2002年4月 SIDE TOOKO
昨日、地下鉄の中で別れたさくやは、相当酔っていた。一人で帰れるのか不安になるくらい。だから、きっとあたしのことなんてすっかり忘れてしまっているに違いない。斗亜さんから聞いてる。さくやは酔ったら記憶を無くすと。
……でも、あたし、なんだかそれでも良かった。
一緒に飲めて、さくやが話したいことを聞けたから。キスと抱擁は酔った勢いだって思えるし。
初めから彼女がいる人だと判っていて「友達」として紹介してもらったんだから、それ以上を求めたらダメだと思う。
どんなに、あたしがさくやを好きになったとしても、この思いは届かない。
今までだったら、そんなコト苦しくて耐えられなかった。けれどあたしは今、さくやと彼女との幸せを祈れる。
さくやが話したいこと何でも聞けるし、例えさくやがあたしを忘れていたとしても怒らないでいられる。
そのくらい、昨日一晩でさくやのことが好きになっていた。
「明日も逢いたい。」
例え忘れられててもいい。でも、昨日の幸せな時間は覚えておこう。そう思ってさくやからきたメールを保存した。そしてさくやのアドレスを登録番号一番に保存した。
今日さくやが『FIVE』に来るかは正直、全然判らない。酔った勢いの約束だから反故にされても仕方ない。判ってはいたけれど、あたしはちょっとだけ大人な格好をして、約束の時間に今日はシフォンケーキをお土産に持って『FIVE』へと出かけた。
いつもより高いヒールが『FIVE』までの廊下にコツコツ響く。その音が聞こえないくらい胸がドキドキ鳴っていた。まだ、さくやに逢う心の準備が出来ていない。来ないのは淋しいけれど、どうかあたしより後に来ますように。
願いを込めて重いドアを開いた。
「おう。瞳呼。いらっしゃい。」
日曜日の店内は閑散としていて、見渡しただけでさくやがいないことは直ぐに判った。
「こんばんは。」
カウンターの端のあたしの特等席は空いている。あたしはジャケットを脱いでから、その席に納まった。
「これ、昨日のテレビでやってたシフォンケーキなんですけど。」
「おー。いつもサンキューな。」
「ありがと。」
にっこり笑っていつきさんが受け取ってくれた。
「あいつ、覚えてねぇぞ、きっと。」
最初からその話題は辛かったけれど、あたしの上の猫三匹は、あたしを穏やかに微笑ませる。
「あんなに酔ってましたし、仕方ないですよ。」
「今度来たら、絶対ワンカートン買わせるからな。」
「いいですよ。酔った勢いの約束ですし。」
「瞳呼は優しすぎるんだよ。」
そう言って、斗亜さんは「何にする?」注文を聞いてくる。
「カシオレ薄めで。」
昨日と同じものを頼んだら、さくやが来てくれるかもしれないなんて勝手に願掛けなんかしてみた。
ドアが開くたびにドアの方を見るのを止めようって決めていた。
違った人が入ってきたら、期待していた自分に気付いてしまいそうだから。
だから、さくやが入って来た時も、あたしはカシオレを半分飲みかけたところで斗亜さんと他愛のない話をしていた。
「お~。桜夜じゃねぇか。」
その一言で、あたしの心臓はドキドキが見えるんじゃないかってくらい早くなった。期待しないようにドアの方をゆっくり見る。
そこには、昨日待ち合わせをした時と同じ、鋭い視線で周囲を威嚇するように見つめ、誰も信じないと顔に書いてあるんじゃないかと思うくらい神経張りつめた、酔っていないさくやがいた。
「お前、覚えていたのか?珍しいな。」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ。」
「ま、忘れたらワンカートンだったからな。」
「関係ありませんって。」
斗亜さん相手に笑っているけれど、瞳の奥の鋭さだけは抜けない。そんなさくやが迷いもなくあたしの隣に座って「先輩。ビールで。」注文してからこっちを向いた。
「覚えてたろ。」
「そんな……良かったのに。」
正直、忘れてくれた方が良かったのかもしれない。あたしのさくやを好きな気持ちは加速して止まらなくなってしまう。
「何でよ?嬉しくねぇのか?」
「うれしいけど。」
「けど?」
「期待しちゃう。」
酔ってないさくやにこんなこと言っても鼻で笑われるだけだと思っていた。その通りにやりと笑うと「期待すれば?」……また、反則な返事が返ってきた。
少しずつ混んできた店内。一人か少人数のお客さんが多かったからか、あたしたちは昨日座ったテーブル席に座ることになった。その頃にはさくやはすっかり出来上がっていた。
「歌わねぇの?」
店内で始まったカラオケマラソン一気飲み大会を眺めながら、聞いてきたさくやに「あたし、音痴だから。」いつもの言い訳をしてにっこり笑って見せる。
「つまんね~。お前。歌え。」
「お前」と呼ばれるのも、命令形で話されるのも、昨日とちっとも変わってない。けれど、あたしはさくやだったらそれが許せてしまっていた。
「さくやが歌ったらね。」
「おう。俺、上手いぞ?」
「期待してる。」
「お前、信じてないだろ?」
「だから、期待してるってば。」
「ふうん」とでも言いたげな目であたしを見ながら、さくやはカラオケの歌本を開く。
「先輩。683-1543。とマイク下さい。」
曲をさっさと決めてしまうあたり歌い慣れてるのが判る。あたしが昔、間違って付き合ってしまった男もそうだった。そして、残念ながらあたしはその男より歌の上手い人間に出会ったことがない。
入った曲はあたしの知らない曲だった。そして、歌いだしたさくやにあたしはビックリすることになる。
……こんなに歌の上手い人に出会ったことがない。昔、付き合ってた男の比ではなかった。
ガヤガヤしていた店内も、少しずつ静かになってさくやの歌声に皆が聞き入ってる。
マイクを持つ手も、歌う横顔も、色っぽい。格好良い。
あたしはまたさくやの好きなところを見つけてしまった。
一曲終わった頃には、大きな拍手がさくやへと贈られていた。
「な?言ったろ?」
「すごい!さくや!上手!」
「約束。お前も歌え。」
酔った時の事なんて忘れてるって言ってるくせに、そんなことだけは覚えてるなんてズルい。「さくやの後はハードル高いよ。」そう言ったけれど、歌本とマイクを押し付けられてしまった。
「下手だよ。」
「かんけーねぇし。俺はお前の歌が聞きたいの。」
そうやって言うことで、じわじわとあたしがさくやを好きな気持ちを抑えられなくなっていくのをこの人は判っているんだろうか?
あたしは歌本から顔があげられなくなって、ようやく一つ曲を選んだ。
「どれ?」
「んと。これ。」
「先輩。143-7695お願いします。」
「お。瞳呼、歌うのか。珍しいな。」
歌うのはJUDY AND MARYの曲。正直、まともに歌える曲はこれしかなかった。
再び店内はザワザワとし始めて、あたしの歌を多くの人が聞いていないことに安心する。
けれど、隣でさくやは間奏のたび盛り上げてくれていた。
そして終わった時には「下手じゃないじゃん。」にこりと笑って褒めてくれる。この時から、あたしは人前で歌うのがそんなに怖くなくなった。さくやのお陰。
「お前、自分に自信なさすぎ。」
「だって、自信持てるとこなんてないもん。」
「そうやって、また自分を落とす。」
「だって……。」
「だって、だって、ってお前がいたから俺、救われたんだぞ。」
「え?」
「お前が自分を落としてたら、俺、誰に頼って良いのか判らなくなるし。」
涙が、出そうになる。
こんなに酔っているのに、昨日だってあんなに酔っていたのに、さくやは覚えててくれたんだ。賭けをしたからかもしれない。でも、そんなことどうでも良かった。
「さくやはあたしに頼ればいいよ。」
「な?だから、自分を落とすな。」
「はい。」
「だぁかぁらぁ、敬語止めろって。」
「うん。判ってる。」
「判ってねぇだろ。」
クスクス笑いの後に、またキスが降ってきた。
あたしは『FIVE』の中だけではタバコを吸うことにしていた。吸うといっても正直、ふかしているだけだけれど。
子供じゃあないのだから、家でも職場でも吸えば良いのだけれど、日の当たる場所にいる時の「良い子ちゃん」な自分はそんなことすら許せなかった。
タバコは昨日買ったままだから残り少なくなっていて、そろそろ買いに行こうと思ってた時、さくやが「カバン見てて。」と言って席を立ったから、あたしはさくやが戻ってくるまで我慢することにした。
「仲良くやってるじゃねぇか。」
斗亜さんが昨日と同じように、無理やり通路に椅子を置くとビールを持って満足そうに笑った。
「はい。」
「正直、あいつが覚えているとは思わなかったから今日はビックリだ。」
「そんなに酔ったら記憶を無くすんですか?」
もしかしたら、斗亜さんの大げさな表現なのかもしれない。本当のさくやはお酒に強くて、酔ってもそんなに記憶を無くさないタイプなのかもしれない。
「昨日の酔い方だったら、壊滅的。」
「でも、とーこのこと覚えてましたよ。」
「だから、不思議だって。」
「何の話っすか?」
突然帰ってきたさくやにビックリして、あたしが息を飲んでる前で斗亜さんはビールをグビリと飲みながら「お前の話。」なんのことなく言い放った。
「俺の何の話っすか?」
「それは、瞳呼と俺の秘密。」
「な。」っと言われて慌てて斗亜さんに合わせるように頷く。
「斗亜。手伝って。」
カウンターからいつきさんのヘルプの声がかかったから、斗亜さんは椅子を片付けてカウンターへと戻っていった。
あたしはタバコを買いに行くことを思い出してカバンからお財布を探そうとしていたら、テーブルの上にフィルムが取られ、箱が開かれた金マルがあることに気付く。
「え?」
状況が、飲み込めない。
「ついで。」
そう言って自分のタバコに火をつけると、さくやは昨日と同じようにテーブルの下であたしの左手をとった。
あたしは、いつもタバコをハンカチの下に隠して置いている。それに、残り少ないなんて一言も言ってない。なのに、さくやはあたしのタバコを買ってきてくれた。
「ありがとう。あ、払うよ。」
「次、お前が買って。」
「次が、あるの?」
「俺は、お前に逢いたいけど。」
タバコの香りのするキスは甘くて切なかった。
「あたし帰らなきゃ。」
今日こそ終電で帰らないと、明日からは仕事がある。
昨日と同じ展開だったけれど、あたしは慌てて立ち上がってお勘定を済ませた。
「じゃあ、俺も。」
同じようにさくやも立ち上がって、お勘定を済ませる。
「お前ら、本当に帰るんだろうな?」
昨日と同じような、斗亜さんの疑わしそうな目があたしたちを交互に見る。
「明日、仕事っすよ。」
「とーこ、明日から日直なんで朝一の電車に乗らないと。」
二人同時に出た言葉が、かえって言い訳のように聞こえたようで斗亜さんは爆笑していた。
「また来いよ。」
「はい。」
エレベーターの前で斗亜さんがにやりと笑う。あたしはドアが閉まるまで手を振って応えた。
途端、昨日と同じようにきつく抱きすくめられる。
「もし、時間が許すなら。」
耳元の甘い声。それだけであたしの身体は痺れてくる。
「お前を、離したくない。」
あたしは泣きそうになる。どうしてさくやには彼女がいるんだろう?
どうして「彼女がいるさくや」をあたしは好きになってしまったんだろう?
昨日同様、手を繋いで駅まで歩きながら、あたしたちはさっきのエレベーターでの抱擁を忘れたかのように、他愛のない無難な話をした。
「明日、海に行こう。」
突然、何の前触れもなくさくやが言う。
「え?」
「嫌ならいい。」
そこで会話が終わってしまうのが怖くて、けれど「明日も逢える」という誘惑はあたしには甘すぎて。
「嫌じゃ、ない。」
「じゃ、行こうな。」
また、期待させられる。そして、きっといつか期待したことを後悔する日が来ることもあたしはちゃんと判っていた。
あたしは酔わない。だから言ったことも言われたことも忘れない。けれど、さくやにとっては酔った勢いの、その場の雰囲気を壊さないためのただの言葉。
判っているから、明日海に行けなくても、それはそれで良いと思った。
「約束してくれたさくや」がたまらなく愛しかったから。




