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A  作者: コンティ
10/11

才能の前で、人は何を捨てるのか

 カーソルが点滅していた。


 ノートパソコンの画面の一番下。

 書きかけの文章の末尾で、規則正しく、無機質に。


 それはまるで、この未来の榊恒一が今もまだ“続き”の途中にいることを示していた。


 終わっていない。

 まだ完成していない。

 まだ評価も、答えも、決着も出ていない。


 なのに、ここまで来ている。


 諦めなかっただけで、人はこんな場所まで来られるのか。

 そう思った直後、恒一は自分でそれを打ち消した。


 違う。

 “諦めなかっただけ”じゃない。


 落ちても、削られても、数字に怯えても、家族との距離に痛んでも、それでも机へ戻ってきた結果だ。

 その積み重ねを、ただの根性論みたいに軽く言ってはいけない。


 恒一は、開きっぱなしの文書を少しスクロールした。


 文章を読む。

 頭の中に、まだ若かった頃の自分の憧れと、今この未来で机に向かっている自分の息苦しさが、同時に流れ込んでくる。


 正直、全部が上手いわけじゃない。

 言い回しがくどいところもある。

 説明が長い箇所もある。

 でも、刺さる一文がある。


 ああ、と思う。


 これはたぶん、“上手くなりたい人間”の文章だ。


 完成された天才のものではない。

 届かない何かへ何度も腕を伸ばして、失敗して、でもたまにほんの少しだけ届く、その繰り返しをしている人間の文章だ。


 その時、画面端に小さく開いていた別のウィンドウが目に入った。


 検索結果。

 そこには、いくつもの名前が並んでいる。


 同世代の人気作家。

 新人賞を取った同期。

 ランキング上位常連の書き手。

 レビュー数、発行部数、コミカライズ決定、ドラマ化、受賞歴――そんな文字が並んでいた。


「……ああ」


 声にならない納得が落ちる。


 比べているのだ。


 読者だけではない。

 編集者だけでもない。

 この未来の自分は、他人の成功を自分に突き立てながら書いている。


 たぶんそれは、創作に限らない。

 夢を続ける人間は、いつか必ず“自分より先に行く誰か”を見てしまう。

 そして、続ければ続けるほど問いが鋭くなる。


 努力しても届かないなら、それは才能の差なのではないか。


 その問いから逃げずにいられる人間が、どれだけいるだろう。


     ◇


 机の横に、小さなゴミ箱がある。

 その中に、丸めた紙がいくつも捨てられていた。


 何気なく一つ拾って広げる。


 殴り書きのように、短い文章だけが並んでいた。


 この展開、どこかで見た。

 言葉が弱い。

 また同じことを言ってる。

 本当に自分にしか書けないものって何だ。


 自分で自分を刺している。

 そうとしか思えなかった。


 編集者や読者の言葉よりも、ずっと容赦がない。

 創作を続ける中でいちばん厄介なのは、案外こういう“自分の中の批評家”なのかもしれない。


 期待してくる他人より先に、自分が自分を見限りそうになる。


 白い文字が浮かぶ。


 『補足:継続者は、しばしば外部評価より先に自己否定を内面化します』


「……難しい言い方しやがって」


 思わず苦笑が漏れる。

 でも意味は痛いほど分かった。


 誰かに否定される前から、自分で自分を疑う。

 それは防衛でもあるのだろう。

 先に傷ついておけば、本当に刺された時に少しは耐えられるから。


 けれどその防衛は、同時に人を削る。

 まだ届いていないのに、自分で自分を少しずつ削りながら前へ進むことになる。


 この未来の恒一は、きっとずっとそうやって書いてきたのだ。


     ◇


 スマホを手に取る。

 さっきまでの通知の中に、もう一つだけ気になるメッセージがあった。


 差出人は、吉岡。


 高校時代の友人だろうか。

 文面を開く。


『この前の飲み会、また来なかったな』

『お前さ、売れ始めてから付き合い悪くなったって言われてるぞ』

『まあ半分冗談だけど、たまには顔出せよ』


 冗談めかしている。

 でも、そこにもまた距離がにじんでいた。


 家族だけじゃない。

 友人とも、少しずつずれてきているのかもしれない。


 忙しいから。

 締切があるから。

 書かなければいけないから。


 どれも正しい理由だ。

 けれど、理由が正しいことと、関係が無傷で済むことは別だ。


「……全部は持てないのか」


 ぽつりと漏れた声は、思った以上に重かった。


 夢。

 家族。

 友人。

 恋愛。

 健康。

 時間。

 全部を同じ強さで抱えることは、たぶんできない。


 何かに本気になるというのは、きっと少しずつ偏っていくことだ。

 配分が崩れて、後回しになるものが生まれて、それでもなお手放せない何かを選ぶことだ。


 現実の自分は、逆に何も選びきれなかった。

 だから大きく失わなかった代わりに、大きく掴みもしなかった。


 それが悪いとまでは言えない。

 でも、この未来の重みを見てしまうと、何も選ばなかったこと自体もまた一つの選択だったのだと分かる。


     ◇


 ノートパソコンの横に、さらにもう一冊、薄いファイルが挟まっていた。


 表紙には印刷された文字。


 企画会議用メモ


 開く。


 そこには、自作の売り方や展開案が箇条書きで並んでいた。

•一話目の引きを強く

•主人公の弱さを序盤で明確に

•タイトル再考

•読者層の導線意識

•感情の山をもっと早く

•書きたいものと読まれるものの接続


 恒一は、その紙を見つめたまましばらく動けなかった。


 現実の自分が昔ぼんやり憧れていた“物書き”のイメージには、こんな単語はあまりなかった。


 もっと孤独で、もっと純粋で、もっと芸術寄りの何か。

 そういう幻想があった。


 でもこの未来は違う。


 書きたいだけでは足りない。

 届くように設計しなければいけない。

 自分の衝動と、読者の期待の接続点を探し続けなければいけない。


 それはもう、夢というより仕事だ。

 でも仕事だからといって、簡単になるわけでも、冷めるわけでもない。

 むしろ好きだったものが市場へ出ることで、苦しさの種類が増えている。


 書きたい。

 でも、読まれたい。

 読まれるために変える。

 変えるほど、最初に好きだったものから少し離れる。

 そのたびに、これでいいのかと揺れる。


「……きついな」


 思わず本音が漏れる。


 好きなことを仕事にするのは羨ましい、という言葉を軽々しく言えなくなる。

 好きなことが仕事になるとは、好きなものに逃げ場がなくなることでもあるのだ。


     ◇


 机の上のメモ帳に、ひどく強い筆圧で書かれた一文を見つける。


 誰にもなれないなら、自分になるしかない。


 その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


 それは、諦めにも似ている。

 でも同時に、開き直りにも見えた。


 同期の人気作家にはなれない。

 受賞者にも、天才にも、ランキングの王にもなれない。

 じゃあどうするのか。

 そこで終わるのではなく、自分にしか書けないものを探すしかない。


 たぶん創作を続ける人間は、どこかでそこへ辿り着くのだろう。

 “あの人みたいに”ではなく、

 “自分であることを引き受けるしかない”場所へ。


 だが、その覚悟に至るまでに何を捨てるのか。

 それがこの話の核心なのかもしれない。


 他人との比較で消耗する時間。

 家族や友人にすぐ返せない連絡。

 健康。

 安定。

 あるいは、“普通の幸せ”と呼ばれるものの一部。


 夢を続けるとは、たぶん何かを積み上げるだけじゃない。

 何かを捨て続けることでもある。


 視界の端の文字がまた変わる。


 『観測時間:残り 01:21:16』


 まだ一時間以上ある。

 でも、もう十分に見てしまっている気がした。


 夢を諦めなかった未来。

 そこには確かに“進んだ自分”がいた。

 だが同時に、擦り減り、削れ、比べ、迷い、それでも立ち止まれない自分もいた。


 その時、スマホが震えた。


 今度の通知は見慣れた名前だった。


 雨宮 澪


 胸が、ぎくりとする。


 この未来にも、澪はいるのか。


 メッセージを開く。


『この前おすすめされたやつ読んだよ』

『相変わらず、榊っぽい文章だった』

『ちゃんと寝てる?』


 数秒、息が止まる。


 恋人ではない。

 家族でもない。

 でも、完全に切れてもいない距離感。


 その文面だけで、この未来の二人がどういう位置にいるのか分からなくなる。

 ただ一つ分かるのは、彼女がこの未来でも“榊っぽさ”を知っているということだった。


 それが妙に嬉しくて、妙に苦しい。


 第一観測では、告白した未来の澪がいた。

 ここでは、夢を追った未来の自分に対して、別の距離にいる澪がいる。


 つまりどの分岐でも、彼女は完全には消えていないのかもしれない。

 形を変えながら、自分の人生のどこかに残り続けている。


「……やめろよ」


 そんなことまで見せるな、と思った。


 これ以上、“こうなれたかもしれない自分”を増やされると、本当に今の自分が分からなくなる。


 でも、観測はまだ終わらない。


     ◇


 恒一は椅子にもたれ、目を閉じた。


 頭の中が重い。

 情報も感情も多すぎる。


 けれど一つだけ、はっきり輪郭を持ち始めたことがある。


 現実の自分は、“才能がないかもしれない”という痛みに触れる前に逃げた。

 だから、安全ではあった。

 だが同時に、“本当にないのかどうか”も永遠に分からないままだった。


 この未来の自分は違う。

 才能の有無が怖くても、続けた。

 続けた結果、なお分からないまま苦しんでいる。


 結局、人は最後まで確信なんて持てないのかもしれない。

 才能があるから続けるのではなく、

 分からないまま続けた人間だけが、ようやく自分なりの輪郭へ辿り着くのかもしれない。


 その時、ノートパソコンの画面にカーソルがまた点滅する。


 続きを書け。

 この未来の自分は、今も途中だ。

 才能の答えが出ていなくても、途中であることは止まらない。


 途中であること。

 未完成であること。

 それを受け入れ続けるのが、創作なのだろう。


 恒一はゆっくりと目を開けた。


 この先まだ何かを見るはずだ。

 きっともっと決定的な場面がある。

 それでも、もう分かり始めている。


 才能の前で人が捨てるのは、時間や安定だけではない。

 “いつか自分は特別かもしれない”という幻想そのものを捨てて、それでも続けるしかないのだ。


 そして、その先でなお書く理由を持てるかどうかが、分岐を分けるのかもしれなかった。

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