表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸せの青い鳥は手に入れるといつも灰色  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第3話 夢の国で書き綴ったアルゴリズム

 新しくなったジャングルクルーズの待ち時間は、百分を超えていた。

 湿り気を帯びた熱気と、スピーカーから流れる陽気なBGM。沙織は、隣に立つ徹の腕をぎゅっと抱きしめた。

「やっと来られたね、徹くん。忙しいのに、わがまま言ってごめんね」

 徹は、生返事でスマホの画面を見つめていた。彼の視線は、現実のジャングルではなく、抽象的な数式が蠢く脳内の宇宙を彷徨っているようだった。

 沙織は、そんな彼に陶酔していた。

 女子大を卒業し、平凡なOLとして働く彼女にとって、将来の「教授の妻」という椅子は、何よりも手に入れたい最高級のブランドだった。彼が研究に没頭すればするほど、その価値は高まる。私はそれを理解し、支える特別な女。そう自分に言い聞かせてきた。

 だが、その瞬間は唐突に訪れた。

「あ……」

 徹が、短く声を上げた。

 その瞳に、火が灯る。沙織の存在も、ディズニーの魔法も、すべてが背景へと退いた。

「沙織、悪い。……降りてきた。これ、今書き留めないと消える」

「えっ、今? あと少しで乗れるんだよ?」

「列、抜けるわ。先に乗ってて」

 徹は、沙織の返事も待たずに列を逆走していった。

 呆然と立ち尽くす沙織。周囲のカップルからの好奇の視線が、針のように肌を刺す。

 

 三十分後。

 沙織は、ワールドバザールのベンチに座り、一心不乱に便箋へペンを走らせる徹を見つけた。彼は土産物用の、ミッキーが描かれた可愛らしい便箋に、およそこの世の情緒とは無縁の、冷徹なアルゴリズムを書き殴っていた。

 その姿は、周囲の幸福な空気から完全に切り離され、そこだけが「灰色」の空間に見えた。

 沙織の胸に、ドロリとした感情が湧き上がる。

 支えると言った。理解していると言った。けれど、この場所で、これだけはやってほしくなかった。

「……徹くん」

 沙織は、彼の隣に座り、瞳を潤ませて囁いた。

「ディズニーより、私より、今は研究が大事なんだね。……そういうストイックなところ、好きだよ。でも、今はその『好き』を、自分でも素直に受け入れられないの」

 完璧な台詞だ、と沙織は思った。

 悲劇のヒロインでありながら、相手の才能を認める度量を見せる。これを聞けば、彼はペンを止め、私を抱きしめて謝ってくれるはずだ。

 だが。

 徹の耳に、彼女の声は届いていなかった。

 いや、届いてはいたが、それは彼の脳内演算を妨げるノイズ(雑音)として処理されていた。

(今は話しかけんなよ。見ればわかるだろ)

 徹は、沙織の涙に気づいていながら、一瞥もくれなかった。

 彼の脳内では今、彼女という不確定要素を排除した、完璧な数式が完成しようとしていた。

 沙織が夢見ていた「教授の妻」という椅子。それは、夫の人生において「背景」の一部になることを意味する。彼は彼女を愛しているのではない。自分の研究を邪魔しない、都合の良い「環境」を求めているだけなのだ。

 沙織が必死に捕まえようとしていた青い鳥。

 それは、徹が書き殴ったアルゴリズムによって、瞬時に解体され、冷たい灰色の記号へと変換されていく。

「……行こうか。終わったから」

 十分後、徹は満足げに立ち上がった。

 便箋をバッグにしまい、何事もなかったかのように沙織の手を取る。その手は温かいのに、沙織は違和感を感じていた。

 二人は再び、夢の国の群衆へと紛れていった。

 徹の脳内には新しい数式が、沙織の胸には「不満」という名の公式が、それぞれ刻まれていた。

 花火が上がる夜空の下、二人の影は、どこまでも灰色に長く伸びていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ