怪異記録04 『蝉が止んだ午後【後編】』
何かを引きずった跡は、森の奥へ続いていた。
浅い窪地の土を削り、低い草を倒し、木々の間へ消えている。
折れた枝には、ラッセルの外套から裂けた赤い布がまだ残っていた。
森の奥から、もう一度だけ声がした。
「クラン!」
いつものように大きい。
距離だけが分からなかった。
クランは返事をせず、跡の先を見た。
「追いますか」
シャルロットが静かに問う。
「このままでは危険です」
答えながら、クランは足元の土へ視線を落とした。
引きずられた跡は新しい。
途中で途切れてもいない。
「ですが、まだ追えます」
「私も同じ考えです」
シャルロットは森を見た。
「しかし一度、村まで戻りましょう。必要な装備と携行品を整えて、救助を再開します」
討伐する、とは言わなかった。
ノエラが黒猫を抱き直す。
「日が落ちる」
「ああ」
林の向こうは、もう夕方の色になっていた。
三人は引きずり跡の位置を確かめ、目印になる木を覚えてから森を出た。
背を向けても、森の奥から追ってくる声はなかった。
そのことが、かえってクランには気になった。
呼ぶ必要がなくなったのか。
それとも、こちらが戻ることまで含めて待っているのか。
答えは出さない。
今は、ラッセルが生きている可能性がある。
それだけで戻る理由になる。
◇
村へ戻っても、休む時間はほとんど取らなかった。
長い縄。腰につなぐ短い縄。小刀。ランタン。水と包帯。
それから、救助した者を支えるための予備の縄。
クランは長い縄を手に取り、端から端まで指を滑らせた。
傷んでいない。
湿ってもいない。
結び目もほどけていない。
腰につなぐ短い縄は三本。予備はまとめて背負う。
森の中で目を閉じることになれば、道は見えなくなる。
縄は怪異を退けない。
ただ、帰る方向と、自分たちがどこまで進んだかだけは失わずに済む。
昼間の森では、目を閉じたまま動くことなど考えていなかった。
今は、動かなければならない場合まで考えておく。
シャルロットが水筒の栓を確かめる。
村の者たちは遠巻きに見ていた。
誰も森へ同行すると言わない。
それを責める者もいなかった。
ここで暮らしてきた者たちは、森へ入らないことで生き延びている。
騎士が来たからといって、そのやり方まで否定する理由はない。
「戻れるうちに戻る。それは変わりません」
「はい」
「ですが、生きている人がいるなら連れて帰ります」
クランは短くうなずいた。
「俺もそう思います」
ノエラは何も言わなかった。
腕の中の黒猫だけが耳を森へ向けていた。
日が沈んだ。
村の家々に灯りがともる。
それなのに、北の森では蝉が鳴いていた。
昼よりも近く聞こえた。
暗い木々の向こうから、じりじりと夏の音だけが押し寄せてくる。
空はもう夜なのに、耳だけが真昼へ取り残されている。
クランが先頭に立った。
長い縄の端を森の入口へ固定し、木々の間を通しながら進む。
三人はそれぞれ、腰につないだ短い縄の先を輪にして長い縄へ通した。
クランは一度、自分の腰を引いた。
短い縄が長い縄へ当たり、確かな抵抗が返る。
シャルロットも同じように確かめる。
ノエラの位置で金具が小さく鳴った。
「問題ありません」
「こっちも」
それだけ確認して、森へ入った。
ランタンの光は狭い。
照らされた幹だけが黄色く浮かび、その先はすぐ黒くなる。
光を高く掲げても、枝の重なりに吸われて数歩先までしか届かない。
昼間についた靴跡。
折れた枝。
引きずられた土。
ところどころに残る赤い糸。
クランはそれだけを追った。
長い縄を一本の木へ回す。
次の木へ進む。
たるみを取り、戻る側へ余裕を残す。
木の根が盛り上がった場所では足で確かめてから進んだ。
ぬかるみでは縄を低い枝へ掛け替えた。
目印を増やしているのではない。
戻るための手掛かりを、手で触れられる形にしているだけだった。
後ろから、シャルロットの鎧が小さく鳴った。
さらに後ろにはノエラ。黒猫は鳴かない。
一度、クランは立ち止まった。
背後の二人も止まる。
聞こえるのは、三人の呼吸と蝉だけだった。
昼間なら、鳥や小さな獣の気配が混じっていた。
今はそれがない。
何もいないと断定できるわけではない。
ただ、耳へ届くものの大半が蝉に塗り潰されている。
クランは再び歩き出した。
森の奥へ入るほど、蝉の声は増えた。
夜なのに。
暗いのに。
頭上には星さえほとんど見えないのに。
蝉だけが、真昼のように鳴き続けていた。
◇
引きずり跡が終わった場所に、大きな木があった。
クランは足を止めた。
幹は三人で囲んでも届かないほど太い。
根元から伸びた枝の間に、白いものが四つ並んでいた。
人の形をしている。
ランタンを高くしたシャルロットが、息を浅く吸った。
「……四人」
白い膜の内側に、人間がいた。
ランタンの火が揺れるたび、薄い表面に人の輪郭が浮かんでは消える。
殻のように乾いて見える場所もあれば、布のようにたわむ場所もある。
木へ接している背側だけが厚く、腕や脚の位置では膜が幾重にも重なっていた。
一人目は若い男だった。
昼に聞いた失踪者の服装と合う。
その隣には年配の男。
顔立ちが若い男と似ている。
三人目は猟師だった。
腰の革袋と、片方だけ残った手袋に見覚えがある。
誰も声を上げない。
四つとも胸の辺りが、ごくわずかに動いているように見えた。
けれど、ランタンの揺れかもしれない。
若い男の頬には土が残っていた。
年配の男の袖は途中で裂けている。
猟師の靴には乾いた泥がこびりついていた。
作られた人形を見ている感じではなかった。
それでも、目で見えるものだけでは足りない。
そして四人目。
膜の内側に、赤い布が見えた。
「ラッセル」
クランは近づいた。
返事を求めなかった。
繭は木の幹へ貼りつくように固定されていた。
表面は薄く、乾いた皮のように白い。
ところどころに継ぎ目があり、その隙間から服や皮膚がわずかに見えている。
足元には白い欠片が散っている。
踏めば簡単に割れそうな薄さだった。
クランはそれには触れなかった。
必要なのは、何でできているかではない。
中にいる人間が生きているかどうかだった。
クランはラッセルの胸元へ手を当てた。
白い膜は冷たかった。
その奥に、熱がある。
指の腹へ、内側から押し返すような温度が伝わってくる。
しばらく触れていると、ゆっくりと胸が持ち上がった。
落ちる。
また持ち上がる。
呼吸している。
クランは継ぎ目を探した。
右手首が少しだけ外へ出ていた。
生身の皮膚へ指を当てる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
脈がある。
「生きてます」
「ほかの三人も確認します」
シャルロットが若い男の方へ移る。
ノエラは父親と猟師を見比べ、猫を片腕へ寄せたまま近づいた。
クランはラッセルの顔へ目を戻した。
目は閉じている。
額には汗が浮いていた。
それを見ただけで、胸の奥に張っていたものがわずかに緩んだ。
声ではない。
温かい。
息をしている。
脈がある。
ここにいる。
「全員、生きています」
シャルロットの声がした。
ノエラも短く言う。
「こっちも」
助け出せる。
その可能性が、初めて目の前の形になった。
クランは四つの繭の位置を見直した。
ラッセルが最も入口側。
若い男はその左。
父親は木の裏へ少し回り込んだ位置。
猟師はさらに奥。
一度目を閉じれば、この配置も見えなくなる。
クランは足の位置を変えず、腰の小刀へ手を掛けた。
その時。
蝉が止んだ。
◇
目を閉じる。
誰かに言われるより早かった。
瞼を閉じた瞬間、ランタンの赤い残像だけが暗がりに浮かんだ。
それもすぐ消える。
さっきまで頭上を埋めていた音だけが、きれいになくなった。
風はある。
葉は擦れている。
近くで誰かが息を吸う。
革がきしむ。
クランの左手の下には、ラッセルの肩があった。
温かい。
指先を少しずらせば、首元から呼吸の動きが伝わる。
手首には、さっき確かめた脈がある。
動かなければ安全なのかもしれない。
少なくとも、村の者たちはそうして生き延びてきた。
けれど。
手の下にいる男を、このまま置いてはいけない。
「騎士長」
「はい」
「……動きます」
間は短かった。
「続けます」
シャルロットの声も静かだった。
クランは右手で繭の継ぎ目を探した。
目を閉じる直前に見た位置を思い出す。
肩。
胸。
右手首。
指先で隙間を確かめてから、右腰の小刀を抜く。
刃先を膜と身体の間へ入れないよう、外側から少しずつ裂く。
一度に長く切らない。
指で隙間を作る。
刃を入れる。
また指で確かめる。
見えない以上、速さよりも確実さを取る。
乾いた音がした。
薄い膜が指にまとわりつく。
右側でも、何かが裂ける音。
シャルロットも動いたらしい。
クランは見ない。
見えない。
ラッセルの肩へ置いた左手は離さなかった。
触れていれば、そこにいることが分かる。
膜を肩から胸へ開く。
空気が入った。
ラッセルが大きく息を吸った。
「……っ」
声にならない息が喉から漏れる。
「立てるか」
クランは小刀を鞘へ戻した。左手はラッセルの肩から離さない。
返事は待たない。
右腕をラッセルの背へ回し、身体を支える。
重い。
自分の足で立とうとする力も返ってきた。
それで十分だった。
左の奥から声がした。
「クラン、こっちです」
シャルロットの声。
同時に、もっと近いところから別の声。
「そこじゃない」
自分の声だった。
クランはどちらにも答えない。
腰の短い縄を手繰り、長い縄の張りを確かめる。
帰る方向は分かる。
その反対側で、膜の裂ける音がした。
乾いたものが足首へ触れた。
細く硬い。
すぐ離れた。
クランは蹴らない。
何だったのかを確かめるために足を動かせば、その動き自体が次の危険になるかもしれない。
代わりに、立っている地面だけを足裏で確かめる。
土は固い。
大きな段差はない。
ラッセルの腕を自分の肩へ掛け直す。
「歩けるか」
「……歩ける」
今度は、肩越しに息が触れた。
身体の重みも動いた。
声だけではない。
クランは一歩進んだ。
靴底が土へ沈む。
その深さを確かめてから、もう片方の足を出す。
長い縄が手の中で滑る。
右へ張る。
木を一つ回った場所だ。
指で縄を追い、身体を半歩寄せる。
後ろから、短く膜の割れる音。
誰かが咳き込んだ。
その直後、四方から声が増えた。
「待ってください」
「右だ」
「こっち」
「助けてくれ」
「クラン」
どれも近い。
遠いものもある。
誰の声か考えない。
声は近くても、触れられない。
縄。
肩に掛かるラッセルの腕。
手のひらへ伝わる体温。
足裏の土。
それだけを追う。
「クラン」
今度の声で、足が止まりかけた。
リアだった。
呼ぶ時の高さも、間も、聞き慣れたものと違わない。
「私の手を取ってください」
すぐそばから聞こえた。
クランはラッセルの肩から手を離さなかった。
一歩。
縄を手繰る。
もう一歩。
後ろで鎧が小さく鳴り、続いて誰かの荒い呼吸が近づいた。
左の方で、膜が続けて二度裂ける。
一度目より短い。
二度目は途中で止まった。
次に、誰かの靴が土を滑る。
クランは振り向かない。
長い縄に伝わる震えを待つ。
すぐに、二度だけ引かれた。
まだ作業は続いている。
別の方向から猫の声がした。
「なー」
少し離れた右。
次は左。
「なー」
さらに奥。
「なー」
短い沈黙のあと、クランの後ろ近くで小さな声。
「なー」
布が擦れた。
ノエラが息を吐く。
腕の中で猫が身じろぎしたらしい。
爪が布をわずかに引っかく音と、低い呼吸が重なった。
「……今のは、この子」
それ以上は言わなかった。
猫の声はまだ別の木々の間から聞こえている。
誰もそちらへ向かわない。
クランは長い縄を握る。
足元で、何かがぱきりと割れた。
乾いた殻のような感触が靴底へ残る。
前へ。
後ろから、シャルロットの声。
「一人、出ました」
返事はしない。
直後、肩の後ろへ指が二度触れた。
事前に決めた合図だった。
クランはラッセルを少し横へ寄せ、長い縄へ手を添えさせる。
ラッセルの指が縄をつかむ。
「離すな」
「……俺様に、命令するな」
息は弱い。
それでもラッセルだった。
クランの口元がほんの少し緩んだ。
すぐに次の繭へ手を伸ばす。
触れたのは、ざらついた服。
その奥に細い腕。
若い男だった。
呼吸を確かめる。
生きている。
膜の継ぎ目を指でたどり、小刀を入れる。
また声がする。
自分の声。
シャルロット。
ノエラ。
知らない年配の男。
ラッセル。
短い言葉が重なっては消える。
クランは聞き分けようとしなかった。
膜を裂く。
腕をつかむ。
身体を起こす。
長い縄へ触れさせる。
それを繰り返した。
途中、指先へ乾いたものが絡みついた。
細いものが二、三本。
節のある硬い感触。
振り払わず、手首を返して外す。
近くで殻がいくつも崩れる。
ぱらぱらと土へ落ちる音。
その中に、一度だけ人の足音に似た重い音が混じった。
すぐ近い。
クランは止まる。
ラッセルの息。
長い縄の張り。
シャルロットの鎧が触れ合う小さな音。
そこに変化がないことを確かめてから、また手を動かす。
目は開けない。
父親の身体は重かった。
足に力が入らない。
立たせようとすると、膝が崩れた。
クランは一度しゃがみ、足の位置を触って確かめる。
無理に歩かせれば倒れる。
肩を貸すと、反対側からシャルロットの腕が入ったのが分かった。
言葉はない。
二人で身体を起こし、長い縄まで運ぶ。
最後の猟師は、自分で立とうとした。
膝が一度落ちる。
ラッセルが近くから手を伸ばしたらしい。
「こっちだ」
低い声と、鎧同士の軽い接触音。
猟師の重みがそちらへ移る。
四人。
全員、縄へつながった。
若い男の息は浅い。
父親はほとんど言葉を発しない。
猟師は自分で縄を握っている。
ラッセルは何度か深く息を吸い、立ち続けていた。
クランは手の中の長い縄を確かめた。
「戻ります」
シャルロットの声。
誰も返事をしなかった。
けれど縄が、順に張った。
一人ずつ。
帰る方角へ。
◇
目を閉じたまま、森を戻った。
クランが先頭。
長い縄を手の中で滑らせる。
見えない森では、距離が普段より長く感じられた。
昼に通ったはずの根を踏む。
覚えていた位置より少し早い。
次の木で縄が左へ回る。
クランは立ち止まり、手で幹の粗い樹皮を確かめた。
ここも通った。
見えていないからこそ、ひとつずつ確かめる。
後ろには六人分の足音が続いていた。
そろってはいない。
弱い足取り。
引きずる靴。
鎧。
荒い呼吸。
途中で一つの足音が止まれば、縄の張り方が変わる。
一度、後ろが大きくたるんだ。
クランも止まる。
誰かが身体を支える音。
土を踏み直す音。
息を整える音。
少しして、縄がまた張った。
それでいい。
同じである必要はなかった。
どこか遠くで声がした。
もう追わなかった。
やがて。
一匹の蝉が鳴いた。
クランは足を止める。
後ろの縄も順に止まった。
別の木から、もう一匹。
少し間を置いて、三匹目。
森の上から、夏の音が戻ってくる。
それでも目は開けない。
風と葉音、その向こうに続く仲間たちの呼吸を確かめてから、クランはゆっくり目を開けた。
ランタンの明かりが見えた。
最初にシャルロット。
片側で父親の身体を支えている。
少し後ろにノエラ。
黒猫は外套へ爪を掛け、肩近くまで上がっていた。
ノエラの空いた腕が若い男を支えている。
ラッセルは猟師の横に立ち、片腕を貸していた。
全員いる。
若い男の顔色は悪い。
父親もまだ自力では立ち続けられない。
それでも、四人とも自分の足で森の外へ向こうとしている。
クランは一人ずつ確認してから、また縄を握った。
ここで急ぐ理由はない。
蝉は戻っている。
道も縄も残っている。
確実に連れて帰る方がいい。
「戻りましょう」
シャルロットが言う。
「はい」
今度は返事をした。
森の外まで、もう遠くなかった。
木々の間に、村の灯りが見え始める。
それまで胸の奥へ押し込めていた息を、誰かが長く吐いた。
クランはまだ足を速めなかった。
入口へ結んだ縄の端へ触れるまで、同じ歩幅で進んだ。
最後の木を回る。
縄の端。
森の外だ。
そこで初めて、全員の足音がばらけた。
◇
村へ戻るころには、蝉の声はいつもの夏に近づいていた。
森を出た瞬間、クランは一度だけ振り返った。
暗い木々の間に、何かが立っているようには見えない。
白い殻も追ってこない。
ただ、蝉が鳴いている。
それ以上は確かめなかった。
助け出された四人には水が渡され、傷と呼吸が確かめられた。
誰かが「何があった」と尋ねかけたが、シャルロットが手で制した。
「今は休ませてください」
それだけで話は終わった。
父親と若い男はひどく消耗していたが、意識は戻った。
猟師も座って休める程度には持ち直している。
ラッセルは地面へ座り込み、水筒を傾けた。
「大丈夫か」
クランが聞く。
ラッセルは水を飲み終え、しばらく黙っていた。
「……ひどい目に遭った」
「そうか」
「もう少し何か言え!」
声はまだ弱かった。
だが、その言い方だけはいつものラッセルだった。
ノエラが黒猫の背を撫でる。
「元気」
「俺様もだ!」
「声、大きい」
「騎士たるもの、生還した時こそ――」
「ラッセル」
シャルロットが穏やかに呼ぶ。
「休んでください」
「……はい」
それ以上は続かなかった。
少し離れたところで、若い男が父親の名を呼んだ。
年配の男が目を開け、かすかに返す。
猟師も水筒を受け取り、自分で持った。
四人とも、ここにいる。
クランはそこでようやく肩の力を抜いた。
シャルロットは北の森を振り返る。
「夜が明けるまで、誰も森へ入れないようにします。明朝、封鎖を確認します」
怪異を倒したとは言わなかった。
クランも森を見た。
蝉は鳴いていた。
それだけを確かめ、村の中へ戻った。
◇
翌朝。
アステ村の北端には、昨夜張った縄と新しい支柱が残っていた。
森では、朝から蝉が鳴いている。
クランは一人、入口の結び目を確かめた。
シャルロットたちは少し離れた村側にいる。
支柱。
縄。
足元。
異常はない。
蝉が止んだ。
クランは即座に目を閉じた。
動かない。
返事もしない。
風が頬を通る。
葉が一度だけ鳴った。
自分の呼吸が聞こえる。
待つ。
やがて、一匹の蝉が鳴いた。
別の木でも鳴く。
夏の音が戻ってくる。
まだ開けない。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
風。
葉。
遠くの村の気配。
クランは自分で確かめてから、目を開けた。
支柱に、白い蝉の抜け殻が一つ付いていた。
目を閉じる前にはなかった。
頭部の正面に、浅い窪みが二つ並んでいる。
まだ、目と呼べるほどではない。
クランは触らなかった。
その方向から、リアの声がした。
「今度は、開けましたね」
夏の蝉は、鳴いている間よりも、鳴かなくなった時の方が気になるものかもしれません。
あれほど騒がしかったはずなのに、消えてしまえば、それまでそこに音があったことを急に意識する。
『蝉が止んだ午後』は、そんな夏の感覚の中へ置いておきたい怪異記録です。
次に暑い午後を歩く時、どこかで鳴いている蝉の声が、いつもよりほんの少しだけ耳に残ったなら。
この物語を思い出してもらえたら嬉しいです。




