第3話 夢の国で書き綴ったアルゴリズム
新しくなったジャングルクルーズの待ち時間は、百分を超えていた。
湿り気を帯びた熱気と、スピーカーから流れる陽気なBGM。沙織は、隣に立つ徹の腕をぎゅっと抱きしめた。
「やっと来られたね、徹くん。忙しいのに、わがまま言ってごめんね」
徹は、生返事でスマホの画面を見つめていた。彼の視線は、現実のジャングルではなく、抽象的な数式が蠢く脳内の宇宙を彷徨っているようだった。
沙織は、そんな彼に陶酔していた。
女子大を卒業し、平凡なOLとして働く彼女にとって、将来の「教授の妻」という椅子は、何よりも手に入れたい最高級のブランドだった。彼が研究に没頭すればするほど、その価値は高まる。私はそれを理解し、支える特別な女。そう自分に言い聞かせてきた。
だが、その瞬間は唐突に訪れた。
「あ……」
徹が、短く声を上げた。
その瞳に、火が灯る。沙織の存在も、ディズニーの魔法も、すべてが背景へと退いた。
「沙織、悪い。……降りてきた。これ、今書き留めないと消える」
「えっ、今? あと少しで乗れるんだよ?」
「列、抜けるわ。先に乗ってて」
徹は、沙織の返事も待たずに列を逆走していった。
呆然と立ち尽くす沙織。周囲のカップルからの好奇の視線が、針のように肌を刺す。
三十分後。
沙織は、ワールドバザールのベンチに座り、一心不乱に便箋へペンを走らせる徹を見つけた。彼は土産物用の、ミッキーが描かれた可愛らしい便箋に、およそこの世の情緒とは無縁の、冷徹なアルゴリズムを書き殴っていた。
その姿は、周囲の幸福な空気から完全に切り離され、そこだけが「灰色」の空間に見えた。
沙織の胸に、ドロリとした感情が湧き上がる。
支えると言った。理解していると言った。けれど、この場所で、これだけはやってほしくなかった。
「……徹くん」
沙織は、彼の隣に座り、瞳を潤ませて囁いた。
「ディズニーより、私より、今は研究が大事なんだね。……そういうストイックなところ、好きだよ。でも、今はその『好き』を、自分でも素直に受け入れられないの」
完璧な台詞だ、と沙織は思った。
悲劇のヒロインでありながら、相手の才能を認める度量を見せる。これを聞けば、彼はペンを止め、私を抱きしめて謝ってくれるはずだ。
だが。
徹の耳に、彼女の声は届いていなかった。
いや、届いてはいたが、それは彼の脳内演算を妨げるノイズ(雑音)として処理されていた。
(今は話しかけんなよ。見ればわかるだろ)
徹は、沙織の涙に気づいていながら、一瞥もくれなかった。
彼の脳内では今、彼女という不確定要素を排除した、完璧な数式が完成しようとしていた。
沙織が夢見ていた「教授の妻」という椅子。それは、夫の人生において「背景」の一部になることを意味する。彼は彼女を愛しているのではない。自分の研究を邪魔しない、都合の良い「環境」を求めているだけなのだ。
沙織が必死に捕まえようとしていた青い鳥。
それは、徹が書き殴ったアルゴリズムによって、瞬時に解体され、冷たい灰色の記号へと変換されていく。
「……行こうか。終わったから」
十分後、徹は満足げに立ち上がった。
便箋をバッグにしまい、何事もなかったかのように沙織の手を取る。その手は温かいのに、沙織は違和感を感じていた。
二人は再び、夢の国の群衆へと紛れていった。
徹の脳内には新しい数式が、沙織の胸には「不満」という名の公式が、それぞれ刻まれていた。
花火が上がる夜空の下、二人の影は、どこまでも灰色に長く伸びていた。




