第2話 誠実な男が「仕事」を選び、愛を「効率化」した日
その言葉は、冷たい霧のように静かに、けれど逃れようのない確実さで、私の体温を奪っていった。
「誰も連れて行く気はないんだ」
六本木や大手町の喧騒を予感させる、硬質で、一点の曇りもない声。
私の目の前に座る直樹は、手つかずのカプチーノを眺めたまま、一度も視線を逸らさなかった。その表情は、重大なプロジェクトの最終意思決定を下す執行役員のように、凛として、残酷なまでに美しかった。
付き合って三ヶ月。
これまでの人生で出会った男たちは、皆、どこか「嘘」の匂いがした。甘い言葉の裏に打算があり、優しさの裏に臆病さがあった。けれど直樹は違った。彼は言葉と態度が、精密機械の歯車のように完璧に一致する男だった。
「好きだよ」「ずっと一緒にいたいね」
彼が口にするたび、私の胸の奥に灯る温度は、単なる恋愛感情を超えて、ある種の「信仰」に近い安らぎへと変わっていった。最初はそれほど乗り気ではなかった私も、彼が毎日、朝早くから出勤し、誰よりも早く現場に立ち、先輩たちに可愛がられながら、仕事に誇りを持って邁進する姿を見るうちに、気づけば彼という「正解」に溺れていたのだ。
ついに本物の青い鳥を捕まえた。そう確信していた。SNSでも幸せ自慢投稿をたくさんした。相手のいない友人たちに勝ち誇って成功術を語ってしまった。
青い鳥は、一通の辞令という名の散弾銃で撃ち落とされた。
地方支社から、東京の本社へ。それは、三十代前半の彼にとって、将来の役員コースを約束されたも同然の「栄転」だった。
「遊びに行くんじゃない。本気で仕事をしに行くんだ」
直樹は淡々と続けた。その言葉の節々に、彼が積み上げてきた努力と、それを裏切らない組織への誠実さが滲む。
「君との時間も
は居心地が良かった。でも、仕事のためなら行くしかない。そして、今の僕には、君を連れて行くという選択肢はないんだ」
私は、彼の誠実さが怖かった。
もし彼が「仕事が忙しくなるから、しばらく遠距離で頑張ろう」と、ありふれた、甘く無責任な嘘をついてくれたなら、どれほど救われただろう。あるいは「寂しいけれど、仕方ないんだ」と、情けない顔で泣いてくれたなら。
けれど、彼は最後まで「正論」を貫いた。
東京という巨大な磁場の中で、全神経を研ぎ澄ませて戦うために、今の自分にとって「不要なコスト」を冷徹に算出したのだ。その計算式の中に、私の居場所は一ミリも残されていなかった。
「寂しい、とは……思わないの?」
震える声で絞り出した私の問いに、彼は初めて視線を上げた。
その瞳は、深海のように静まり返っていた。
「思わないね。感情で仕事はできない。それだけだよ」
それは、三ヶ月間の思い出を、シュレッダーにかけるような音だった。
彼にとって、私と過ごした時間は「仕事」という本因坊を支えるための、期間限定の「休息」に過ぎなかったのだ。休息が終わり、戦いが始まる。なら、休息のための道具は、適切に処分されなければならない。
店を出る時、彼は私の背中に、いつものように優しく手を添えた。
その手の温もりが、今は何よりも恐ろしい。この男は、自分の中で「終わったこと」に対しても、最後まで礼儀正しく、完璧な「元恋人」を演じきることができるのだ。
一週間後。
私は、彼が去った後の静かな部屋で、ふとスマートフォンの通知に目をやった。
直樹から共有されていたスケジュール管理アプリが、無機質なアラートを鳴らしている。
『リマインド:〇〇(私の名前)の誕生日。ディナー予約のキャンセル処理、およびギフト配送の停止設定を完了すること』
それは、彼が東京へ発つ直前に設定した、最後の「タスク」だったのだろう。
彼は最後まで誠実だった。自分の人生を、一分の無駄もなく効率化し、私の存在を、完璧に「灰色」の過去へと塗り替えた。
窓の外を見上げると、そこには彼が向かった空と同じ、どこまでも冷たく、色彩を欠いた灰色の雲が広がっていた。
私が捕まえたと思っていた青い鳥。それは、最初から彼のキャリアという、巨大なシステムの一部として飼育されていた、精巧な模造品に過ぎなかった。
私はアプリの共有設定を解除した。
画面が暗転し、そこに映った自分の顔は、直視できないほど無惨に、色を失っていた。




