第一章 運命の糸 第一節 はじめてのおつかい
第一章 第二節 U列車で行こう(Take Me U Train)
に続きます。
令和七年 二月十二日(水曜日)
河内 角成が十六歳と八ヶ月を迎えたこの日、早朝からこの年の春一番が強く吹いていた。
角成は朝から少し熱があったのだが、十一時を過ぎた頃にはもう熱も下がったらしく、何をするともなくごろごろしていた。
来客を告げるピンポンが鳴る。
「おーい、出て来―い。起きてんねんやろ~。カークーナーリー」
ドアの向こうで三つ年上の幼馴染、松原 若菜が叫んでいる。
小学生の頃からの付き合いの若菜は、角成のことを『完全なるクサレ縁』と言う。
角成は気が小さく、気が弱く、気が利かず、その上、見た目もサエない。
そんな角成を生来面倒見の良い若菜は、幼い頃から何かとフォローしていた。
お互い成長した現在に至っても、角成は若菜に色々と面倒を見てもらっているようだ。
要するに、若菜は小さな頃から角成の『プチ保護者』のようなものだった。
「相変わらず汚ったないなぁ。朝起きたら顔洗う、それくらい人に言われなくてもちゃんとしいや、 目ヤニ付いてるやん」
いつも通り若菜は、面倒見は良いが口が悪く、そして元気だ。
角成は「うん」と「ああ」が混ざったような返事をしてから、
「生活態度のチェックしてくれるのはいいけど何の用?」と聞いた。
「あっ、ということは歯も磨いてないんちゃうん、ごはん食べたらちゃんと磨かんとちょっとの油断で虫歯になるよ」
若菜は角成の発言をいつも気にしない。
「……それに寝グセ、カクナリは散髪サボると髪の毛硬いからボッサボサになるって昔から言うてるでしょ。それともよっぽど枕カバーと相性悪いの? なんやったら私が髪の毛切ったげよっか? 千円で」
「うーん……、今日はこれと言った予定何も無いし切ってもらおうかな」
「ダメダメダメダメあかんあかん、今日はそんな事で来たんとちゃうんやった」
若菜が一方的に会話を切って、持っていたデパートの大きな紙袋を差し出し、
「これ届けて」と言った。
渡された紙袋は大きさのわりに軽かった。
角成が紙袋の中を覗き荷物に張ってある送り状の住所氏名を見て、
「届けるってこの住所の人に?」と聞くと、
「それは私に依頼した人。いつ私が転職したって言うた? それに生まれて今日まで黒い子猫くわえて走ったことなんてないし、バラのマークをトレードマークにした事もないよ」
若菜が言うように荷物の包装や紙袋にそういう柄がプリントされている。
「これはおつかい。はい、この場所に届けて」
若菜はポケットから細密に地図が書かれ小さく折り畳まれている紙を角成に渡し、そして少し不思議な事を言った。
「私がさっき行ったら迷ってどこかわからんかったんやけどカクナリは大丈夫? なぜか、おつかいの依頼主はカクナリに行って欲しい、彼ならわかる、って言うてたけど」
角成にはその依頼主、道明寺某という人物と住所に憶えは全く無い。
また、地図の届け先も行動範囲内だが行った事はない。
それと、若菜が心配しているのには別の理由があった。
角成は筋金入りの方向音痴なのである。
小学生の頃、学校帰りに寄り道した時は必ず道に迷い、誰かに見つけてもらうか、彷徨い疲れて泣いているか、のどちらかだった。
今ではさすがに泣き虫迷子にはならないが、近くとは言え、初めての場所に無事到着できる自信など、角成には全くない。
「近くを通るから送ったげる」
手描き地図を見て硬化している角成に、若菜が顔を覗きこんで言う。
そう言われて急いで靴を履く角成に、
「着替えてこーい」若菜が言った。
角成はパジャマに綿入り半纏という姿だったことを今思い出し、寝癖だらけの頭をポリポリと掻いた。
着替えた角成を乗せて、若菜のピンクのキャンバストップのキャロルが、地図の場所に向かう。
ほんの数分で目的地の近くに来た。
「一緒に探してあげたいんやけど、私これからまだ仕事やねん。悪いんやけどここで降りて一人で持ってって」
そう言えば、若菜は所属するヘルパーセンターの制服だった。
若菜は高校卒業後介護福祉の専門学校で資格を取り、今の職場で毎日元気に働いている。
「そこの角曲がったら郵便局があるから、そこから先は自分で探して。じゃあね。……あっ、もし迷ったら人に尋ねて教えてもらって。……それと、車に気を付けてね」
喋れるだけ喋って若菜は愛車で走り去る。
若菜はキャンバストップの天井を少し開けて、そこから手を振った。
角成は春一番に背中を押されるように歩き出す。
角成は若菜にせかされたので、スマホを持って出るのを忘れていたが、
(近場だし、どうせ用事はすぐ終わる。どのみちどこからもかかってこないだろうし)そう思った。
角成は、雲が厚くなり始めていたので家から持って来たビニール傘と、紙袋を持って進み始めた。
車中での若菜の話では、今朝訪れた仕事先、道明寺老人の独居宅で清掃を済ませての帰り際、
「すまんけど、これ今日届けてもらえんか?」
道明寺老人は杖で、靴箱の上に置いたデパートの紙袋を指した。
「あんたの友達に、カワチなんとかいう子はおらんか」
「カクナリですか?」
若菜の知り合いにカワチという姓の人間は、河内 角成しかいない。
「おぉーっ、そうそう。カワチ カクナリ。その子だ、間違いない」
「知ってるんですか? カクナリのこと」
「昔、な。その荷物はある人から言われた「その日になったら、松原さんからその子、カワチ カクナリ君にお願いして届けてもらってくれ」って」
若菜の仕事では、人の話を聞くのも大事な仕事の一つなので、自分の事どころか、無駄話は今まで一度も(あのお喋りの若菜が)したことはなく、ヘルパーセンターの事務所でも、誤解を招くのを嫌って、角成の事を一度も話したことはない、……らしい。
若菜が不審に思っていると、
「その子が持って行ってくれたら、ワシのこの膝が、もうちょい動くようになるかもしれん」そう言って道明寺老人は曲がりの悪い右膝をポンポンと叩いたという。
角成は道明寺姓の同級生を思い出してみたが、全く覚えがなかった。
だが角成は、その名前にかすかな聞き覚えがあったので、なんとか思い出そうとしたが、希薄な人間関係しか持たない自分には無理だろうと、すぐにあきらめた。
考えながら歩いていると郵便局を通り過ぎて百メートルほど民家が続いた先に、地図に達筆に書かれた右側が薬局で左側が駄菓子屋の間に路地の入り口を見つけた。
それにしても、この薬局と駄菓子屋、……何もかもがあまりにも古い。
入り口のガラスの引き戸は木製のサッシに磨りガラスが四段入って、一番下が板になっている。今日は風が強いからか、店は二軒とも表戸の木製サッシ四枚はピッタリと閉じられているようだ。
薬局の角に木の看板が春一番を受けて大きく揺れている。
雷薬局? 駄菓子屋の方を見ると、風菓子舗と書いた看板が揺れている。
( ……妙な名前)
「風と雷? 変な組み合わせ」
角成がひとりごとを言った時、足元にスッと何かが触る。
白い猫だ。角成の顔を見て「にゃぁ」と鳴く。
もう一匹出て来た。今度は黒い猫だ。
この猫たちは左右の目の色がそれぞれ違う。
白い猫は右目がブルーで左目が金色、黒い猫は逆に右目が金色で左目がブルー。
その二匹の猫に先導されるかたちでそこを曲がると、意外と奥行きのある路地だった。
ただ、薄暗くカビ臭さが気になる。
それもそのはず、地面は未舗装で土がむき出しになっていて、道の左側に幅が十センチほどの細い側溝があり、溝には苔がびっしりと生えていた。
路地の両側は二階建ての家の壁なのだが、今では珍しい焼いた杉板が張ってある。
自宅からそう離れたところではないが、この付近は何度も通ったことがあるはずだった。
だが、この路地と、角にあった薬局と駄菓子屋には全く見覚えが無い。
いくら角成が筋金の通った方向音痴でも、記憶力は人並みにはある。
だか、ここは全く記憶に無い。
地図を見ると『路地を道なりに』と、カクカクした道筋に矢印付きで書かれている。
角成は道明寺老人が達筆ながら楷書で書いてくれた事を心の中で感謝し、猫たちと一緒に奥へと進んだ。
いくら達筆でも、これが行書に旧仮名遣いで書かれていたら完全にアウトだったろう。
そう思い、ふと、もと来た道を振り返った。
その時、ダダダダッとレトロな排気音を響かせて一台の車が通りを走って行くのが路地の奥から見えた。
(あの車は、確か……、そうだ! )
角成は思い出した。
角成のおじいちゃんが始めて乗った車、ダイハツのミゼットだ。
母のアルバムに、幼き日の母と働き盛りの頃のおじいちゃんと共に写っていた車、それと同型だ。
角成のお気に入りの写真だったので、かなり克明に記憶している。
そして、その写真は木製サッシの商店の前に車を止めて斜め前からのアングルで撮られていたはずだった。
今曲がった角の風景に似ているような感じがした、が、その時代のごく一般的な風景だったのだろうという事も同時に思った。
とりあえずここはまだ昭和だっだ。
角成は妙な納得をしながら、振り返って待っていた猫二匹に「お待たせ」と言い、路地を道なりに奥へと進む。
歩きながら角成は考えた。
そう言えば、若菜の車では相槌を打つだけで、角成は何も喋っていなかった。
子供の頃からいつも二人の関係はこんな感じだ。
若菜は小学生の頃から忙しい父母に代わって何かと面倒を見てくれた。
ひょっとすると今回が初めてかもしれない、若菜に頼まれて何かをするのは。
角成が若菜に頼み事をすることはあっても、頼まれた事は過去に一度も無かったはずだ。
若菜は角成のことを万事子ども扱いだったが、まぁ、お互いそれなりの年齢なのだから、これからはこんな事も度々あるだろう、そう思いつつ幾つ目かの角を曲がると、急に視界が開けた。
視界は開けたが、なぜか薄暗い。
今日の大阪中南部は、強風に雲が吹き飛ばされて一日中快晴のはずだった。知らないうちに曇ったのだろうか。
「なにこれ? 広っ」
ゆうに乗用車が百台以上は止められるだろうか、郊外の大型ホームセンターよりも広いくらいの、広場か空き地のようなところだった。
ここも地面は未舗装の土。
冬枯れしてるのか雑草は見当たらない。
周りを見回したところ、四方高い板塀に囲まれている。
そして広場の一番奥まったところに、まるでお寺か神社の入り口のようなすごい門構えの家がある。
角成は歩いてその門の前まで行く。
表札は一目では読めないが「玄宗」と書かれている、いや、彫られている、……ようだ。
(ゲンソウと読むのかな? 確かそんな名前の皇帝が昔の中国にいたはず。 まぁ、そんなことはどうでもいいか)
角成が地図を見るとお届け先はここになっている。
ただし、お届け先の名前は書かれておらず、路地の奥に広場が書いてあり、そこに隣接する家に「ココ」とだけ書かれている。
ふと視線を落とすと、いつの間にか白と黒の猫はどこにもいなかった。
どうやらお届け先はこのでっかい門構えの家で間違いなさそうだ。
だが屋根付きの門に玄関ブザーやインターホンの類は見当らない。
大きな観音開きの木の扉を押してみたが、閂がかかっているのか、がっちりロックされていてピクリとも動かない。
角成はコンコンと巨大扉をノックしてみた。
冷静に考えるとかなりマヌケな図だろう。
……返事は無い。
十秒ほど待って、(無駄かな?) と思いつつもう一度ノックしてみた。
「カチッ、キキーッ」
角成の左側で何かが軋みながら開く音がした。壁だと思っていたところが、一.5メートルほどの高さの扉がこちらに開いている。
「あのぉ、お届け物なんですけどぉ」開いた空間に向かって控えめに言ってみた。
「どうぞ、そちらからお入り下さい」少し明るい感じの女性の声がした。
角成は小さく「はい」と言い、高い敷居につまずかないように注意しながら入る。
この高さは若菜の話しの、杖が必要な道明寺老人の膝を完全に拒んでいる。
(そういうことか)
と一人納得しながら顔を上げると誰もいない。
周りを見回してもやはり誰もいない。
角成一人。
( ……なぜだ?)
まぁ、さっきの声の主は何かの用事が中途になっているかして、急いで奥に引っ込んだ……、のかもしれない。
地面を見ると、玄関一面ピカピカに磨かれた石が門から続いている。
(御影石だったっけ、お墓の石と同んなじだ。濡れた靴だと滑るんだろうな)
気を紛らわすように角成はそう考えた。
玄関の前に立つと引き戸が異様に大きい事に少し驚いたが、大きいわりに手をかけるとカラカラと軽やかな音をたてて文字通り滑るように軽く開いた。
「広い」
玄関ホールというのだろうか、だが純和風の門構えとたたずまいなので『ホール』とは呼ばないのだろうけど、引き戸を開けるまで角成があるであろうと予想していた土間と上がり框などもなく、とにかくただひたすらそこは広かった。
この家の前の広場ほどではないが、ここはゆうに三十畳以上はありそうだ。
その真ん中に黒いダルマストーブが置いてあり、上に乗せたアルマイトの金ピカのやかんから湯気がシュウシュウ出でいる。
右手にはカウンターがあり、真っ白な長いのれんと言うかカーテンと言うか、が掛かっているためカウンターの中は何も見えない。
その他にこの部屋、と言うかホール? にあるものと言えば、カウンターの無い三方の壁は端から端までベンチになっている。
そしてやけに明るいことに気づく。
天井を見ると蛍光灯の数がやたらと多い。
その短めの蛍光灯がたくさん不規則に並んでいる。
それは蛍光灯で何かの文様でも描かれているかのように見えた。
角成は確かに見た事、見覚えがある、この文様、模様。
(どこで? いつ?、 ……だめだ、思い出せない)
角成は、ここで既視感にひっかかっている場合ではない。
おつかいに来たのだ。
それにしてもここは一体どういう施設なのだろうか。
何かの集会所? 会議室? 待合室?
雰囲気として最も近いのは、古い映画に出てくる昔の駅の待合室の風情、とでも表現すればよいだろうか。
ただ、待合室にしては広すぎる。
角成がくびをかしげていると、玄関の正面にベンチの切れ目があるのに気づいた。
そこにも真っ白なのれんが掛かっている。そののれんの真ん中がヒョイと割れ、白いきれいな手が「おいでおいで」をゆったりとしている。
角成は遠慮がちに「おじゃまします」と言い、「おいでおいで」に従った。
のれんをくぐると半畳ほどの靴を脱ぐスペースがあり、キチンとスリッパが一足揃えて置いてあった。
角成はそのスリッパを履き、廊下と言うか、黒光りする古い板の間を奥へと進む。
何回か角を曲がると障子の開いている部屋がある。
そこからさっきの手と声が「どうぞこちらにお入り下さい」と角成を呼ぶ。
「スリッパはそのままで結構です」
角成がスリッパを脱ごうとした瞬間その声は言った。
さっきまでは緊張していてよくわからなかったが、透き通ったきれいな声だ。
角成は言われるままに部屋へと入る。
そこには男性が一人、オットマンに足を投げ出して眠っていた。
六畳ほどの部屋に薄いカーペットが敷かれていて家具と呼べるものは男性の眠る安楽椅子とオットマン、それと壁際に高さが天井まである、ねずみ色のスチールラックが二つというシンプルというか殺風景というか、そんな部屋だった。
「持って来てくれはりましたよ、カクナリさんが」
「 ! ……」角成は一瞬固まった。
(名乗ってない、ここに来て一度も。 どうなってるんだぁー、個人情報ぉー!)
角成は焦った、が、
(そういえば、若菜姉ちゃんが、道明寺さんが僕を指名したって言ってたっけ? それなら名前くらい聞いてるか。この眠っている人に荷物を渡した後で聞いてみよう)ということにした。
とりあえず角成は配達を完了させたくて、
「あのぉ、これはここでいいんでしょうか」と言った。
男性はバンザイで伸びをした後、片目だけ開けて角成が持って来た荷物を見て、
「うーん、……何それ? 」と言った。
(違うのか、届け先と?)
角成はなんと言って良いのか困った。
「えっと、あのぉ……、道明寺さんっていう人に頼まれて……」
「んんーっ、……あぁ、それかぁ。破魔子さんが言うてた……」
その男性はのっそりと椅子から立ち上がり、紙袋を受け取って中の荷物を取り出した。
「はいはいはい、道明寺っていう人に頼んだのね。ほほぉ~っ」
この人の言うことは一貫性があるのかも知れないが、要所要所抜けているので角成には全く通じない。
(道明寺さんって何者で、破魔子さんって誰なんだ?)
角成は叫びだしたくなった。
(まぁいい、おつかいに来ただけの僕には関係ない話だ)
「関係あるよ。カクナリ君にも」
「えっ!」角成は驚いた。
声に出して何も言っていない。
「カクナリ君ここでバイトせえへん? 破魔子さん今日で終わりやねん」
角成はアルバイトの面接に来た覚えはない、おつかいに来たのだ。
「今バイトしてないんやろ? だったらここでバイトしてみいへん? 」
(なぜ? ……なぜここまで僕の個人情報はダダ漏れなんだっ! それにこの男は一体全体誰なんだ?)
角成は混乱しながらも目の前の男を観察し、自分を落ち着かせようとした。
実は知っている人で、角成が忘れているだけかもしれない。
身長は角成より高く百八十センチくらいだろうか、髪は長く肩を軽く超えており後ろで束ねている。
目はパッチリと鼻すじは整っていて、何より今角成に微笑みかけている口元は「超」が付くほどサワヤカにきれいな歯並びだ。
年は二十代後半か三十代前半くらいだろうか。
タレントに例えると、角成の母が好きな、要潤さんの若かりし姿に似ている。
(誰だろう? やっぱり初対面だ、全く記憶の欠片もない)
角成はおずおずと警戒しながら聞く。
「あのぉ、どこかでお会いしましたっけ? 」
「いんや、初対面んっ? 一回会ってたっけ? まぁ、話するのは初めてやから、初対面でいいか。実は、きみのおばあさんに今までめっちゃお世話になってて、色々聞いてたんよ。ほら葛葉おばあちゃん」
角成が七歳になる直前に祖母、葛葉おばあちゃんは他界した。
それまで一緒に住んでいた祖母に、角成はずいぶんと可愛がってもらった。
だが年を重ねるにつれ、顔を思い出すことも今ではほとんどなくなってしまっていた。
( ……葛葉おばあちゃんか)
角成の心に懐かしく響く。
「アシスタントしてよ、俺の。バイト代はずむから。どおっ?」
その男が唐突に話を切り出す。
「どおっ、て言われてもぉ……。仕事は何ですか」
「うーん、説明しにくいなぁ。俺が言うより見たほうが早いから、今日の夜七時にここに来て」
これはアヤシイ。
職種を言わない、もしくは言えない、しかも今はいない身内の名前を出して信用させようとする。
これは徹底的にアヤシイ。
いくら角成が世間知らずの高校生でもこのテの話に「はい」と言うハズはなかった。
男はスチールラックのコーヒーメーカーのところに行き、
「コーヒー飲む? 」角成に言った。
「いいえ、結構です」角成はキッパリと断った。
「じゃ、紅茶でいい? 破魔子さんお願い」
突如、壁だと思っていたところが横にスライドし、和服姿の女性が左手にマグカップを乗せたお盆、右手に変な形の折りたたみ椅子を持って立っていた。
「どうぞ、熱くないからすぐに飲めますよ」
先ほどからの手と声の主が姿を現した。
身長は百五十センチくらいだろうか、年は角成より上だろう。
落ち着いた仕草ともの言いで正確にはわからない。
ただ、顔に見覚えがある。
破魔子さんと呼ばれたこの女性を、もしくはこの女性に似た人を角成は見知っている。
だが思い出せない。
角成は何かが邪魔をして思い出せない感じがした。
それとこれはどうでも良いことなのだが、この女性はどう見てもそこにいる男性より年は下だ。
その女性を「さん」付けで呼んでいるところを見ると、
(意外と紳士なのかも知れない、この男性は……)角成はなぜか少し好意的に思った。
飲み物を断るキッカケを失った角成が、マグカップを受け取り椅子に浅く腰掛ける。
その時、
「あっ、髪の毛にゴミが」そう言って破魔子さんが、そっと枯葉のかけらのようなゴミを取ってくれた。
気恥ずかしさを紛らわせるように、マグカップに口を付けると何だか懐かしい味がした。
かすかに甘いレモンティー……。
角成のおばあちゃんの思い出の味だ。
猫舌の角成の事を思い、いつも少し冷ましたものを出してくれた。
味、香り、温度、すべてが懐かしい。
「思い出した?」
男性が言う。
(何を? いったい何を思い出すというんだ?)
万事この男性のペースで事が進行していて、角成はかなり混乱してきたようだ。
「すいませんがゲンソウさん、ちゃんと説明して下さい。おばあちゃんと知り合い、だったのはわかりましたから、なぜあなたの仕事を、なぜ僕が手伝うのか。それとあなたは誰で、何をしているのか」
角成は一気に喋った。
その男性は人差し指を振りながら「チッチッチッ」と口で言い、
「ノーノーノー、ゲンシュウ、ゲンソウじゃなく、ゲーン・シュウー。ゲンさんでもゲンちゃんでもいいけど、フルネームの時はゲンシュウ。あっ、ちょっと古いけど、ゲンサマもええなぁ」ゲンシュウと名乗った男が陽気に言った。
どうやら話をはぐらかすのは上手なようだった。
「名前はわかりましたから、他は?」
「違法な事は一切してない。俺は君に手伝って欲しい。以上」
「以上って、何も答えてないですよ、それじゃぁ」
「初対面で信用してくれとは言わん、そこは君の直感に任せる。六時にもう一度ここに来てくれたら、詳しい事を話す。どぉ、それで」
「どぉ、って言われてもなぁ……、困ったなぁ」
下を向いて考え込む角成の目に、破魔子さんの梅の小紋の着物の裾から見える純白の足袋が飛び込んで来た。
(この足もぜっったいに見たことがある。 ……何だこれは)
既視感と記憶とが近づいては遠ざかり、像を結びそうになっては泡と消える。
角成は、必死に決して細くない記憶の糸を手繰る。
( ……だめだ、何かが邪魔をしてうまく記憶を呼び起こせない)
「見たことが全てとは限らんよ。感じたことも判断材料にしたら、もっとええ答え出せるんとちゃう?」
(玄宗さんは、この人はいったい何を言っているのだろう……)
何から何まで何となく理解できそうで、何となくできないもどかしさが角成に付きまとう。
「まぁ、それはさておいて、俺のことが信用出来へんかっても、葛葉おばあちゃんのことは信用出来るやろ。葛葉おばあちゃんのお導きやと思て今夜来てみて」
そして破魔子さんが優しい眼差しでうなずいた。
まるで「うん、って言っちゃいなさい」とでも言うように……。
「はい」
角成はこの時、なぜか破魔子さんの微笑みに従った。
角成は、漠然とだが、悪いようにはならない気がした。
「しか~~し!」
玄宗さんが、突如大きな声を出した。
「一つだけ注意しとくから、これだけは気ぃ付けて」
玄宗さんが顔を引き締めて言った。
角成は急速に緊張した。
「ノック二回はトイレノック」
「 ……えっ?」
「君がここの門をノックしたのは何回」
「二回」
「それはトイレの扉にするノック。それ以外のドアには三回以上のノック」
「うっ、マナー……」
角成は、
(この人、玄宗さんのこと……、僕はかなり苦手かもしれない)この時しみじみそう思った。
どこをどう通って家に帰ってきたのか角成は記憶が定かでなかった。
そんなに長時間玄宗さんのところに居たとも思えないし、うろうろ長時間彷徨っていた時のような足の疲労感もないし、しかも傘を忘れて来ていた。
なのに窓から見える外は夕焼け空で、時計の針は四時半を指している。
とりあえず角成は、ダインニングテーブルの上に小さな一輪挿しを置き、早咲きの紅梅を挿した。
この梅の花は玄宗さんの家で、主の帰りを待つ角成の靴に挿してあった。
その濃い紅色に縁取られた花を見ていて角成は思い出した。
「着物の柄……、あの足袋……、梅の花。 ……おばあちゃん?」
角成は記憶のよみがえりを妨げている正体がやっとわかった。
『死んだはずの人間がこの世に存在するはずない』
確認のために角成は母に電話をする。
「母さん教えて、葛葉おばあちゃんのお葬式の時、おばあちゃんに何着せた?」
「何? 突然。……えっとぉ、湯かん師さんが着せてくれたんは、……おばあちゃんのお気に入りの梅の小紋の着物よ。それがどうかしたん?」
「足袋は?」
「おばあちゃんが自分で縫った足袋やけど。どうしたのよ、突然そんなこと聞いて」
「おばあちゃんの本当の名前、葛葉じゃなくて、破魔子とか……」
母は一瞬絶句した後、
「 ……どうしてそれ……、その名前知ってるのは私だけのはずやのに、何であんたが知ってんのよ!」
声が怒気をはらんでいる。
( ……うまく説明できない)
「うーん、まぁ……、夢に出てぇ、……おばあちゃんが」
それは本当に苦しい言い訳、というより『嘘』だった。
「私が言うたんかなぁ……、あんたが小さい時に。 ……その名前は戸籍にも過去帳にもお位牌にも載ってないマル秘中の極秘、絶対に文字で残してはいけないトップシークレットの事柄なんよ。だから絶対に言うてないはずやねんけど……」
「おばあちゃんにそんな秘密なんかあったん」
「う~ん……、今は確定申告で忙しいから、また休みの日にでもその話するわ。おばあちゃん死んでから、もう十年ほどになるから、……時効やろ」
母さんは今、父さんの事業の総務と経理の担当としてがんばっている。
その後母さんは、角成の食事の心配をひとしきり話し電話を切った。
なぜあの女性はおばあちゃんの死出の旅装束を身に着け、破魔子というおばあちゃんの秘密の本名を名乗り(と言っても玄宗さんが呼んでいただけだが)あそこに居たのだろう。
それに玄宗さんは、おばあちゃんの知り合い、と言った。
角成はなんだかあまりにも手が込んで、しかも出来過ぎた話のような気がした。
だが目的は何?……。
一体何があるんだろう、あそこに、あの人たちに……。
……そして角成に。
ドアを誰かが激しくノックする。
あのけたたましくせわしないノックは若菜だ。
「どぉ、どぉ、どぉ? ちゃんと届けてくれた? 荷物。あんたごはんの用意してる? 食べんと元気出んよ。あんたまた一人やから面倒くさがって、カップラーメンか何かだけで済ますつもりやったんちゃうん。私がうどん作ったげるから、買うてきたてんぷら乗せて、てんぷらうどんにして一緒に食べよ。どぉ、ありがたいでしょ、感謝してよ。お米ある? 炊くね。ちょっとぉ、邪魔っ。どいて、あっちで座って、ゲームでもしてて」
若菜が一気に喋って米を研ぎ、角成はダイニングテーブルのへりに腰を掛ける。
「ちゃんと届けたから安心して。受け取りの判コはもらってないけど」
「迷たんちゃう? 心配してたんよ」
「一発で行けたよ。地図の通りに」
「ウソっ、薬局と駄菓子屋がどこかわからんかって、私あそこの通り何往復したか」
「えっ、珍しい。若菜姉ちゃんでも道に迷うことあんの?」
「カクナリが道に迷わんほうが珍しいって。あんたこれで一生ぶんの運使い果たしたんちゃう?」
若菜の言う通りかも知れない。
道に迷わなかった後の、あの展開……。
確かに女神さまがそっぽ向いた状態だったのかも、と思うと、角成は色々納得できた。
(よし、今夜行くのはやめよう)
角成がそう心に決めると今日の一連の出来事など、もうどうでもよくなった。
そして角成たちは、若菜の作ったてんぷらうどんと若菜の握ったおにぎりを食べ、どうでも良いことを喋り(喋ったのは若菜がほとんだが)、日常に戻ったことを実感した。
若菜のおにぎりはいつも通りおいしかった。
ご飯を炊くときの水加減と、塩加減と、握り具合が絶妙なのだ。
角成がコンビニでおにぎりを買わない理由を、角成自信が今初めて気付いた。
(自分の事を自分では案外知らないものなんだなぁ)
この時、角成はそう思った。
第一章 第一節 はじめてのおつかい 終




