不貞生活
長く寒い冬、彼は何度となくリリーを呼び出した。帰り際に彼はごねるようになり、ホテルの滞在時間は延びていった。マーガレットよりも帰りが遅くなることもしばしばで、当然彼女は怪しんだ。
「リリー、最近具合が悪そうだわ。夜も頻繁に出てるし…何をしているの?」
心配そうに切り出したマーガレットに、リリーは笑ってみせた。
「ちょっと忙しくて。でも大丈夫よ」
「夜は、どこにいっているの?」
「大した用じゃないのよ。ちょっとつきあいで」
マーガレットの眉が歪んだ。
「私に言えないような場所?」
リリーは慌てて否定した。
「まさか。そのへんの居酒屋よ。最近寒さがこたえるようになっちゃって、どうもね」
下手な嘘だ。自分でもそう思った。
「リリーが居酒屋に入り浸ってるなんて考えられないわ。ねぇ、どうして? 何かあるんでしょう。私には隠さないでよ」
リリーは答えに窮した。口がさけても、本当の事は言えない。
「だ…大丈夫よ。本当。何も隠してなんかないわ。心配かけてごめんね」
リリーは笑って見せた。マーガレットは明らかに納得はしていなかったが、そう、と言って引き下がったのでリリーは胸をなでおろした。
「それはともかく、心配だわ。リリー、そんな体調で来週の出張公演、倒れない?」
「私は平気よ。でも一週間マーガレットに会えないのは寂しい…モスクワって初めてなの」
「まぁそうなの?」
彼女は首をかしげた。2年前とまったく変わらない。小鳥のようないじらしさ。一生変わらないで、自分の元にいてくれるだろうか。そんな都合のいい願いを抱いている。彼女を裏切っているくせにだ。
「そうよ。故郷の村とこの街しか知らないわ。ねぇマーガレット…」
ふいに悲しい気持ちになったリリーは、両手を広げてマーガレットを抱きしめた。マーガレットは笑いながら腕の中におさまった。
「リリーったら、最近どうかしてるわ」
「一週間でも、あなたと離れるのが不安なの」
リリーは正直に言った。だって彼女は、リリーのさくらんぼ畑なのだ。自分には手に入らないと思っていた幸せ。マーガレットは悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、私もついていっちゃおうかしら」
その可愛い提案は嬉しかった。けれどリリーは首を振った。
「わがまま言ったわ、ごめんなさい。私のためにあなたが舞台を休むなんて、良くないわ」
リリーはマーガレットと額を合わせた。ほんのりと温かい。
「よし、がんばるわ。モスクワでうんと稼いでくる。私たちのお城のためよ」
から元気を出して、リリーはモスクワへ出発した。
けれどなぜ、予測がつかなかったのか…。
「リリー、素晴らしい『真珠』だったよ!」
客演先の楽屋で待ち構えていたのは、ユーナだった。
「僕の家で晩餐にしよう? 大丈夫、二人きりだよ」
リリーは断固として首を振った。
「無理よ。仕事中なの。宿に帰らないと」
ユーナは上目づかいで私を見た。
「ねぇ、せっかく会えたのに喧嘩したくない。お願い」
力を持っているのはユーナだ。それは「喧嘩」ではなく「脅し」だった。
馬車に乗ってほどなくしてついたのは、石垣にかこまれた大きな庭の中にある屋敷だった。ギリシア風の回廊のあるテラスに、ゆったりとしたファサードの屋根を持つ建物だ。
「ここは何? お城…?」
「借りたんだ。知り合いが留守にしてたから」
何が待ち構えているのだろうと疑心暗鬼のリリーだったが、今日の彼は不思議と毒がなく、無邪気ですらあった。
「夕食にしよう。何が食べたい?」
リリーは首を振った。
「シーズン中は、あまり食べないの。どうせ誘うなら、最終日にしてくれればよかったのに」
目の前にならべられたご馳走から、リリーは少しの野菜と水にだけ手をつけた。
「悪いけど…これだけでいいわ」
明日も舞台だ。十分に体を整えておかなければならない。学校を出てもうすぐ三年。プロに失敗は許されない。リリーは断固とした態度で風呂を済ませ、軽くストレッチをしてベッドに入った。
「リリーは本当に、変わらないねぇ。ストイックで」
ユーナはそんなリリーをいちいち観察しながら、なぜか嬉しそうだった。
「悪いけどもう寝るわ」
すると以外にも、彼はうなずいた。
「わかった。僕も隣で寝ていい?」
リリーは肩をすくめた。
「好きにすれば」
雲のようにやわらかな羽根布団の中に潜り込んで、彼は子どものように笑った。
「まるで昔に戻ったみたい」
その無邪気な様子に、リリーは少し後ろめたさを感じた。しかし目を閉じた。明日もハードなのだ。今は何も考えたくない。
「…おやすみなさい」
3日続けて公演があり、その合間に一日だけ休みの日が設けてあった。めずらしくその日、リリーは寝坊した。
「おはよう、おはようリリー」
耳元で彼の声がして、リリーは一気に目が覚めた。
「今何時?」
「何時だっていいじゃない」
ユーナが足のついた朝食のトレイを、ベッドの上に置いた。
「一緒に食べよう?」
そう言いながら部屋にあるサモワールで紅茶を淹れて、リリーにカップを差しだした。
「ありがとう。いただきます」
外は吹雪いていた。部屋が暖かい分、外の寒さを想像するとぶるっと震えた。今日が休みでよかった。
「さくらんぼのジャム、食べる?」
まさにそれが食べたいと思っていた所だった。
「…おいしい」
ユーナの顔がぱっと輝いた。
「リリーは今でもさくらんぼが好き?」
「そうだね」
「ふふ、おかわりは?」
彼は嬉しそうにもう一杯お茶を注ぎに行った。サモワールを扱うその手つきはなかなか様になっていた。
「…あなたが私に紅茶を淹れるなんてね」
「昔と一緒にしないでよ。僕、なんでもできるよ」
「…どうだか」
憎まれ口をたたきながらも、彼もリリーも肩の力が抜けていた。この3日、彼はリリーに何も強制せず、舞台を万全に踏むために支えてくれたと言っていい。
…こうやって普通に親切にされると、相手を憎みづらくなる。
(ただでさえ、罪悪感があるっているのに…)
マーガレットの面影が脳裏にちらつく。彼への罪悪感と、彼女への罪悪感。その選択をしたのはほかならぬ自分なのに、ぐずぐずと悩んでいる自分が情けなくて、リリーの胸の中は苦くなった。
「はぁ…」
リリーは無意識にため息をついていた。ユーナはそれには気が付かず、リリーのつま先を見ていた。
「よくならないね、足…まだ血が止まってない。包帯替えてあげる」
リリーは初日、慣れないモスクワの劇場の床で滑りそうになり、足先を痛めたのだった。
「自分でやるわ。慣れてるから」
リリーは包帯を取り換えた。肉体を酷使するバレリーナに、怪我や故障はつきものだ。致命傷にならないよう、上手くつきあっていく必要がある。
「…踊るとき、痛いよね。そんな風になってまで…なんでバレエを続けるの?」
「踊るのが好きだから。知ってるでしょ」
リリーは無表情で答えたが、当然痛かった。そんな時は、マーガレットの事を思い浮かべる。彼女の声、笑顔、甘い匂い…。彼女と一緒にいるために、自分は最高のバレリーナでいなくては、強くなってたくさん稼がなくては。その気持ちさえあれば、痛みも決意に変わる。どんなに痛くたって、自分は負けない。そう、心だって。
「そっか…リリーは頑張り屋さんだもんね。ぼくにはとても無理だよ」
リリーにもたれて、ユーナはそうつぶやいた。こうして暖かい部屋でふわふわの布団に二人で包まれていると、痛みに負けてしまいそうで嫌だった。休息でも訓練でも、何か目的がなければ。リリーは横になった。
「私、もうひと眠りする。今日は練習はやめて、足を休めることにするわ」
「わかった、僕も一緒にいる…」
カーテンの隙間から差す日に背を向け、リリーとユーナは暗がりでうとうとした。
「ねぇ、ずっとこうしていたいよ。今日だけじゃなくて、ずっと、ずっとね…」




