第43話 我が家の影です
「なんだか、思ったより恙なく終わったわね」
やるべきことを終わらせて屋敷に戻ると、安堵感からエントランスホールのソファへ崩れるように座る。
怖かった……。
王宮財政部なんて、今の私にとっては悪の本拠地みたいなところだもの。学院に至っては王宮ほどのセキュリティじゃない分、より恐怖が増すわ。
「そっすね、思ったより少なかったらしい」
「少なかった?」
バルナバの声に顔を上げると、彼の後ろにはいつの間にか背の高い男性がいた。音もなくそこにいる長身の男と言えば。
伊達メガネと執事服で護衛として追従していたバルナバと違い、闇に紛れる黒っぽい装束を纏った、冷たい目をした男と言えば。
「……トリスタン?」
「ご無沙汰しております、お嬢様。お守りできず申し訳ありません」
あっという間に目の前まで距離を詰めて跪く。流れるような動きは確かに洗練されていて、思わず見惚れてしまいそうなほど。
トリスタンとその兄のオクタヴィアンは、お祖父様が騎士団長を務めていた折、敵国から連れて来たと聞いている。
騎士の家に生まれた彼らは、幼い頃から騎士として育てられていたけれど、国の敗戦と共に失うはずだったその命を、バウドに預けてくれたんだ。
私がありもしない暴行事件の犯人に仕立て上げられ、あっという間に島に流されたのは、隠密チームとしてはきっと悔しい思いをしただろう。
「こうやって無事にあるのだからいいの。顔をあげてちょうだい。ところで、少ないとは?」
「雇われたゴロツキが2組、しっかり躾けられているのが1人。これは逃がしてしまいましたが」
「そう。……やっぱりいるのね」
トリスタンの言っているのは、私に危害を加えようとした人物の話だと思う。
雇われのゴロツキは、恐らく雇い主についてほとんど情報は持っていないだろうし、知っていそうな人物は逃がしたと。
「1人しか気づかなかったす」
「ああ、お嬢様を死角に誘導してくれたのは良かった。次もその調子で」
大きく溜息をついて、額に手を置きながら残念そうに呟いたのはバルナバ。それに対して、トリスタンは優しく声を掛けた。
まだ影として十分な働きができないバルナバは、この緊急事態において、本来の影としての仕事はまだ任せられない。
侍従に扮して私の近辺で護衛をしながら、トリスタンの働きぶりを見て勉強することになっていた。
「褒めるのは珍しいわね、トリスタン」
「お嬢様の前で叱責しませんよ。あとでしっかり指導します」
朗らかに笑ってから、トリスタンはバルナバを連れてどこかへ出かけて行った。
私も今日はもう外出の予定はないので、見守り部隊は必要ないし、バルナバがトリスタンのしごきで死なないように祈るだけね。
場合によっては、自ら命を絶つことも選択肢に入れる必要のあるこの仕事において、日々の修練はとてつもなく厳しくなるのだ。
トリスタンのしごきは特に厳しいと聞くけれど、それがバルナバの命を救うのだと思えば、私は何も言えない。
噂に聞くところによると、バルナバは侵入や気配の察知、それに俊敏性には長けているものの、剣術や槍術など所謂武術として体系立てられているものは苦手らしい。
トリスタンやオクタヴィアンは、それらを子供のころから鍛錬しているのだから、敵わないのは当たり前で、しかもそんな彼らでさえ、広い世界から見れば無双というわけではない。
だから、バルナバがこの仕事で生きていくためには普通の武器では難しいのではないかしら。
「ねぇドリス、エルモを呼んでくれる? ちょっと手配してもらいたいものがあるの」
ドリスは小さく頭を下げると、老境に足を踏み入れた家令が書類とにらめっこをしているであろう執務室へと去って行った。
それからフィルの誕生日パーティーまでの約1週間、私はそれなりに充実した日々を送れたと思う。
学院には退学処分を取り消してもらったけれど、もう出席の必要はないらしい。試験だけ別室で受け、その結果で卒業資格をいただけることになったのだ。
あのような事件があって、学院に通うのは大きな精神的苦痛を伴うだろうという、学院側の配慮だったのだけど、本音は面倒事を増やしたくないのじゃないかしら。
命を狙われる可能性がある以上、こちらとしても願ったり叶ったりなのだけど。
そうして空いた時間は、王都で最も賑わう商店街に出かけては、町の人々と世間話に興じた。
商家の娘に扮して、公爵令嬢の冒険譚について話してまわったのだけど、今やそれを知らない人はいないほどだわ。
エルモやお兄様にも手伝ってもらって、有能な建築家や腕のいい彫刻家を見つけることもできたし、あとは、明日のパーティーであの人を口説き落とせれば、一時帰宅の目標は達成ね……。
パーティーを明日に控えて、庭を眺めながらピエロと一緒に小さなお茶会をしていると、バルナバがこちらにやって来てピエロを追いやった。
「あら、弟をのけ者にするの?」
「そろそろ走り回りたくてウズウズしてたから、怖いオジョウサマから助けてやったんすよ」
「まぁ、気づかなくて申し訳ないことをしたわ」
2人でひとしきり笑い合うと、バルナバはすっと真面目な顔になって、遠くを見つめた。
彼の目に見えてるのは、庭に咲き乱れる花ではないような気がして、次に彼が言葉を発するのを待つことにする。
「俺、アンタには感謝してるんです。貴族なんてみんな同じだと思ってたけど、そうじゃねぇって教えてくれたのはアンタだった」
「そう」
「ピエロを探して保護してくれたお館様にも頭上がんねぇけど、アンタ、全部わかっててこの屋敷に報告を入れてくれって言ったんだろ」
どんどん敬語を忘れていくバルナバに、ドリスは片眉を上げながら、会話の聞こえない位置へと離れて行った。
私の傍らに立ったバルナバは、敬語はできなくても立ち姿だけはもう立派な護衛だ。それだけ、普段の修練も努力しているんだと思う。
「弟がいるとは知らなかったけど。でもお父様なら貴方を放り出したりしないと思ってたわ」
「俺、ピエロがいたから島に残れなかった。それがずっと心に残っててさ。なのに、アンタは自分より俺のこと考えてくれてたんだよな」
「貴族だから。当然のことよ」
バルナバの懺悔を聞きながら、整えられた庭を見渡す。草の陰にピスキーが見えたような気がして、目を凝らすけれど、何も見えない。
加護を失っていやしないかと、つい右手の甲に視線を落とすのも、帰宅してからのクセだ。
「それでも。いや、それだから。俺はアンタの影になるって決めたんだ」
「え……?」
思わずバルナバを見上げると、瞳の縁をほんのり赤くした彼はニヤリと笑って照れくさそうに頭を掻いた。
「騎士なら忠誠を誓ったりすんだろ、俺そういうのわかんねぇけど、俺が持ってるぜんぶでアンタを守る。それが俺にできるアンタへの礼だ」
ペコリと大きく頭を下げてから、私の言葉を待たずにバルナバはどこかへ行ってしまった。
私が真っ当な人生を送るキッカケを与えたから、彼は人生を捧げると言うの?
物語の始まりに登場していたバルナバ君の気持ちをやっと少しだけ開示できましたー。長かったですねぇ。
さて、次回は恐らく誰もが気になってたアノヒトの登場です。