魔王の宝玉
1、宝玉と勇者
『魔王の宝玉』と呼ばれる人間がいる。
魔王や魔族たちがこぞって欲しがる人間。
魔王の手に渡れば、魔王や魔族たちの力が増し
魔族を強化するくらいならばと、その命を奪えばどこで、どのような手段で命を落としても何故か魔族たちは感知し、魔王を含めた魔族たちが凶暴化する。
人間側にとっては迷惑極まりない、利益をもたらすわけでも無いけれど死守せねばならない厄介な存在。
ーーーーそれが私だ。
「姫様、ではこちらに新しい本は置いておきますね。午後から司祭様がお祈りのために参りますのでご準備をお願いしますね」
「ーーーありがとうございます」
身支度を整えてくれて、頭を下げて出ていったシスターをぼんやりと見送り……テーブルに置かれた朝食よりも、寝台の脇に置かれた本を手に取る。
次はどんな物語なのだろうか。
本に終わりは無い。本は色々なことを教えてくれる。
私はここで、たくさんの本を読んだ
私はここで、字を習い、礼儀作法を覚え、生活をしている。
大きな広い部屋に、光魔法による明かり
大きな寝台に、特に大したものが入ってない棚
毎日食事が置かれるテーブルと、座るための椅子。椅子は、三つ。
部屋の三分の一は床が土で出来ており、隅っこでは私と同じようにこの部屋でしか生きることを許されていない木が遂に私の身長を抜いた。
部屋を出る出入口は木の扉一枚だけだけれど、その向こうにはさらに鉄格子の扉もある。
その上、私が出入りすることが出来ないよう、結界の魔法も部屋を覆っている。
でも、私を閉じ込めるそれらは私を魔物から守ってくれる物でもある。
司祭様も、シスターたちも私をとても大切に扱ってくれている。
ただ、出れないだけだ。
産まれてからずっと、そしてこの先もずっと出れないだけだ。
本を通じて外の世界を夢想してもーーーーこの先もずっと、こんな生活が続くと思っていた。
「勇者様が、いらっしゃるのですか?」
「ええ。最近魔物たちの活動が活性化してきているので……姫様を守るため、選出されたようです。ここにも頻繁に出入りするために突然ではありますが挨拶のためにこちらへ呼んでも構いませんか?」
唐突な提案に驚いて目をぱちくりとさせる。
勇者様と言えば……世界中の人類を守るために魔王と戦うすごいお方だ。
世界最強クラスの実力差のみが勇者と名乗ることを許される。
本で読んだことがある、そんなスゴイ方が護衛をしてくださるなんて!と嬉しい半面ーーーー今まで見た事がないくらい渋い顔をした司祭様の表情に不安も込み上げる。
「私は構いませんが…その、なにか問題があるのですか?随分とお心を乱されているようですが……」
「……これは失礼を。本来なら挨拶など必要無いのですが、彼等がどうしても自分達が守護する姫様に挨拶をしたいと我儘を申しているのですよ」
守ってもらう以上、挨拶くらい必要だと思うのだけれども……。
どうにも司祭様は私と勇者様を会わせたくないようだ。
今までずっと私を育ててくれた司祭様の頼みであれば、聞くのもやぶさかでは無いが……物語の主人公となる『勇者様』に、私はとても興味をそそられてしまった。
「守っていただく以上、挨拶はしとうございます。司祭様さえよろしければ通していただいてもよろしいですか?」
期待を隠しきれずにそういうと、司祭様は大きなため息を着いてから「中へどうぞ」と言った。
するとガチャリと鉄格子の扉が動く金属音が聞こえて、次いで木製の扉が開いて……背の高い男性と、細い男性と、綺麗な女性が入ってきた。
入ってきたのは三人だったけれど、私は一番前の大きな男性から目が離せなくなった。
勇者様…!
勇者様たちは部屋中を見回して、司祭様を見て、私を見て…視線があって胸がドキッと高鳴る。
けれど勇者様は不機嫌そうに顔を歪めた。
「あ?なんだ、大人の女性じゃないのか?子供じゃないか」
「…この子はこの部屋の中だけで生活しているからか成長が著しいだけだ。だが見た目は子供でも中身は立派な女性だ。不躾な言動はやめていただきたい」
「こんな子供に女性な対応を望まれても…なあ?」
勇者様は司祭様と違って、ズカズカと私の前に来るとその場にしゃがみこんだ。
しゃがんで、椅子に座った私と同じくらいの目の高さだ。
「よお、嬢ちゃん。お前が宝玉か?」
こんな目で、見られたことなんて無かった。
シスターも司祭様もいつも優しくて……視線で、態度で、仕草で優しさを見せてくれた。
けれど勇者様の言動、行動全てが荒々しい。
椅子から降りて勇者様の両頬に手を伸ばす。
訝しげな顔をしつつも私の行動は止められなかったので……その頬に両手を添える。
頬はガサついていて、少しトゲが出ているようだった。
けれど、そんなものどうでもいい。
真っ直ぐに、土より明るい色の勇者様の瞳を見つめると、その瞳には金の髪の私が映っていた。
「………ゆうしゃさま」
「………はあ!?」
しっかりと見つめあって、うっとりとこぼすように呟けば勇者様が変な声を上げて立ち上がった。
距離ができて手が離れたので、慌てて飛びつくように勇者様の腰に手を回して抱きつく。
「ちょ、離せ!なんだお前は!?」
「勇者様、きゃあ!」
「何をする!」
「されたのは俺だ!?」
すぐに強い力で振り払われて、床に倒れ込む。
司祭様が心配して駆け寄ってくれるも、私はもう一度果敢に飛びついた。
今度は突き放されることなく、勇者様はすごいお顔をしていたけれど私はそれを見ないでぎゅーっと抱きついた。
「……離せ。じゃないとまた突き飛ばすことになるぞ」
「いやです」
「あんたが子供に懐かれるなんて珍しいじゃない」
「ちょっとくらい優しくしてやれば?」
服を引っ張られるも、必死にしがみつく。
グイグイ引っ張られて、ぎゅうぎゅうとしがみつき暫く攻防を続けていると今度は上に引っ張られた。
後ろのお二人の応援を受けて、私は嫌そうな顔の勇者様に無事抱き上げられたので心ゆくまで首に腕を回して抱きつく。
すると溜息をつきながら勇者様は私を抱えたまま寝台に腰掛けた。
「ったく……コレが宝玉、なんだな?」
「ええ、そうですよ。私どもが大切に大切に守って居る至宝ですけども?」
「これが、か?」
「何か問題でも?」
せっかくなのでお膝の上で勇者様の顔をじっと見て堪能する。
切れ長の鋭い細い目、こめかみのところには傷跡があり、くすんだ金の髪はあちこちが跳ねている。
そして口周りには金色のトゲがたくさん生えている。
ああ………本で読んだ『山賊』にそっくりだ。
シスターには大不評だったのだけれども、胸を打たれたあの挿絵そっくりな彼は……素敵で、かっこいい、理想の勇者様だった。
「姫様、こっちに戻ってらっしゃい(パンパン手招き)」
「勇者様とはずっといられないのでしょう?今だけ、今だけですから(むぎゅー)」
「ぐう!(うちの子可愛いから引き剥がせない…!)」
「……おう、面白い顔してんなあ、シサイサマよぉ?」
「楽しんでんじゃ無いわよ、馬鹿」
「……すごいな、大人でも怖がるお前の凶悪笑顔でうっとりする子供なんて初めて見たぞ…」
2.
「勇者様は今は何をしているのかしら?」
「勇者様はお怪我などはなされてませんか?」
「まあ、では昨日魔物が出たのを勇者様が退治してくださったのね」
異性にそう簡単に触れてはいけないと、司祭様にとても沢山怒られたけれど
いつも通り、外には出れない生活。
けれど私は読書以外の楽しみを覚えたーーー。
「……おい、シサイサマがブチ切れた顔でお前のとこに顔を出せって言ってたけど、何したんだ?」
「まあ!勇者様、いらしてくださったのですね!」
「何も無いところですがどうぞこちらにお座りくださいませ」
先日とは違い、簡素なシャツ姿の念願の勇者様が来てくださったので飛び上がって喜び、テーブルにコップを置いて水差しの水を注ぐ。
勇者様は怪訝そうな顔で水を見たけれど、それには手をつけずに椅子に座って真っ直ぐこっちを見た。
やっぱり、素敵。
見つめられると背中がゾワゾワして、胸がほわほわする。
「……俺に聞きたいことがあるって聞いたが、なんだ?」
「…聞きたいこと、ですか?よく分かりませんが」
「……」
「……」
じっと勇者様の瞳を、顔を見つめる。
そういえばシスターに教えて頂いたのだけれども勇者様の瞳は『榛色』と仰るらしい。
私は勇者様の瞳の色を土より明るい色としか表現出来なかったけれど、彼をよりよく表現する言葉を覚えられてとても嬉しい。
「……おい、なんか言えよ」
「何をおっしゃればよろしいですか?」
「あー…くそ、お前はここから出たことがないって本当か?」
「ええ。私は『魔王の宝玉』ですから。ここから出るとたちまち魔族に群がられ、さらわれてしまうらしいので」
「……そうか」
綺麗な瞳がかげる。
その目は分かりやすく『外に出たくないのか』と問いかけて、問の結果に関係なく出れない私の身の上を察してくれたのだろう。
……シスターや司祭様と同じ瞳で見つめられて、にこりと微笑む。
そう見られることには慣れたものですもの。
産まれてからずっと、ずっと
可哀想、と思われて来ましたから。
理想とも言える彼の顔を見ているだけで幸せですけれど、そんな瞳で見られることは少々気持ちがよくありません。
ですので、うーんと違う話題を考えてみるも……特に話題が思い浮かばない。
勇者様のことを知りたいとは思っても
何を聞けばいいのかよく分からないのだから。
普段からシスターや司祭様ともあまり会話をしないから……どうやって話をすればいいのかよく分からない。
頬に手を添えて困っていると、勇者様は髪をぐしゃぐしゃにかき上げて剣呑な瞳になった。
「……なんの用もねえなら、帰るぞ?」
「そうですか。いらして下さりありがとうございました」
もう少し見ていたかったのだけれど、そう言われては見送るしかない。
ぺこりと頭を下げると、勇者様は眉間に皺を寄せたまま「じゃあな」と言って立ち去って行った。
「さようなら」
彼を見送って、飲まれることのなかった水を近くの木にかけてあげながらふむ、と考える。
「会話の勉強を、しなければなりませんね」
シスターに次は会話の仕方が書かれた本を持ってきてもらわないといけませんね。
「……司祭様、今日も姫様は勇者様のことを気にかけて居られました」
「司祭様、今日は勇者様は討伐に出たのですか?姫様が気にかけてらっしゃいました」
「姫様が勇者様を…」
「……おい、大変不本意ではあるが今日の午後はうちの姫のところに行ってこい」
「はあ!?俺の仕事はガキのお守りじゃねーぞ」
「黙れ。姫様の疑問を火急速やかに解決して私たちの平穏を取り戻してこい」
3,
会話についてを学び数日。
再度、勇者様との交流の機会がやってきた。
「……俺に用ってなんだよ」
「いらっしゃいませ、勇者様」
先日と同じように椅子に座るように促して水差しの水をコップに入れて差し出すと彼の前に座る。
今度は、あの時と違う。
シスターや司祭様相手に学んだ話術を試すのだ。
「実は勇者様にお尋ねしたいことがあるのですが…」
「………なんだ?」
「勇者様と会話をするにはどうすればいいのですか?」
本で色々と学んだ結果、私は『会話』というものがやはりよく分からなかった。
なので、シスターや司祭様にどう会話をすればいいのか聞いたところ皆様口を揃えたかのように「勇者様に聞け」と仰るので、その通りしてみた。
これで彼と会話ができる。彼について色々と知れると目を輝かせる。
「………………おう。お前の熱意だけは伝わった…」
突然勇者様がガックリとうなだれてしまったので慌てるが、どうやら具合が悪いわけでは無さそうだ。
だが、様子が明らかにおかしい。
立ち上がってそばに行って、そっと服を掴むと勇者様がなんて言ったらいいのか分からない顔でこちらを見た。
「なんで、俺と話したいんだ?」
「……なんと伝えれば良いのでしょうか。私は勇者様に対してとても強い好奇心を抱いています。貴方のことを知りたいですが、見てるだけでもいいのです」
椅子に座った彼と、立っている私で目線がさほど変わらない。
勇者様のことをまたひとつ知れて胸がほっこりするが……勇者様は私の視線を振り払うように立ち上がると真っ直ぐ扉に向かって私に背中を見せてしまった。
「ガキの遊びに付き合ってられっか。遊んで欲しけりゃ報酬でも用意しろ」
「…さようなら、勇者様」
報酬……つまり『対価』か。
なるほど、勇者様の情報を得るには対価が必要なのか。対価が無ければ彼と会話は出来ないのか。
……困った。
対価……金銭が存在することは知っているが、私はそれを手に取ったことがない。
ので当然ながら彼に支払う金銭を持っていない。
「シスター、金銭を稼ぎたいのですけれど私に出来ることってなにかあるかしら?」
「…………………………刺繍やレース編み、お守り作りなどいかがでしょうか」
その夜、夕食を持ってきてくれたシスターに相談すると彼女は物凄く微妙な顔で固まってから回答をくれ、明日はレース編みに必要な道具や本を持ってきてくれると言ってくれた。
どうやら教会での内職としてレース編みがあるらしく、道具や素材もすぐに手配できるようだ。
「ありがとうございます」
金銭を稼いで、それを報酬にしていつか勇者様と会話が出来たら良いな。
レース編みってどんなんだろうなあ。
「貴様うちの姫に何を言った」
「あ?知らねえよ、ガキのお守りさせんなって言っただろ」
「あの子がそれを心底望んでいるのだから仕方がないだろう!?そんなことより、あの子が金を稼ぎたいと言い出したんだぞ!何をさせるつもりだ」
「………はあっ!?」
4,
勇者様と出会って、外に出られないのはそのままだが私の世界は随分と変化した。
ちまちまちまちまちまちま
本を読むだけだった日々が、図案書を見てレース編みをするようになった。
何せ、時間だけはたっぷりあるし糸も司祭様がたくさんくれたので延々と編み続ける。
『どうせ編むなら、使う人に対しての祈りを込めると加護付きのお守りになるかもしれませんよ』
ただのレースよりも、お守りの方が高く売れるそうだ。
ならば、と使う人の無事を祈って延々と編み続けた結果、私は数日で加護付きのお守りを編むことに成功した。
才能が無ければどれほど祈っても加護が付くことは無いらしい。
そう考えると私は祈りを捧げる才能があったのだろう。
三日経てば、中級の図案も編めるようになり
十日経てば上級の図案も編めるようになり
十五日経てば思い描いた図案を編めるようになってきた。
私は本を読むことを忘れ、食事も睡眠も言われるまで忘れ、溜まっていく売上が入った大きな瓶を眺めてレース編みの世界に没頭していた。
そんな怠惰な生活が許されるわけも無く
「………おい」
首をグキっとあげられるとそこには不機嫌な色を宿した榛色の瞳があった。
「……あら、いらっしゃいませ勇者様。区切りのいい所まで終わらせますので少々お待ちくださいませ」
「……わかった」
編み物に集中して気づかなかったわ。
せっかく勇者様が来てくださったのに損をしたような気分になりしょんぼりしながら仕上げると、祈りが籠らなかったのか完成したレースには加護が付かなかった。
なるほど、これが踏んだり蹴ったりと言うものですね。
内心でガッカリしつつ、編み棒と糸を片付けて勇者様に向き直ると彼は既に椅子に座って水を飲んでいた。
「お待たせいたしました。お会いできて嬉しいです、あ、対価を先に渡しておきますね」
テーブルの上に売上が入った瓶を置く。
瓶は真ん中辺りまで銀貨や銅貨が詰まっていて結構な重量だ。頑張った結果なので自信を持って置いたのだけれど、勇者様の眉間のシワはさらに深くなった。
そんなお顔も素敵だけれど、おかしいわね。
対価を望まれたから、渡しただけなのに。
「お前、俺に払うために金を稼いだって言うのか?」
「はい。これで会話をしていただけますよね?」
にこにこしながらそういうと、勇者様は机に突っ伏した。
とてもお行儀が悪いけれど、勇者様にそんな仕草はとても似合っている。
……後で私もこっそりやってみようと思う。
「もっと、自分のために使えよ」
「……と、仰られてもここでは買い物なんて出来ませんし」
「なんか欲しいものは無いのか?」
「…欲したものは司祭様やシスターが下さいますので特には無いですねえ」
本でも、刺繍糸でも、食事でも
私が望んだものは余程の無理を言わない限り頂けるし、毎日食事も頂けるし恵まれた生活だと思う。
ただ、ここから出ることが出来ないだけで。
「…髪飾りとか、いらないのか?あと髪結紐とか。レース編むときにその髪、邪魔じゃないか?」
「…髪飾り、ですか……えーっと、贈り物として使われる装身具でしたっけ」
「……別に贈り物じゃなくて自分で買っても良いんだ。そうだな……」
少し悩むと勇者様は貨幣が入った瓶を持ち上げて立ち上がった。
「明日から少し遠くの街に魔物退治に行くから、ちゃんと休憩や休息や食事を取って生活するって言うならこれで色んな土産を買ってきてやるよ」
『買ってきてやるよ』
その言葉に……私の心はぐらりと揺れた。
物なんか、いらない。
お土産は…欲しいけれど、いらない。それじゃない。
「いい子で待ってろよ。またな」
私の同様など気にもせず、勇者様は大きな掌で私の頭を撫でて立ち去っていく。
「……さよう、なら」
動揺しきった私にはそれを言うのが精一杯だった。
……再会を示唆する挨拶なんて、口に出すことは出来なかった。
「きちんと言ってくれたでしょうね」
「ああ。休憩や食事をとれって言っといたぞ」
「それは…まさか姫からお金を奪い取ったのですか」
「ちげえよ。これであいつの好きそうなもんを買ってきてやるって約束したんだ。欲しいもんも分からねえみたいだから、色々な物を買ってきてやろうと思ってな」
「……そう、ですか。ちゃんと無事に買ってきてくださいね。勇者様の旅路に神の御加護があらんことを」
「おう、ちゃんと仕事は片付けてくるぜ」
5,
「姫様、ちゃんと食事はとってくださいね?」
「ええ。いつもありがとうございます」
糸が入ったかごと、本と、朝食が置かれたテーブルをぼんやりと見つめ……朝食に手を伸ばす。
「…ごはん…食べないと…」
パンと、果実と、干し肉を焼いたもの。
その中で最も近くにあったパンを手に取りひと口かじる。
……美味しい、と、思う。
小さな頃から変わらない、素朴な美味しいパンだと……思われる。
……目を閉じると暖かな声が脳裏に響いてくる。
『…姫様はいつもパンから食べますよね。今日のパンはあたしが焼いたんですよ!?美味しいですか?』
…食事をとると、彼女が嬉しそうに笑ってくれたのは…何年前のことだったか。
一年や、二年どころでは無い。ずっとずっと前の記憶だ。
『毎日姫様に美味しいパンを届けますね!』
そう言った彼女は、どこかの誰かの元へ嫁いで行った。
好きな男性の元へ嫁ぐといった彼女はとても幸せそうで……嘘つきなんて、なじれなかった。
苦い心と、取り繕った笑顔でおめでとうと言った。
「あら、ちゃんと朝食をとったんですね。偉いですよ。今日は本を読まれたんですか?」
「……いえ、今日はこの子の世話をしてました」
「そうですか。肥料をお持ちしましょうか?」
「…葉が瑞々しくて良い色をしているから多分いらないわ」
「かしこまりました」
汚れてもいい服に着替えて、部屋の隅の土の部分に座って若い樹を眺める。
私と一緒に閉じ込められているこの樹もだいぶ大きくなった。
……もう少し大きくなったらこの部屋から出してあげないといけないだろう。じゃなきゃ、そのうち先端が天井に届いてしまうかもしれない。
『ひめさま、これを植えるとね、かじゅになるのよ』
そう言って、食べ終えた果物の中にあった種をここに一緒に植えたのは……当時の私と同じくらいの幼いシスター見習いだった。
外に出ることの出来ない私の友達になればと、司祭様が連れてきてくれた娘だった。
『みのったら、いっしょにたべようね』
あの娘と一緒に実った果実を食べられたのは、一度きりだった。
森へ恵を取りに行った時に魔物に襲われたそうだ。
『これ、いまのじきがいちばん美味しいの!明日も取ってくるね』
みんな、みんな
また来るって約束をしたのに
……約束、したのに……。
……。
「…寝よ…」
今日はどうにもダメだ。
勇者様のお土産が楽しみで……本当にまた来てくれるのか分からなくて、怖くて。
ふっと部屋の明かりの魔法を切って寝台に潜り込む。
寝れば、早く明日が来ないかな。
早く明日が来て、明後日が来て…勇者様が来てくれないかな。
土で汚れた服で寝たら、寝台が汚れて怒られちゃうのはわかっていたけれどどうしても堪えきれなくって私はそのまま眠りに落ちた。
「おや、今日は何も作らなかったんですか?」
「はい。早々にお眠りになったようです」
「…せめて食事をとっていただきたかったんですが、しょうがないですねえ。ああ、ついでに商人に今日のレースはないことを伝えておいてください」
「かしこまりました。姫様のレースはとても強い加護があると人気らしいので、残念がられるでしょうね」
「それを姫様に言ってはなりませんよ。無理してでも作るようになってしまいますから」
「心得ております」
6 ,
眠りに落ちる時間が早くなっても
睡眠時間はあまり長くならなかった。
つまり結果として時間があまり、加護をつけるために祈りながらレースを編めるような気分ではなかったけれど、加護無しのレースでも構わないと司祭様が言ってくださったのでまたレースを編むことにした。
「姫様、お金をお持ちしましたが…あら、新しい瓶を用意いたしますね」
「大丈夫、いらないから机の上に置いといてくれるかしら」
「……剥き出しになってしまいますよ?」
「構わないわ」
売上が入った瓶は、勇者様が持って行ってしまった。
新しい瓶を用意してもらうのは恐らく容易だろうが……新しい瓶を用意してしまうと、古い瓶がもう帰ってこないような気がした。
古い瓶を、勇者様を待ちたいから
数枚の貨幣をテーブルにそのまま置いてもらう。
お金をそんなふうに見せびらかすものでは無いと、シスターから報告を受けた司祭様が苦言を仰ったが私がどうしてもこのままがいいと言うと渋々引いてくれた。
一枚、また一枚と貨幣が増えていき
テーブルの隅の方を占拠しだした時、突然バアン!と大きな音を立てて扉が開かれた。
「うお、悪い思った以上に力が出た」
そこに居たのは、
そこに居たのは……!
寝台の上から駆け出して、一秒でも早く彼の元へ行きたいと流行る心のまま飛び出す。
けれど普段部屋の中で少しの移動しか出来ない身体は、そんな心の動きに着いていけずに数歩飛び出しただけでふらっとよろけてーーーしっかりと、力強い腕に抱き込まれた。
「あっっっぶねえなあ!何やってんだバカ!」
「…勇者、様……」
また、来てくれた
来てくれた。約束を守ってくれた。
嬉しい、凄く嬉しい、会いたかった、声が聞きたかった。
だけど込み上げる思いが多すぎて上手く言葉に出来なかった。
「……っ」
勇者様は何故か私の顔を見て息を飲んで……私を立たせるとふっと笑って頭を撫でてくれた。
「いい子にしてたか?」
「はい」
「ちゃんと飯食って、寝てたか?」
「はいっ」
「そうか、偉いな」
「はいっ!」
もっと、もっと褒めて欲しい。
手のひらに頭を押し付けるように背伸びをすると勇者様はくしゃっと顔を綻ばせて笑った。
「…懐かれてる」
「これは幼女趣味に入るのかしら」
「うっせぇぞ!」
……どうやら今日はお仲間さんたちも一緒らしい。
扉のところで女性と男性がニヤニヤと悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
怒る勇者様にびっくりすると、そんな私の行動で勇者様が驚いて飛び跳ねて
……互いを見て、ふにゃっと笑い合う。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞおかけください」
今日は、すごくすごく楽しい日になりそうだ。
「明日には帰るか」
「……で、どうすんの?お姫様へのお土産は」
「あー……適当な絵でも買って帰ってやろうかと。どの絵でも、あいつから見たら外になるだろ?」
「へえ、あんたにしては色々考えてるのね」
「それなら、彼女が作ったレースが使われてるハンカチとかもいいんじゃないか?自分が作ったものが、どうなるかも知れていいんじゃないか」
「それも良いな」
「あとは食べ物なんかも良いかもね。そういえば昨日寄ったパン屋の女将さん昔シスターやってて姫さんのこと知ってるっぽかったよ?」
「お前、そんな情報どこで仕入れたんだ…」
「え、勇者一行って言ったら女将さんの方から「姫様を守る勇者様からお代は取れません」ってパン貰っちゃったから」
「お前な、たかんなよ…でもそうだな、それなら余計に金を払わないとだからパンも買ってくか」
「…姫様、喜んでくれると良いね」
「素直そうな子だったしよほど変な物じゃない限り喜んでくれるんじゃないか?」
「そうだね」
「そうだな」
魔王が登場する前に力尽きてしまいましたん_:( _ ́ω`):_