようにしたんだよ。』
『はぁっ…!はぁっ…!』
息が出来ない。ここが現実じゃないことは分かってる
それでも、俺にとっては現実だ。
徐々に頭が真っ白になっていく。
広がっていた真っ黒な空間も、徐々に白く小さく
『でも一番許せないのは、私を忘れちゃうことだよ』
そう言い残し、天音は霧のような白に包まれ、消えた
…小さな白い空間の中、俺は四つん這いで丸まっていた。
さっきの天音はただの俺の妄想だし、晴れないこの白い空間も、トラウマに向き合わない俺自身なんだ。
俺の想像上の天音なら、俺に都合の良いことを吐く
だから最後に甘い言葉で俺を慰めた
天音はあんなこと…あんな…
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いつの日か学校に天音を迎えに行ったことがある。
帰り道、まだ中学生になりたての天音の歩幅に合わせようとして
天音をじっと見ていたら、大笑いされてしまった
『あは!お兄ちゃんは私がいなきゃ歩けないんだ!』
天音は坂道を走り上がって、こちらに手招きする。
小走りで天音に追いつくと
『わたしはね!1人で歩けるし、走れるよ!だからね!』
『お兄ちゃんも1人で頑張って歩けるよね!きっと大丈夫だよ!!』
俺にはない口と目を使って、満面の笑みを浮かべる天音の顔は、この世の何よりも綺麗だった。
何ものにも汚せないような、純白だった。
『……たすけて』
類のか細い声がどこからか聴こえた。
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ガタンゴトンと、電車の大きな駆動音が聞こえる。
それもそのはずだ。俺は走る車両の上にいるんだ。
俺の目が覚めたとき、ちょうどトンネルを出て電車が外へと出てきたところだった。
走る車両の上を、足にめいいっぱいの力を入れて立ち上がる。
トンネルを抜け、眩しい陽射しが車両の上を照らす中
ふたつほど前の車両の上に、化け物と類がいた。
『へぇ…やんじゃん、思ったよりアンタやるんだね』
化け物はこちらに気づき、感嘆の声を漏らす。
『でもさ、この娘は返品不可、諦めなよ』
化け物は類をそのまま置き、足らしき茨に力を込めると
俺のひとつ前の車両へと跳躍し、飛び乗ってくる。
化け物の6本指の茨は1つにまとまり、鋭く、
まるで槍のように姿を変えていく。
…俺は殺されるんだろうか、抵抗できる力なんてない
でも、俺は、俺はもう後悔なんかしたくなかった。
天音が言ってたんだ。
もう止まれない。
そう考えるより先に、すでに俺の足は前の車両へと歩き出していた。
化け物が1つ前の車両の端まで来た。
俺も化け物の目の前まで来た。
お互いの距離は車両と車両の隙間で保たれていた。
化け物が槍のような腕を構えようとする。
俺の視界の隅に、奥で倒れ込む類が見えた。
どうせ死ぬなら、なにか、一矢報いたい。
身体の芯から、熱のような何かが溢れてくる。
化け物が腕をふりかぶろうとしているとき、
俺は拳に力を込め、思いっきり化け物に向かって飛んだ
視界の一面に茨が広がる。
たぶんこれが人生最後の景色だ。
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……………まだ生きている。
視界が開けたとき、化け物は車両と車両の隙間へと
落ちていくところだった。
『アンタ…ぐっ、まさかアンタ、持って…?!ごふっ…』
そう言い残して、俺の視界から消えていった。
俺の拳を見てみると、
なにか煙…いや蒸気のようなものが出ている。
それに…なぜだか頭が軽い…
違和感から、自分の顔を触ってみる。
そこにはいつものマイク頭なんてなくて、
目が二つ、鼻が一つ、口が一つ
類や天音のような、
不思議なあの顔が、そこにはあった。
そこで身体から力が抜け、車両の上へと倒れ込む。
視界の奥にまだ倒れたままの類が映った。
『類……………』
そこで完全に意識が途切れた。




