『不思議の国のアリス』
不思議の国のアリス。ルイス・キャロル著。
7歳の少女、アリス・リデルを主人公とした童話。
大まかなあらすじとしては、少女アリスが白兎を追いかけて穴に落ち、異世界で冒険するというものだ。
「…はぁ~…」
ピンク色と紫色の目に痛い服を着て、頭には猫の耳、臀部にはこれまた猫の尻尾を生やした少年が彼女の前に座っていた。
まるで、不思議の国のアリスに登場するチェシャ猫のようだと思った。
人の言葉を話し、自分の身体を自由に消したり出現させたりできる不思議な性質を持つことは同じ。
しかし、目の前にいてにこにこしている彼とは違い、物語の中のチェシャ猫は常に顔ににやにや笑いを浮かべていて、列記とした“猫”だ。
間違っても猫耳と尻尾が生えている少年ではないはずだ。
「一応聞くけど、キミ、何者?」
「チェシャ猫はチェシャ猫だよ。アリスは意地悪だなぁ」
「……」
―私は"アリス"なんていう名前になった記憶はない、と本日何度目か知れないため息を吐き出した少女はシェリア。
7歳の少女でもなければ、白兎なんぞ追いかけたことはない。
「私はアリスなんて名前じゃないんだけど」
「ううん、アリスだよ。ボクのアーリースー!」
突然、少年―本人曰くチェシャ猫―が飛びついてくる。
「ちょ、ちょっと!」
同年代の姿をしている彼の力は案外強く、シェリアでは引き剥がせそうにない。
「ただの空想型の魔力体かと思ったけど…貴方、どうして実体を持ってるの?」
「ん~、知りたい?」
「…まぁ、一応魔法学院の生徒だしね」
「じゃあ~、チュウしてくれたら教えよっかなぁ~」
「はぁ?!」
「ね、ね、はーやーくー!」
「何で出会ったばっかりの男にキ、キスをしなきゃいけないの!」
「わー、キスって言っただけで顔真っ赤。カワイ~」
シェリアに迫ってきたチェシャ猫は、彼女の頬をべろりと舐めた。
ザラザラした猫舌が、彼が本当に猫だということを証明していたため、シェリアは握りかけた拳を解いた。
「…実体のことはもういい。チェシャ猫君は元の世界に帰れるの?」
「何で?」
「何でって…」
「ボク、あの世界が嫌でアリスの世界に来たのに、戻るわけねぇじゃん?」
「…嫌って…」
「役目、役目、役目~、な世界だよ。“チェシャ猫”だからって面白くもねぇのににやにや笑ってさー。知らない女の子が来て帰るのをずーっとぐるぐる繰り返すの」
つまり、彼の世界では不思議の国のアリスの物語を繰り返している、ということだろう。
「?…じゃあ、今も面白くも無いのに笑ってるわけ?それって役目に忠実ってことじゃないの?」
「今はねぇ…ヒ・ミ・ツ」
「……」
「ね、ね、オレに名前頂戴?」
わざわざ身体を屈めて覗き込んでくるチェシャ猫。
「チェシャ猫って名前があるんじゃ…」
「“チェシャ猫”はオレの“役目”だもん」
「…んー…」
名前を考えるために、“Cheshire Cat”とチェシャ猫の綴りを光で描く。
得意な属性が光というわけではないが、光を操るだけの【シグナル】の魔法くらいはシェリアにも使える。
「…うーん…チェルシー…って女の子の名前だから…アナグラムはあんまり使えそうにないなぁ…」
「うんうん」
「かといってチェシャとかチェシーにするのは、これまた女の子の名前みたいだし…」
「うんうん」
「いっそチェシャを外して…」
“Cat”の文字が空中に浮かぶ。
「うんうん」
「…あ。ここにtを足して…ひっくり返して…」
“tact”
「うん。これなら名前っぽいし大丈夫かな。君の名前は今からタクト」
「うんうん…ってどういう意味?」
「要は…愛想がいい、とか機転が利く、って意味。何だか貴方にぴったりだと思って。気に入らなかった?」
「ううん!すげー気に入ったよ!オレは今日からタクトか…へへっ」
「喜んでもらえたなら何より…」
「ねぇねぇ、アリスの名前も教えてよ!」
「…あ、アリスって名前の意味じゃなかったんだ」
「うん。向こうだと“アリス”だって役割だよ」
「私はシェリア」
「シェリアかぁ~、いい名前!」
「…ところで、タクト、貴方これからどうするの?」
「う~ん…まだ考えてない…」
「だったら…多分、貴方みたいに異世界を渡ることが出来るなら許可してもらえると思うし、魔法学院に通ってみたらどう?」
「魔法学院?」
「そう。私も通ってるの。今いるここは寮の私の部屋ってわけ。あ…でも魔法って分かる?」
「分かるよ。向こうにもあった。“アリス”の元の世界には無かったみたいだけどね。【ステルス】と基本の【ヒーリング】に…【テレポート】と…あとこっちに来た【トリップ】は得意だよ」
「次元系魔法だらけじゃない…絶対それ通えるよ…」
魔法使いとしては高スペックなチェシャ猫―タクトに、シェリアは苦笑いを浮かべながらそう言った。
後日、魔法学院に通い始めたタクトが毎日シェリアに抱きついたりキスをしたりと激しいスキンシップで彼女に苦労させるのはまた、別の話。