第一話 路地裏で出会った少女と、パンダみたいな俺
安森は、あくびを噛み殺しながら、大通りをぼんやりと歩いていた。
昨夜は医学の問題集を使ってひたすら勉強していたせいで、頭が痛くなるほどだった。朝になった今でも、まだ頭がぼんやりとしている。
ほんの少し仮眠を取っただけのつもりだったのに、気づけばもう朝だ。しかも、腹の虫が盛大に抗議の声を上げ始めていた。
そんなわけで、空がまだ完全に明るくなる前に、朝飯を求めて外に出てきたのだ。
(さて、何を食べようかな……)
そんなことを考えながら、近くの屋台街へ向かって歩いていた、そのときだった。
交差点を通り過ぎようとした瞬間、路地の奥から罵声が聞こえてきた。
安森は眉をひそめ、何事かと路地の中をちらりと覗き込んだ。
そこにいたのは、二人の太った酔っ払いだった。
そして、その二人に取り囲まれていたのは、中学生くらいの少女だった。
「お、おい……そこのガキ。お前、俺たちにぶつかったよなぁ? どう落とし前をつけてくれるんだ?」
酒に酔って呂律の回らない口調で、男の一人が凄んだ。
少女は怯えた様子で、震える声を絞り出した。
「わ、私、お金なんてあまり持っていません……。それに、おばあちゃんにご飯を買って帰らないと……」
その言葉を聞いた瞬間、酔っ払いは突然、少女の顔面に拳を叩き込んだ。
「金が払えねえだと? だったら、二度と飯が食えねえようにしてやるよ!」
そう吐き捨てると、今度はもう一発、少女の顔を殴りつけた。
少女はその場に倒れ込み、涙をぼろぼろとこぼした。
もともと、面倒事には首を突っ込むつもりのなかった安森だった。
最初は、ただ警察に通報するだけで済ませるつもりだった。だが、その光景を目の当たりにした途端、スマホを取り出していた手が止まった。
そして、ゆっくりとスマホを下ろす。
「……はぁ」
小さくため息をついた安森は、二人の酔っ払いへと歩み寄った。
「おい、あんたら。いくらなんでも、子供を殴るのはやりすぎだろ」
相手が何か言い返すのを待つこともなく、安森は近くにいた男の顔面に拳を叩き込んだ。
さらに、向かってきたもう一人の男も、あっという間に地面へと叩き伏せる。
それから、安森は少女に手を差し伸べた。
「ほら、早く逃げろ!」
しかし、少女は呆然としたまま、安森の顔を見つめているだけだった。
(……おいおい、何やってんだよ)
安森は思わず呆れた顔をすると、少女の手を強引に引っ張り、そのまま走り出した。
少女の驚いた声などお構いなしだ。
背後では、二人の酔っ払いがしつこく追いかけてくる。
安森は少女の手を引いたまま、とにかく人の多い場所を目指して走った。
そして、いつも肉まんを買っている店にたどり着くと、店の隅の席へ向かった。
「とりあえず、ここに座ってろ」
そう言って、少女を椅子に座らせた。
ようやく我に返ったらしい少女は、おずおずと頷いた。
安森は店の外へ目を向け、あの二人の間抜けな酔っ払いが遠ざかっていくのを確認すると、ようやくほっと息を吐いた。
それから店主に声をかける。
「肉まん二籠と、粟のお粥を二杯ください」
「はいよ!」
店主は、少々くたびれた様子の安森をちらりと見たものの、特に何も聞かずに注文を受けた。
安森は席に戻り、目の前でこっそりと涙を流している少女を見つめた。
「ほら、もう泣くなって。まずは何か食べよう」
しかし、少女はまだ涙を拭おうとしない。
仕方なく、安森は肉まんを一つ手に取り、少女へ差し出した。
「ほら」
少女は顔を上げ、安森の顔をうかがった。
「……食べな」
そう促されて、ようやく少女は肉まんを受け取り、小さく一口かじった。
肉まんを頬張り、粟のお粥をすすりながら、安森は目の前の少女をどうするべきかと頭を悩ませていた。
少女の顔には血がにじみ、服も泥で汚れている。しかも、着ているのは近くの中学校の制服だった。
(……はぁ。ここまで関わったんだ。最後まで面倒を見るしかないか)
困ったときは最後まで助ける。仏を送るなら西の果てまで――そんな言葉が頭をよぎる。
(まずは傷の手当てをして、それから家まで送り届けるか……)
安森がそんなことを考えている一方で、少女――鈴音もまた、目の前の恩人をこっそり観察していた。
鈴音は手にした肉まんをじっと見つめ、何かを考え込むように、わずかに眉を寄せていた。
徹夜のせいなのか、安森の目の下にはくっきりとしたクマができている。
(……パンダみたい)
鈴音は、そんなことを思った。
しかも、よく見ると、どこか愛嬌があって可愛らしい。
二人はほぼ同じタイミングで肉まんを食べ終えた。
その間も、鈴音はずっと安森の様子をうかがっていた。
何かを考え込んでいたかと思えば、急に困ったような顔になり、最後にはすべてを諦めたような表情で納得している。
その表情の変化が、鈴音にはなんだか不思議で、つい目で追ってしまうのだった。
やがて安森は顔を上げ、鈴音に声をかけた。
「なあ、まずは傷の手当てをしに行こうか」
しかし、鈴音はまだ安森の観察に夢中だった。
安森は返事を待ちながら、なんとなく居心地の悪さを感じていた。
(……おい、頼むから何か反応してくれ)
とはいえ、まださっきの出来事から立ち直れていないのかもしれない。
そう考え、しばらく返事を待ってみたものの、鈴音は一向に反応しない。
気まずい沈黙に耐えきれなくなった安森は、もう一度、おそるおそる声をかけた。
「……なあ、もしもし?」
その瞬間、鈴音はようやく誰かに呼ばれていたことに気づいた。
「あっ! ぱ、パンダさん、ど、どうしたんですか?」
――グサッ。
安森の心に、見えない矢が突き刺さった。
(パ、パンダ……?)
自分の目の下にクマができていることくらい、安森だって重々承知している。
だが、初対面の少女に一目で見抜かれ、あっさりと指摘されるとは思わなかった。
(いや、わかってる。わかってるけどさ……! そんなにはっきり言わなくてもいいだろ……!)
心の中では穴を掘って埋まりたい気分だったが、安森はどうにか平静を装った。
そして、先ほどと同じ説明をもう一度繰り返した。
ようやく話の内容を理解した鈴音は、こくりと頷いた。
こうして、安森は鈴音を連れて診療所へ向かうことになった。
道中、ようやく話を切り出す機会を見つけた安森は、鈴音に尋ねた。
「そういえば、俺は安森っていうんだ。君の名前は?」
鈴音は先ほど自分が安森をパンダ呼ばわりしたことを思い出し、みるみるうちに顔を赤くした。
「ご、ごめんなさい、安森お兄ちゃん……。さっき、パンダさんなんて呼んじゃって……。私、鈴音っていいます。鈴の音の鈴に、音楽の音で、鈴音です。助けてくれて、ありがとうございました……!」
恥ずかしそうに名乗る鈴音に、安森は気にした様子もなく答えた。
「子供がいじめられてるのを見たら、放っておけないだろ」
そんな話をしているうちに、二人は診療所へ到着した。
安森が鈴音を連れて中へ入ると、奥から声が飛んできた。
「おや、森ちゃんじゃないか。こんな朝っぱらから、どうしたんだ?」
そう言いながら、白衣を着た若い男が奥の部屋から出てきた。
声を聞いた途端、鈴音はさっと安森の背後に隠れた。
男はそんな鈴音をちらりと見たあと、安森の前まで歩いてきた。
安森は目の前の悪友を見て、呆れたように言った。
「王郝、くだらないこと言ってないで、さっさとヨードチンキを持ってきてくれ。友達が怪我してるんだ」
それを聞いた途端、王郝の顔に浮かんでいたニヤニヤ笑いが消えた。
「お、おう。わかった!」
王郝はすぐさま薬品棚のある部屋へ向かった。
一方、安森は振り返り、鈴音に優しく微笑みかけた。
「ほら、椅子に座って。傷の手当てをしてあげるから」
鈴音は素直に頷き、言われたとおり椅子に腰を下ろした。
ほどなくして、王郝がヨードチンキと綿球、ガーゼを載せたトレーを持って戻ってきた。
安森はトレーを受け取ると、まず綿球で鈴音の顔についた泥や汚れを丁寧に拭き取った。
それから、別の綿球にヨードチンキを染み込ませ、鈴音に声をかけた。
「これから消毒するぞ。ちょっとしみるかもしれないけど、我慢してな」
鈴音はこくりと頷いた。
安森はそっと綿球を傷口に近づけ、できるだけ優しく消毒していく。
その途中、鈴音の顔がぴくりと動いた。
やはり、かなり痛むらしい。
安森は、すぐそばで野次馬よろしく様子を眺めていた王郝に声をかけた。
「おい、暇なら氷嚢でも持ってきてくれ」
「はいはい、森ちゃん!」
王郝は返事をすると、さっさと奥へ引っ込んでいった。
王郝がいなくなると、安森は手当てを続けながら、鈴音に尋ねた。
「鈴音、さっきの二人に絡まれたのは、どうしてなんだ? それに、こんな時間なら、学校にいるはずだろ?」
鈴音は目の前の優しいお兄さんを見つめ、小さな声で答えた。
「……おばあちゃんが何日か前に具合を悪くして、病院に入院したんです。それで、おばあちゃんのお世話をするために、学校にお休みをもらっていて……」
その話を聞いて、安森はおおよその事情を察した。
ただ、どうして鈴音があの二人に目をつけられたのかについては、まだわからない。
そこには、鈴音自身が話したくない事情もあるのかもしれなかった。
それ以上、無理に聞き出すことはせず、安森は傷口に薬を塗り、冷やした氷嚢を鈴音の頬にそっと当ててやった。
すると、戻ってきた王郝が安森の隣に身を寄せ、小声で尋ねてきた。
「なあなあ、いったい何があったんだ? 俺にも教えてくれよ」
安森は椅子に座っている鈴音をちらりと見てから、仕方なさそうに小声で答えた。
「いつも朝飯を買ってる通りにある路地裏で、この子がチンピラ二人に絡まれて殴られてたんだよ。さすがに見て見ぬふりはできなくてな。ちょっと助けてきたんだ」
「へえ、そういうことか。いやあ、安森殿が身を挺して人を救うとは、実に感服いたしました!」
王郝は大げさに目を見開き、わざとらしく感心してみせた。
安森はそんな悪友をじろりと睨んだ。
「……おい。俺が人助けしたくらいで、そんなに珍しいか?」
「そりゃ珍しいだろ。昔、俺がお前に教科書を取ってきてくれって頼んだときでさえ、断ったじゃねえか」
「……っ!」
安森は危うく怒りで卒倒しそうになった。
(こいつ……! 今それを持ち出す必要あるか!?)
そんな二人のやり取りを、鈴音はときおり不思議そうに眺めていた。
それに気づいた安森は、そろそろ鈴音を家まで送り届けたほうがいいだろうと考えた。
王郝が相変わらず意味ありげな笑みを浮かべているのを横目に、安森は鈴音の前まで歩いていった。
「傷の具合はどうだ?」
鈴音はぱちぱちと瞬きをして答えた。
「だいぶよくなりました、お兄ちゃん。でも、顔がちょっとかゆいです……」
安森は微笑みながら言った。
「それなら大丈夫だ。治ってきてる証拠かもしれないな」
鈴音はそれを聞いて、なるほど、と納得したように頷いた。
「ところで、鈴音の家はどこなんだ? 俺が送っていくよ。今のその顔じゃ、おばあちゃんに会うのも心配だろうし、しばらく家でゆっくり休んだほうがいい。薬も渡しておくから、毎日少しずつ塗るんだぞ。そうすれば、きっとすぐによくなる」
安森にそう言われ、鈴音は恥ずかしそうに答えた。
「……あの、光明街の団地に住んでいます」
「光明街か。市立病院からもそう遠くないな。家の鍵は持ってるか? よし、じゃあ送っていこう」
そう言うと、安森は診療所の外へ向かった。
王郝から借りた電動バイクの鍵を手に、鈴音もその後をついていく。
「ほら、後ろに乗って」
鈴音はこくりと頷き、「はい」と小さく返事をすると、電動バイクの後部座席に腰を下ろした。
鈴音がきちんと座ったのを確認してから、安森は声をかけた。
「ちゃんと座れたか? 怖かったら、俺にしっかりつかまってていいからな」
それを聞いた鈴音は、少し迷ったあと、両手でそっと安森の服の裾をつまんだ。
「……はい、準備できました」
「よし、それじゃ行くぞ」
安森はそう言うと、電動バイクを走らせ、市立病院のある方向へと向かった。
しばらくして、二人は鈴音の家の前に到着した。
安森は笑顔で鈴音に告げた。
「じゃあ、家に帰ってゆっくり休むんだぞ」
その声を聞いた鈴音は、慌てて安森に頭を下げた。
「安森お兄ちゃん、助けてくれてありがとうございました! それじゃ、私、帰りますね!」
そう言って家の中へと戻っていく鈴音を見届けると、安森も電動バイクに乗り、薬局へと戻っていった。
――ただし、彼はまだ気づいていなかった。
通りに面した窓の向こうから、一対の瞳が、安森の去っていく姿をじっと見つめていたことに。
薬局へ戻った安森は、悪友の王郝からからかうような視線を向けられながらも、いつもどおり店の椅子まで歩いていき、腰を下ろした。
王郝の視線など、完全に無視である。
しかし、王郝はそう簡単に引き下がるつもりはなかった。
「いやぁ〜、まったく……」
わざとらしく舌を鳴らしながら、安森に向かって何度も首を横に振る。
まるで、心底がっかりしたとでも言いたげな態度だった。
しばらくそんな調子で絡んでいたものの、安森が一向に相手をしてくれないとわかると、王郝もようやく諦めたらしい。
安森の隣に腰を下ろし、彼が最近の医薬品の発注リストに目を通しているのを覗き込んだ。
安森はリストを確認しながら、ふと気になったことを口にした。
「そういえば、今回入荷するフロキサシン、なんでこんなに少ないんだ? あと半月もすればインフルエンザが流行する時期に入るだろ。いざってときに足りなくなったら困るぞ」
「それか? 一週間後にも次の入荷があるだろ? だから、そっちの便で多めに頼んでおいたんだよ」
王郝は何でもないことのように答えた。
しかし、安森は納得がいかない様子で首を横に振った。
「それでも、早めに準備しておいたほうがいい。製薬会社だって、生産できる量には限りがあるんだからな。病院で薬が足りなくなったら、そっちへの供給が優先される。俺たちみたいな薬局には回してもらえなくなるかもしれないぞ」
「はいはい、わかってるって。お前の言うとおりだよ」
王郝は安森の言葉に、隣で何度も頷いてみせた。
そんな話をしていると、店の入り口から声がかかった。
「先生、うちの子供が具合を悪くしてしまって……診てもらえませんか?」
安森はすぐに顔を上げ、返事をした。
「はい、ただいま!」
あとがきでは、中国に関するちょっとした豆知識も紹介していく予定です! 皆さんに楽しんでいただけたら嬉しいです。これからもよろしくお願いします!中国では、電動バイクは日常生活でよく使われている交通手段の一つです。特に近距離の移動では、多くの人が利用しています。一般的なモデルなら一度の充電で30〜40kmほど走ることができ、価格が高めのモデルになると、80〜100kmほど走れるものもあります。




