怪異記録02 『騎士団であった怖い話』前編
ラッセルは、同じ時刻を三度書き直していた。
「細かすぎるんだ、あの堅物隊長は。結果が異常なしなら、それで十分だろうが」
机に放られた筆の先から、黒い雫が落ちた。
おそらくプレデリカ隊長のことだろう──とリアは思った。
ラッセルが昼に提出した巡回報告は、赤い修正線を幾つも引かれて戻ってきていた。
到着時刻、同行者、現場を確認した者の名。
ラッセルが野犬を追い払ったくだりだけは詳しく、それ以外が足りない。
最初の用紙には「日没前」としかなかった。
二枚目には鐘の回数が加えられたが、それが到着時刻か帰還時刻か分からない。
金色の髪を後ろでまとめたリアは、ラッセルの向かいで夜勤記録簿を開いていた。
机の向こう、ラッセルの前には三枚目の修正用紙が置かれていた。
「俺様が現場へ着き、俺様が野犬を追い払い、住民に被害はなかった。これ以上、何を書く必要がある」
「到着時刻と、同行した騎士の確認結果が必要です。被害がなかったことを誰が確かめたのかも、記録しないといけません」
「読めば分かる」
「書いてなければ、分からない」
壁際から声がした。
淡い灰銀の髪をしたノエラが、椅子に腰掛けていた。
その足元では、黒猫が当然のように丸くなっている。
「ノエラ、おまえまで同じことを言うのか」
「正しい事を言っているだけ」
ノエラは机へ目を戻した。
「何も起きなかったことを残すのも、夜勤の仕事ですよ」
リアが告げると、ラッセルは鼻を鳴らして筆を取り直した。
夜の騎士団本部には、訓練場の剣戟も、廊下を行き交う鎧の音もなかった。
魔法灯だけが低く鳴る中、規則正しい靴音が近づいてきた。
扉を開けたのは、巡回に出ていた黒髪の騎士クランだった。
彼は外套を外すより先に、結果を告げた。
「西棟、記録庫前、居住区側。異常なし」
「確認した時刻は?」
「二の鐘から四半刻後」
リアは経路と時刻を書き込んだ。
「そんなものまで記録するのか」
「後で何か起きた時、どの時点まで異常がなかったのか分かります」
「何も起きなければ、紙を一枚汚すだけだ」
ラッセルは修正用紙に筆を走らせながら、クランを見た。
「平民クランは律儀なものだな。歩いた時刻まで覚えて戻ってくるとは」
クランは答えず、暗色の外套を壁の鉤に掛けた。
それと同時に、居住区側の廊下に、小さな人影が現れた。
「くらん……」
白い髪の少女が、扉の陰から室内をのぞいていた。
以前クランに保護され、今は一時的に騎士団本部で生活しているアリシアだった。
寝間着の上に薄い上着を羽織り、乱れた髪を片手で押さえている。
アリシアは最初にクランを探し、彼が室内にいることを確かめると、リアのもとへ駆け寄った。
「眠れないのですか?」
「こわいゆめ、みた」
リアが隣に椅子を寄せると、アリシアはそこへ座った。
身体をリアに寄せたまま、何度もクランを振り返る。
クランが頷いた。
「もう、怖い夢は終わった」
今から一人で暗い廊下を歩かせるより、しばらく当直室にいさせた方がいい。
「夜勤の部屋に子どもまで集めて、何をする気だ」
ラッセルは筆を動かしたまま言った。
「落ち着くまで、ここにいるだけです」
「結局、夜勤というのは紙と睨み合い、朝が来るのを待つ仕事か」
ノエラが顔を上げた。
「前に、夜勤報告書の妙な話を聞いたことがある」
ラッセルの筆先が紙から離れた。
「何の話だ?」
「古い詰所で、夜勤が始まる前に、その夜の報告書が提出されていた」
「始まる前に提出されるわけがない」
「見つけた当直者たちも、日付か時刻の書き違いだと思った」
昔、騎士団の古い詰所で、三人の騎士が夜勤に入った。
勤務開始時の手順に従い、提出棚と未処理の書類を確認した。
その中に、一枚の夜勤報告書が紛れていた。
記されていた日付は、その夜。
作成時刻の欄には、まだ来ていない夜勤終了予定の時刻が書かれていた。
作成者欄、提出者欄、確認者欄には、当直に入った三人の名が一人ずつ記されていた。
受領印の日付も夜勤終了後だった。
「誰かの悪戯だろう」
「最初は、彼らもそう考えた」
本文欄には、一文だけあった。
「燭台の火が消えた」
当直室の燭台には、まだ火がともっていた。
三人は窓と扉をしっかり閉め、火の前から離れないことにした。
しばらく何も起きなかった。
火を確かめようと身を寄せた騎士の外套に炎が移った。
騎士が裾を叩いた。
その腕が燭台に当たり、火は床へ落ちた。
踏みつけた靴の下から、細い煙が上がった。
「報告書には、外套が燃えたとは?」
リアが尋ねた。
「書かれてなかった」
もともと報告書にあったのは、燭台の火が消えたという一文だけだった。
「偶然だ」
「一度なら」
しかし、彼らがもう一度報告書を見ると「水差しが倒れた」という一文が増えていた。
困惑しながらも、三人は水差しに蓋をし、壁際の低い台へ移した。
誰も近づかないよう、周囲には椅子を並べた。
離れた机でインク壺が倒れた。
床へ広がったインクを拭くため、騎士の一人が囲いの椅子を退けた。
椅子の脚が低い台に当たった。
蓋を閉じた水差しが横倒しになった。
水はこぼれなかった。
ラッセルが当直室の隅に置かれた水差しへ顔を向けた。
ノエラは話を続ける。
「廊下で鎧の音がした」
間もなく、詰所の廊下に重い金属音が響いた。
予備の鎧が保管具から落ちていた。
周囲に人影はなく、侵入の痕跡も見つからなかった。
当直騎士の一人は、固定具の不具合による落下だと判断した。
報告書の余白に確認結果を記した。
「廊下にて予備鎧の落下を確認。周辺に人影および侵入の痕跡なし。固定具の不具合によるものと判断。ほかに不審な点なし」
書き終えた直後、その下に新しい一文が現れた。
「当直騎士は、報告書へ事実ではない内容を追記した」
「固定具に不具合はなかったのか?」
クランが尋ねた。
「翌朝、固定具には破損も緩みも見つからなかった」
いよいよ当直騎士たちは理解できなくなった。
三人は報告書を破いた。
次の頁には、破いた者の名が記された。
火に入れると、別の用紙に火へ入れた者の名が現れた。
廊下へ捨てても、当直室へ戻ると机上に続きが置かれていた。
抵抗するたび、記録は増えた。
「最初から全部、用意されていたんじゃないのか」
ラッセルが言った。
「その可能性も疑った」
「なら、誰かの悪戯だ」
「最後の頁だけは、きれいだった」
焦げ跡も裂け目もなかった。
作成者欄、提出者欄、確認者欄には、三人の名が一人ずつ記されていた。
受領印も押されていた。
残された本文は一行だけだった。
「夜勤は、異常なく終了した」
翌朝、その報告書は提出棚から見つかった。
規定どおりに綴じられ、処理済みの印もあった。
「当直の騎士たちは?」
リアが尋ねた。
「見つからなかった」
「逃げたんだ」
「装備も私物も、全部残っていた」
「別の任務に出たんだろ」
「出動記録はなかった」
「その記録自体がでたらめなんじゃないか?」
「かもしれない」
ノエラは、それ以上言葉を足さなかった。
魔法灯の低い音が、当直室へ戻ってきた。
「りあ、こわい……」
「こわいですね……」
リアはアリシアの手を包んだ。
「でも、私はここにいます。クランもいます。アリシアを一人にはしません」
アリシアがクランを見上げた。
「いる」
クランが頷くと、少女の肩から力が抜けた。
「まったく、くだらん」
ラッセルは椅子の背に身体を預けた。
「誰が作ったとも分からない話で騎士を脅すつもりか。紙切れに、人の行動を決める権限などない」
当直室へ響くほど大きく笑った。
アリシアの肩が跳ねた。
「娘、怖がるな。そんな報告書があるなら、俺様が目の前で間違いだと証明してやる」
笑い声が途切れた。
リアは、小さく息を吐くと机へ目を戻した。
夜勤記録簿の脇に、用紙が一枚置いてある。
そこには、先程まで何もなかったはずだ。
リアは記録簿へ目を落とし、もう一度、同じ場所を確かめた。
用紙は、やはり残っていた。
「クラン」
リアはアリシアの手を包んだまま、名を呼んだ。
クランは机の手前で足を止めた。
ラッセルも修正の手を止め、ノエラは壁際から夜勤記録簿の脇へ顔を向けた。
「誰の報告書だ」
「分かりません」
用紙上部には、所定の文書名が記されていた。
作成者欄、提出者欄、確認者欄は空白。受領印もない。
日付は今夜。
作成時刻は、夜勤開始の半刻前だった。
「最初から置いてあったんじゃないのか」
「ここには夜勤記録簿しかありませんでした」
クランが紙の端へ手を伸ばし、途中で止めた。
リアが頷いた。
クランは端だけをつまみ、裏と重なりを確かめた。
「裏は白紙。二枚目もない。インクは乾いている」
「誰かが廊下から入り、置いたんだ」
ラッセルが言った。
「扉はずっと見えていた」
ノエラが答えた。
クランは窓の掛け金と室内を確かめた。
「誰もいない」
「ノエラ、おまえの悪戯じゃないだろうな」
「違う」
「クランは?」
「俺も知らない」
文字は、室内にいる四人の騎士の筆跡とは違っていた。
本文欄には三行あった。
【夜勤報告書】
――アリシアは、リアに怖いと訴えた。
――リアは、自分も怖いと答えた。
――ラッセルは大声で笑った。
リアが三行を読み上げると、ラッセルが紙面をのぞき込んだ。
「俺たちの会話を聞いてから書いたんだ」
「ですが、インクは乾いています」
「仕掛けだ。後から文字が浮かぶ薬品でも使った」
「誰が、いつ仕掛けた」
クランの問いに、返事はなかった。
リアは用紙を発見した時刻を記録しようと、空いている手を筆へ伸ばした。
その手は、筆に届く前に止まった。
三行目の下に、黒い点が浮いていた。
「リア」
ノエラが名を呼んだ。
点が線になった。
誰の筆も触れていない白い欄で、線が折れ、つながり、文字を作っていった。
筆は机の端にあり、クランの両手も紙から離れていた。
――ラッセルは、もう一度笑った。
アリシアの指に力が入った。
ラッセルが身を引き、椅子の脚が床を擦った。
「……何だ、これは」
「文字が増えた」
ノエラは新しい一行から目を離さなかった。
クランの手が動き、紙の手前で止まった。
「誰も触るな」
浮かんだばかりの一行は、すでに乾いていた。
ラッセルは立ったまま、紙を見ていた。
椅子に座り直し、腕を組んだ。
「笑わなければいい」
声は低かった。
「それだけだ」
クランは机と出入口の間に立った。
黒猫がノエラの足元を離れ、音もなく机の脚のそばまで歩いてきた。
そこで尾を巻いて座った。
砂時計の上部に残っていた砂が、半ばまで減った。
新しい文字は現れなかった。
ラッセルの指が革の籠手を叩いていた。
こつ。
間を置き、もう一度。
こつ。
同じ間隔で音が続いた。
「このまま待ちましょう」
「いつまでだ」
「朝まで待てるなら、それが一番です」
「朝まで黙っていろと?」
「今は、笑わないでください」
籠手を叩く音が止んだ。
「俺様が紙に黙らされたままか、グローリー卿」
「勝ち負けの話ではありません」
「俺様にとっては同じだ」
ラッセルは報告書から目を上げ、リアを見た。
「はっ」
短く乾いた音だった。
ラッセルはすぐに、増えた一行を確かめた。
変化はなかった。
口元に笑みを作った。
「見たか。俺様は自分の意思で笑っただけだ」
「ラッセル」
クランの声が言葉を切った。
用紙の下部に、黒い点が浮いていた。
黒い線が文字になる間、誰も動かなかった。
――ラッセルは、三度目には笑わなかった。
ラッセルの笑みが消えた。
「なら、もう一度だ!」
椅子を押して立ち上がった。
報告書を見下ろし、口を開いた。
声が出る前に、その下に黒い点が浮かんだ。
最初にリアの名。
続いて、アリシアの名。
文章が完成した。
――リアは、アリシアの手を離した。
つないだ手は、まだそこにある。
黒猫が低く唸った。
紙は机上に平らなまま、その真下から細い影だけが床へ伸びていた。
リアはアリシアの手を握り直した。
ラッセルは、三度目には笑わなかった。
「リアは、アリシアの手を離した」
その一文だけが、まだ現実になっていない。
ならば、手を離さなければいい。
本当に、それだけで済むのでしょうか。
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後編へ続きます。




