第1話 冥界のモル
目が覚めたら、不思議な道に立っていた。
うん…不思議としか言いようがない道だ。
とてつもなく高い道っていう表現しかできない。
ホラ、わからないだろう?
雲の上まで突き抜けた、巨大な陸橋と言えばイメージできるかな。
それも雲かどうかもわからないモヤモヤで、道の下に雲のように広がって視界を遮っているのだ。
おかげで下が見えないのだけど、雲の上も明るくない。
太陽は見えないし、夜でもない感じだ。とにかく薄暗くて、不気味な色に支配されている。
全体が灰色な感じというか。
ただ、道が続いていることだけは確かだ。
俺が向いてる方向に――それが前か後ろかもわからないが――何かがフラフラと進んでいく。
それは、ぼんやりと発光する青白い光。
尾のような残像を残しながら、風もないのに風船のように揺らめいて、ゆっくりと進んでいる。
そう…まるで魂のように。
というか、魂ねえ。そう思うと笑えてくる。
あながち間違いではないのかもしれないけど。だって、立ちすくんでいる俺の体をすり抜けて行くから。
綺麗な光だな、とも思う。だけど、この状況が説明できないし。
まあ、夢の類には違いない。頬をつねってみたら痛みを感じなかった。いや、それほど感じなかった。
さらに言えば、恐れも焦りもない。心が凪いでいるように穏やかで――。
だから、夢だ。
(さて、どうしよう)
考えることはそれだけだ。どうすればこの夢から目覚めるのか。
すると、また笑いがこぼれた。
目覚めたばかりで、また目を覚ますって意味がわからないじゃん。
(まあ、もう少し夢に浸っていようかな)
起きたら面倒な仕事が待っているしね。
俺はポケットに手を入れた。夢だろうと、いつも持ち歩いているスマホとアイコスくらいは入っているだろう。
と思ったが、手には何も触れなかった。
ああ…マジかよ!と目を閉じ、天を仰ぐ。
目を開けると、空とも思えぬ灰色の天空に巨大な雲が渦を巻いていた。
夢でもタバコを吸いたいのかよ、と自分にツッコむしかなかった。
そして、ふと手を見る。
「あれ?あるじゃん!」
思わず声に出していた。右手にはアイコスがしっかりと握られていたのだ。
え?なかったよね?じつは持ってた?
じっと右手とアイコスを見つめたが、数秒後に悟る。まあいいや、どうせ夢だし。
さっそく一服、と思ったが、魂っぽい美しい光の列がその行為を自粛させる。
なんだか汚してしまいそうな、友達の新車の中で吸ってしまうような、ごめんで済まない禁断の行為に思えてしまった。
だから、とりあえず魂と同じ方向に行ってみることにした。
すると、また不思議なことが起こった。
延々と続く一本道に見えていたのに、歩くうちにフッと景色が変わった。
気がつけば大きな門がそびえ立っていて、その門の向こうに、さらに巨大な城のような建物が見えている。
それは、中世の城というか、神話に出てくる城のような高貴さを醸し出していた。
雲の上だからかな。神々しい感じがする。城の中心に向かって、天空に渦を巻く雲から一筋の光が差しているし。
それは黄金の光。魂たちはそこに向かっているようだ。
まあ、ちょうどいいや。俺は門の下の広間のようなスペースの端に寄って、腰を下ろした。
(ようやく一服できるな)
吐いた煙が、魂たちの方向とは逆に流れていった。
ついでにひと眠りしようかな、なんて思えてきた。なんだか気持ちいいし。また寝るなんておかしいけど。
そして、ゴロンと体を横たえたときだった。
「な、なんでここに人がいるのさ…」
声が聞こえた。驚いているような力のない声だ。
(知らんがな。俺が聞きたいよ)
俺は声の方向と反対に寝返りをうつ。考えるのが面倒になった。
「ね…ねえっ、君は誰なの?」
声が語りかけてくる。これは魂の声なのかな。
仕方ない、夢の中で寝るってのもどうかと思うし。俺はむくりと上体を起こして、声の主を探った。
だが、誰もいない。魂は目の前を横切っていくだけで、どうも違う気がする。
空耳?とも思えないけど、魂の仕業ではないっぽい。ふと視線を落とすと、そこに猫がいた。
「うわっ」
情けない声が漏れ出た。
普通なら猫一匹で驚くことはない。でも、ここで猫が出てくるのかよ、と。
だが、そうではなかった。猫のほうが驚いているのだ。
うん、マジで驚いている。
器用に両手を――いや、前足かな?――を空中で固定して、後ろ足二本で立っている。
プルプルと震えているように見えるからだ。
サイベリアン系の青っぽいグレーとホワイトのタビー猫。
黒いマントを纏い、胸のあたりで群青色の宝石のようなブローチで留めている。腰には小物入れのような革製の小さなバッグがぶら下がっていた。
まあ、可愛らしい猫を出してきたもんだ。
撫でてやるべきかな、なんて思って手を伸ばすと、猫は前足の肉球をこちらに向けて拒絶した。
「待って待って…」
――猫が喋ったよ!
「喋っ…」
いや、さっきから喋っていたな。自分より慌てているやつがいると、なぜか冷静になれるものだ。
猫はあわあわと前足をくねらせて慌てている。
「わかった。ちょっと落ち着こう。えっと…お前は猫だよな?」
自分でも何を言ってるのかわからない。だが、質問はこれ以外にない。
しかし、猫はまだ恐れおののいている様子だった。
「大丈夫だって。何もしないから」
そう言うと、猫は即答した。
「だ、大丈夫なわけないよ!なんで人間がいるのさ!なんで喋ってるの?」
「は?」
「は?じゃなくて!君、生きてるの?死んでるの?」
「はあ?」
話がまったく噛み合わなかった。
こりゃだめだ。俺はそう思った。夢にしても支離滅裂すぎだよ。
ああ…もう、仕事のことを思い出しちゃったよ。面倒な人間を相手にするときの憂鬱さを。
人間でさえ分かり合えないのに、猫と分かり合えるはずがないのだ。
落ち着くのは俺のほうか。俺はアイコスを取り出して、吸い込もうとした。
「いやいや、だから何やってんのさ!」
猫がうるさい。肉球を向けるなっての。
「何って、一服だよ。落ち着こうと思ってね。猫に健康の心配をされる筋合いはないし」
「バカなの君、ねえっ!そうじゃなくて、なんでそんなことできるのさ。そもそも、なんで体があるの?」
まだ言うか。
「そりゃあ、俺が人間でお前が猫だからだろ。吸いたいなら貸すけど?」
「………」
猫は言い返してこなかった。
猫ごときに負けてたまるか。こちとら上から下からクレーマーから叩かれてきた中間管理職なんだよ。
「わかってくれたかね?」
猫はまだ怪訝な目で見つめていたが、ようやく諦めたのか、猫らしからぬ息をついた。
「君…どこから来たの?」
「夢の中かな」
「あくまでとぼける気なんだね」
「とぼけてないさ。だってここは夢の中だろ?どこから来たかなんてわかりようがない。地球って答えたら、笑ってくれるかな?」
冗談のつもりで言ったら、猫は真面目に考え込んでいた。
「地球…第二層だね。じゃあ、君は輪廻から外れたのかな…」
また意味不明なことを。ハイハイ、相手してあげればいいんだね。
なんで夢でも…と思いつつ、俺は聞き返す。
「第二層?」
「いや、なんでもないよ。それより、君の体はどういうことかな?ここには魂しか入れないはずなんだけど」
「うん、そうだろうとも。でも、それは俺が聞きたいのだよ。ここはどこなのかな?」
猫はまた逡巡するように黙った。まあ、どんな答えでもいいけど。
「地球の概念で言えば…冥界だよ」
ハイ、来た。天国でも地獄でもなく冥界ねえ。それに地球の概念って。
中二でももっと捻るだろうに。
「じゃあ、お前は冥界の猫なのかい?」
俺は周囲を見回し、ほかに猫がいないことを確認して、肩をすくめた。
すると、猫は意に介する様子もなく、後ろ足を揃えて背筋を伸ばした。
「ボクの名前はモル。冥界の境界案内人だよ。魂をあるべき世界に導く。それがボクの仕事。君のようなイレギュラーな魂は初めてだけどね」
仰々しくマントをなびかせてお辞儀をするモルという猫。案内人っていうけど、君は人ではないよ。
それに、ふーんという感想しかない。
「魂ねえ。俺の姿も魂のかたちってわけかな?」
モルは答えることなく、その場に座った。人間が胡坐をかくように。
そして、頬を掻いている。
「だからさ、わからないよ。ボクは魂の状態を見て、向かうべき道を示すんだ。でも君は体を持っているし、言葉も理解している。こんなことは初めてだよ」
どうも困っているみたいだね、モル君。
そんなこと言われてもって感じだけど、どうしてやることもできないから。
「とりあえず、落ち着いてくれたみたいで嬉しいよ。俺は余部哲雄、四十五歳独身。気がついたらここに来てた。それ以外は何もわからないんだな。どうやって来たかなんて、こっちが聞きたいんだよ」
モルは前足で目を覆った。オーマイガー感を出さないでくれよ。
「ちょっと、ふざけないでくれる?四十五歳なわけないでしょ」
「オイオイ?老けてるって言ってんの?逆か、若く見えるのかな?」
モルはジト目になって俺を見返して、息をつく。
「あのね、余部哲雄だっけ?気づいていないようだけど…まあいいや。本当に迷い込んだのかなぁ」
もういいのは、こっちなんだけどな。
「じゃあ、細かいことは置いておこうよ。モルは人間と話したことあるのかな?もっと楽しい話しない?」
呆れたように口を丸くする猫。俺の能天気さが気に入らないようだ。
「君さ、さっき夢だって言ったよね?どっちかというと、君がいた地球が夢のほうだよ」
「どういうことかな?」
何を言われても、もうふーんとしか思えない。逆に困り果てる猫の反応が面白くなってきた。
「ここはね、地球で人生を終えた魂がやってくるんだ。理解していないようだけど、魂って器のようなもので、生命と似ているようで別物なんだ。人間の生命が終わるときに魂が解放されるんだよ。そして、この冥界にやってくる。新しい生命に宿るためにね。ここは、次の輪廻に向かう道ってわけ」
ふむ。なかなかよくできた屁理屈だ。俺の夢にしてはたいしたものだよ。
「ここで、魂が生まれ変わるってことかな?」
「そういうこと。だから君はどう見ても異質なんだ。生きたままここに来れるとも思えないし、本当に覚えてないの?君、死んでると思うんだけど」
「死んだ?俺が?」
「思い出してみなよ。ここは夢なんかじゃないんだって。絶対死んでるはずだよ」
俺の膝に肉球を押し当ててくるモル。なんか必死だ。
でもな、死んだ死んだって言われるとちょっと凹む。それに思い出せって言われてもな。
モルは続ける。
「どうしてそんなに落ち着いているのか知らないけど、もう帰れないよ?」
「まあ、落ち着けって。なんとかなるから」
そりゃ落ち着いているさ。なんせ四十五歳の独身だからな。俺は左手をポケットに突っ込んだ。
なぜか、それがあるという確信があったのだよ。
左手をポケットから引き抜くと、真新しい新型のスマートフォンを握り締めていた。
先週買ったばかりの人気モデルだ。それをモルにちらりと向けて笑ってやる。
ここは文明の利器の出番だよ。猫には扱えまい。
案の定、モルはプルプルと体を震わせていた。
「ちょ…ちょーい、ちょいちょい!なんでそんなもの出せるのさ!魔法?第二層の人間が…」
もういいって、それ。
とりあえず、誰かに電話しよ。俺はモルを無視してスマホをタップする。
履歴表示すると、なんとビックリ。目が覚めるかと思った。一年近く仕事の電話しかしていなかったのだ。
「あ…友達がいなかったんだ」
「そういう問題じゃなくて!」
まだなんか言ってる。まあいい。こういうときの110番だな。ポリに電話しよう。
と思ったが、ダメだった。
「あ…電波がねえ…」
「だから、そういう問題じゃないって!」
もう、うるさいな。
「とりあえず、あの城に行こうよ。Wi-Fiくらい…」
と言いかけて、今度は俺が固まった。
スマホの画面にうっすらと自分の顔が映ったからだ。
自分…のはずだが、誰だ?
すぐさま鏡のアプリ起動する。
そこに映っていたのは――見たこともない青年の顔だった。
二十代そこそこの美しくすらある若い顔…。
猫がまだ何か言っているが、それどころではない。
ちょっと待って待って!俺はマジに焦った。誰だよ、この顔!
俺?知らない知らない。でも、俺の意思どおりにウインクしている。
「うおおォ―――ッ!」
俺は絶叫した。もうめちゃくちゃだ。もういい。もういいから悪夢から解放してほしい。
ひとしきり絶叫したあと、力が抜けてその場にへたり込んだ。
夢だとしても、自分の顔はそのままにしてほしかったよ。でも脳ミソは俺のかな?
ああ…もう頭が働かない。
気がつくと、モルが膝の上に乗っかっていた。
「残念だけど、夢じゃないよ。どうやら本当に迷い込んだみたいだね」
モルの口調は優しかった。でもね、問題はこの顔なんだよ。知らない顔なんだって。
「もしかして、もう生まれ変わったってこと?」
モルは首を振った。
「生まれ変わってここに来ることは決してないんだ。この先で生まれ変わるんだからね」
モルは城に視線を向けて、すぐに戻した。
「たぶんだけど、君は死んでまだ生まれ変わっていないよ。以前の魂が宿っていた人間の姿なんじゃないかな」
夢にしては…頭が痛くなってきた。
「俺の前世ってこと?」
「わからない。第二層の君の意思と前世の体を、魂が引き寄せたのかもしれない」
「なんでもいいから、なんとかしてくれ」
「できないよ。ボクにそんな力はないんだ。たぶん、カルマエギ様でも無理だと思う」
「カルマエギ?」
「魂の状態を正確に見通せる方さ。君の概念で言うなら、閻魔大王様ってところかな。とりあえず、君をあそこへ連れて行くよ。放置しておくわけにはいかないから」
そう言うと、モルはぴょんと膝から飛び降りて、ついて来いとばかりに、二足歩行で歩き出した。
マジで頭が痛くなってきた。モルは小さな足でトコトコと歩いていく。
しかし、本当に最悪な夢だな。目覚めるのは諦めるか。そう思えば楽になるかも。
起きたらぜんぶ夢だったっていうお決まりのパターンだろう。意味不明に思考を切り替えて俺も歩き出す。
今度は閻魔大王か。さすがにタバコ吸ったら怒られるかな。
その衝撃で目が覚めたらいいな。ふとそう思ったとき、俺はまた笑っていた。




