それでも書く理由
部屋の中は相変わらず散らかっていた。
コピー用紙。
赤字の原稿。
冷めたコーヒー。
返信しきれていない通知。
母からの手紙。
開きっぱなしの文書ファイル。
何もかもが途中だった。
きれいに整っていない。
完成していない。
余裕なんてどこにもない。
それでも、この部屋には確かに「続いてきた時間」がある。
衝動だけで始めたものを、衝動だけでは終わらせなかった痕跡が、そこら中に染みついている。
榊恒一はゆっくりと椅子に座り直した。
机の上のノートパソコン。
点滅するカーソル。
その先へ続くはずの空白。
さっきまで考えていたことが、まだ胸の中で沈殿している。
才能の前で、人は何を捨てるのか。
時間。
安定。
家族との距離。
友人付き合い。
そして、“自分は特別かもしれない”という甘い幻想。
どれも軽くない。
むしろ、人によっては夢そのものより大事なものだ。
それでもこの未来の自分は、そこまでしてなお書いている。
なぜだ。
「……そこなんだよな」
ぽつりと漏らす。
才能があると確信できたからではない。
評価され続けて気分がいいからでもない。
生活が安定しているからでもない。
むしろ逆だ。
不安定で、削れて、比べて、たまに自分が空っぽに思えて、それでもやめていない。
ならば理由はもっと別の場所にあるはずだった。
◇
視線が、机の上の小さなUSBメモリに止まる。
何気なく差し込むと、フォルダがいくつか表示された。
没案
短編
受賞用
供養
読者保存
「読者保存……?」
少しだけ首を傾げて、そのフォルダを開く。
中にはスクリーンショット画像が大量に保存されていた。
投稿サイトの感想欄。
SNSの引用投稿。
メッセージ。
レビュー。
最初の画像を開いた瞬間、恒一は息を止めた。
『会社辞めたくて毎日しんどかった時、この作品読んで少しだけ明日まで生きようと思えました』
二枚目。
『主人公の情けなさが自分みたいで苦しかったです。でも最後の台詞で救われました』
三枚目。
『父が亡くなったあと何も読めなかったのに、この話だけは最後まで読めました』
四枚目。
『自分の選択をずっと後悔してたけど、この作品読んで少し考え方変わりました』
「……あ」
声が掠れた。
ただ読まれているだけじゃない。
届いている。
数字の向こうに、確かに生活がある。
名前も顔も知らない誰かの、どうにもならない夜がある。
その夜へ、この未来の自分の書いた言葉が届いている。
羨ましいとか、すごいとか、そういう感情より先に、圧倒された。
現実の自分は、物語を書きたいと思っていた。
でもたぶん、その先にこんな景色があることまではちゃんと想像していなかった。
自分の言葉が誰かの人生の真ん中に入ってしまうこと。
救うなんて大袈裟な言葉じゃなくても、確かにその日の呼吸を少しだけ変えてしまうこと。
それは、責任でもある。
重さでもある。
でも同時に、続ける理由にもなる。
次の画像を開く。
『更新止まってる間、何回も読み返してました。待ってます。』
次。
『正直、最近苦しそうな文章だなと思うこともあります。でも、それでも好きです。』
その一文が、胸の深い場所に刺さった。
苦しそうな文章。
たぶん読者にも分かるのだ。
この未来の自分が削れながら書いていることが。
それでも好きです。
それは簡単な励ましより、ずっと重かった。
◇
恒一はUSBメモリを握ったまま、しばらく動けなかった。
なるほど、と思う。
この未来の自分は、ランキングや数字だけのために書いているわけではない。
いや、数字に傷つき、振り回されてもいる。
でも、それだけではここまで続かない。
誰かが読んでしまった。
誰かが待ってしまった。
誰かが、そこへ自分を重ねてしまった。
その事実がある限り、ただ「もう無理です」と全部投げることが、自分だけの問題ではなくなってしまう。
もちろん、読者のために書け、という綺麗事ではない。
そんな単純なものでもないだろう。
けれど、書いた言葉が誰かの中に入った瞬間、その作品はもう自分だけのものではなくなる。
だから苦しい。
だから逃げにくい。
でも、だからこそ書く意味も生まれる。
「……そういうことか」
ようやく、小さく呟く。
それでも書く理由。
それはきっと、“自分が書きたいから”と“誰かに届いてしまったから”の両方なのだ。
どちらか片方では足りない。
好きだけでは潰れる。
義務だけでも壊れる。
その間の、曖昧で不格好な場所に、この未来の自分は立っている。
◇
ふと、机の下に古びた録音機のようなものが転がっているのに気づく。
小型のボイスレコーダーだった。
再生ボタンを押すと、少しノイズの混じった声が流れ出す。
『……今日、全然書けない。
何も出てこない。
いや、出てこないっていうより、出てくる言葉全部が薄く見える。
たぶん疲れてる。たぶん比べすぎてる。
でも、ここで止まったら、自分の中で終わる気がする』
自分の声だった。
少し低くて、今の自分より疲れていて、それでもどこか冷静な声。
『昔は、書けるだけで楽しかった。
今は楽しいだけじゃ続かない。
でも、じゃあ義務だけで書いてるのかって言われると、それも違う。
なんで書いてるのか、たまに分からなくなる』
そこで一度、数秒の沈黙が入る。
そして、次の言葉が落ちてきた。
『でも、書かなかった日の方が、たぶん俺はもっとしんどい』
その一言に、恒一は固まった。
書かなかった日の方が、しんどい。
ああ、と胸の奥が静かに震える。
それはたぶん、すごく本質的な言葉だ。
書けば苦しい。
比べる。削れる。届かない。
それでも、書かないでいると別の苦しさがくる。
何も進んでいない感覚。
自分が自分のまま止まって腐っていくような感覚。
だから書く。
前向きな情熱だけじゃない。
“書かないでいる自分に耐えられない”という切実さもまた、続ける理由になるのだ。
録音は続く。
『才能があるかは、まだ分からない。
たぶんこの先も、ずっと分からないかもしれない。
でも、分からないままやるしかない。
昔、終わる前に自分で決めるなって書いたけど、結局あれに戻る。
分からないなら、まだ途中ってことだ』
そこで録音は終わった。
部屋に静寂が戻る。
恒一は、しばらく何も言えなかった。
現実の自分は、ずっと“分からなさ”に耐えられなかった。
才能があるかもしれない。ないかもしれない。
その曖昧さの中にいる前に、自分で答えを出してしまった。
ない、と。
向いていない、と。
今さらやる年齢じゃない、と。
でもこの未来の自分は違う。
分からないまま、途中でいることを引き受けている。
それはとても弱くて、とても強い在り方だった。
◇
スマホが震える。
また澪だ。
画面を見つめるだけで、胸のどこかが反応する。
『夜遅いのにごめん』
『この前言ってたやつ、更新された?』
思わず、少しだけ笑ってしまう。
この未来の彼女は、読者なのだろうか。
少なくとも、作品を追っている。
そしてたぶん、創作に関わるこの未来の恒一の姿を、完全には分からなくても気にかけている。
メッセージは続く。
『無理してる時の文章、たまに分かるよ』
『ちゃんと寝なね』
胸が、きゅっと痛む。
どの分岐でも、彼女は自分の“無理”を見抜いてくる。
それが嬉しくて、苦しい。
第一観測では妻として。
今はきっと、近くて遠い存在として。
でもどちらにせよ、“見ている人”であることは変わらないのかもしれない。
現実の澪とも、今少しずつそういう関係になりかけている。
だから余計に、この未来の距離感が胸に刺さる。
「……ほんと、なんなんだよ」
誰に言うでもなく呟く。
恋愛の分岐でも、夢の分岐でも、彼女は消えない。
たぶんそれは、“特別だった”という事実が消えないからだろう。
分岐が変わっても、心のどこかに残る人はいる。
人生とはそういうものなのかもしれない。
◇
机の端に、大学ノート――昔のネタ帳がまだ開かれたままだった。
そこに書かれていた若い頃の字。
いつか本気で書く。
その言葉の上に、この未来の自分は赤ペンで一言だけ書き足していた。
遅かったけど、間に合った。
恒一は、その文字を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
遅かったけど、間に合った。
それは希望だ。
同時に、かなり痛い言葉でもある。
現実の自分にとっては、まだ間に合うのか。
もう遅いのか。
そんな問いが自然に浮かぶ。
だが、この未来の自分は少なくとも“遅い”ことを理由にはしなかった。
遅いまま始めた。
遅いまま苦しんだ。
遅いまま、それでも誰かに届くところまで来た。
その事実だけで、救われるような、責められるような気持ちになる。
白い文字が浮かぶ。
『観測時間:残り 00:48:52』
もう一時間を切っていた。
終わりが近い。
この先あと何を見るのか分からない。
でも、核心にはたどり着きつつある気がした。
この未来の自分は、特別だから書いているわけではない。
自信があるからでもない。
安定しているからでもない。
書かない自分に耐えられず、
書いた言葉が誰かに届いてしまったことを知っていて、
それでもまだ途中だから書く。
それが、今のところの答えだった。
◇
机に向き直る。
画面の下、書きかけの続き。
この未来の自分は、たぶん今夜中に改稿を返さなければいけない。
家族へも連絡した方がいい。
寝不足だし、疲れているし、全部が噛み合っていない。
それでもカーソルは点滅している。
書け、と。
あるいは、
まだ途中だ、と。
恒一はその光を見つめながら、静かに思う。
夢を諦めなかった未来は、
夢が叶う物語ではなかった。
それはむしろ、
叶うか分からないまま続けることを、自分の人生として引き受けた人間の物語だった。
そして、その引き受け方こそが、この未来の自分を今の自分とは別の場所へ連れてきたのだろう。
羨ましい。
でも、それだけじゃない。
尊いとも思う。
同時に、怖い。
もし現実の自分がこれから何かを書こうとした時、同じように傷つくのだろうか。
家族や人間関係や時間とのバランスに悩むのだろうか。
たぶん、そうだ。
でも、それでも。
それでもこの未来は、何も始めなかった自分よりずっと、“生きている”感じがした。




