表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/46

不貞生活

 長く寒い冬、彼は何度となくリリーを呼び出した。帰り際に彼はごねるようになり、ホテルの滞在時間は延びていった。マーガレットよりも帰りが遅くなることもしばしばで、当然彼女は怪しんだ。


「リリー、最近具合が悪そうだわ。夜も頻繁に出てるし…何をしているの?」


 心配そうに切り出したマーガレットに、リリーは笑ってみせた。


「ちょっと忙しくて。でも大丈夫よ」


「夜は、どこにいっているの?」


「大した用じゃないのよ。ちょっとつきあいで」


 マーガレットの眉が歪んだ。


「私に言えないような場所?」


 リリーは慌てて否定した。


「まさか。そのへんの居酒屋よ。最近寒さがこたえるようになっちゃって、どうもね」


 下手な嘘だ。自分でもそう思った。


「リリーが居酒屋に入り浸ってるなんて考えられないわ。ねぇ、どうして? 何かあるんでしょう。私には隠さないでよ」


 リリーは答えに窮した。口がさけても、本当の事は言えない。


「だ…大丈夫よ。本当。何も隠してなんかないわ。心配かけてごめんね」


 リリーは笑って見せた。マーガレットは明らかに納得はしていなかったが、そう、と言って引き下がったのでリリーは胸をなでおろした。


「それはともかく、心配だわ。リリー、そんな体調で来週の出張公演、倒れない?」


「私は平気よ。でも一週間マーガレットに会えないのは寂しい…モスクワって初めてなの」


「まぁそうなの?」


 彼女は首をかしげた。2年前とまったく変わらない。小鳥のようないじらしさ。一生変わらないで、自分の元にいてくれるだろうか。そんな都合のいい願いを抱いている。彼女を裏切っているくせにだ。


「そうよ。故郷の村とこの街しか知らないわ。ねぇマーガレット…」


 ふいに悲しい気持ちになったリリーは、両手を広げてマーガレットを抱きしめた。マーガレットは笑いながら腕の中におさまった。


「リリーったら、最近どうかしてるわ」


「一週間でも、あなたと離れるのが不安なの」


 リリーは正直に言った。だって彼女は、リリーのさくらんぼ畑なのだ。自分には手に入らないと思っていた幸せ。マーガレットは悪戯っぽく笑った。


「じゃあ、私もついていっちゃおうかしら」


 その可愛い提案は嬉しかった。けれどリリーは首を振った。


「わがまま言ったわ、ごめんなさい。私のためにあなたが舞台を休むなんて、良くないわ」


 リリーはマーガレットと額を合わせた。ほんのりと温かい。


「よし、がんばるわ。モスクワでうんと稼いでくる。私たちのお城のためよ」


 から元気を出して、リリーはモスクワへ出発した。

 けれどなぜ、予測がつかなかったのか…。





「リリー、素晴らしい『真珠』だったよ!」


 客演先の楽屋で待ち構えていたのは、ユーナだった。


「僕の家で晩餐にしよう? 大丈夫、二人きりだよ」


 リリーは断固として首を振った。


「無理よ。仕事中なの。宿に帰らないと」


 ユーナは上目づかいで私を見た。


「ねぇ、せっかく会えたのに喧嘩したくない。お願い」


 力を持っているのはユーナだ。それは「喧嘩」ではなく「脅し」だった。

 馬車に乗ってほどなくしてついたのは、石垣にかこまれた大きな庭の中にある屋敷だった。ギリシア風の回廊のあるテラスに、ゆったりとしたファサードの屋根を持つ建物だ。


「ここは何? お城…?」


「借りたんだ。知り合いが留守にしてたから」


 何が待ち構えているのだろうと疑心暗鬼のリリーだったが、今日の彼は不思議と毒がなく、無邪気ですらあった。


「夕食にしよう。何が食べたい?」


 リリーは首を振った。


「シーズン中は、あまり食べないの。どうせ誘うなら、最終日にしてくれればよかったのに」


 目の前にならべられたご馳走から、リリーは少しの野菜と水にだけ手をつけた。


「悪いけど…これだけでいいわ」


 明日も舞台だ。十分に体を整えておかなければならない。学校を出てもうすぐ三年。プロに失敗は許されない。リリーは断固とした態度で風呂を済ませ、軽くストレッチをしてベッドに入った。


「リリーは本当に、変わらないねぇ。ストイックで」


 ユーナはそんなリリーをいちいち観察しながら、なぜか嬉しそうだった。


「悪いけどもう寝るわ」


 すると以外にも、彼はうなずいた。


「わかった。僕も隣で寝ていい?」


 リリーは肩をすくめた。


「好きにすれば」


 雲のようにやわらかな羽根布団の中に潜り込んで、彼は子どものように笑った。


「まるで昔に戻ったみたい」


 その無邪気な様子に、リリーは少し後ろめたさを感じた。しかし目を閉じた。明日もハードなのだ。今は何も考えたくない。


「…おやすみなさい」





 3日続けて公演があり、その合間に一日だけ休みの日が設けてあった。めずらしくその日、リリーは寝坊した。


「おはよう、おはようリリー」


 耳元で彼の声がして、リリーは一気に目が覚めた。


「今何時?」


「何時だっていいじゃない」


 ユーナが足のついた朝食のトレイを、ベッドの上に置いた。


「一緒に食べよう?」


 そう言いながら部屋にあるサモワールで紅茶を淹れて、リリーにカップを差しだした。


「ありがとう。いただきます」


 外は吹雪いていた。部屋が暖かい分、外の寒さを想像するとぶるっと震えた。今日が休みでよかった。


「さくらんぼのジャム、食べる?」


 まさにそれが食べたいと思っていた所だった。


「…おいしい」


 ユーナの顔がぱっと輝いた。


「リリーは今でもさくらんぼが好き?」


「そうだね」


「ふふ、おかわりは?」


 彼は嬉しそうにもう一杯お茶を注ぎに行った。サモワールを扱うその手つきはなかなか様になっていた。


「…あなたが私に紅茶を淹れるなんてね」


「昔と一緒にしないでよ。僕、なんでもできるよ」


「…どうだか」


 憎まれ口をたたきながらも、彼もリリーも肩の力が抜けていた。この3日、彼はリリーに何も強制せず、舞台を万全に踏むために支えてくれたと言っていい。


 …こうやって普通に親切にされると、相手を憎みづらくなる。


(ただでさえ、罪悪感があるっているのに…)


 マーガレットの面影が脳裏にちらつく。彼への罪悪感と、彼女への罪悪感。その選択をしたのはほかならぬ自分なのに、ぐずぐずと悩んでいる自分が情けなくて、リリーの胸の中は苦くなった。


「はぁ…」


 リリーは無意識にため息をついていた。ユーナはそれには気が付かず、リリーのつま先を見ていた。


「よくならないね、足…まだ血が止まってない。包帯替えてあげる」


 リリーは初日、慣れないモスクワの劇場の床で滑りそうになり、足先を痛めたのだった。


「自分でやるわ。慣れてるから」


 リリーは包帯を取り換えた。肉体を酷使するバレリーナに、怪我や故障はつきものだ。致命傷にならないよう、上手くつきあっていく必要がある。


「…踊るとき、痛いよね。そんな風になってまで…なんでバレエを続けるの?」


「踊るのが好きだから。知ってるでしょ」


 リリーは無表情で答えたが、当然痛かった。そんな時は、マーガレットの事を思い浮かべる。彼女の声、笑顔、甘い匂い…。彼女と一緒にいるために、自分は最高のバレリーナでいなくては、強くなってたくさん稼がなくては。その気持ちさえあれば、痛みも決意に変わる。どんなに痛くたって、自分は負けない。そう、心だって。


「そっか…リリーは頑張り屋さんだもんね。ぼくにはとても無理だよ」


 リリーにもたれて、ユーナはそうつぶやいた。こうして暖かい部屋でふわふわの布団に二人で包まれていると、痛みに負けてしまいそうで嫌だった。休息でも訓練でも、何か目的がなければ。リリーは横になった。


「私、もうひと眠りする。今日は練習はやめて、足を休めることにするわ」


「わかった、僕も一緒にいる…」


 カーテンの隙間から差す日に背を向け、リリーとユーナは暗がりでうとうとした。


「ねぇ、ずっとこうしていたいよ。今日だけじゃなくて、ずっと、ずっとね…」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ