いつもいつも君はそうだ
…なぜだろう。マーガレットと肌を触れ合うのは好きだ。学校のクラスメイトやイヴァンと練習で触れ合うのも、嫌だと感じたことはない。だけどユーナに触れられると、肌がぞくっと粟立つように恐ろしい。これは間違った事なのだという違和感が常にある。けれど一方で、そんな自分を嗤う。
(…何をお高く止まっているの? 私は結局、娼婦と変わらない事をしているのに…)
見返りありきで、自分から体を差し出す提案をした。ああなってはいけないと戒めてきた母やローズよりも、よほど愚かな選択をしてしまったのだ。
(早く…早く終われ)
ベッドの上で、ずっと目を開けているのは耐えられなかった。だが目をつぶると、頭に浮かぶのはおなじみの後悔だ。
(どうしてこうなってしまったのだろう…)
自分の選択が、いけなかったのだろうか。彼のいう事を聞いて、屋敷から出なければよかったのか。だけどそれで彼が満足するという確信は持てなかった。タチアナの金切り声が頭の中によみがえる。
『あんたの母親に、私はなにもかも奪われたんだ! 私は……私はずっと、小さいころから旦那様だけを想って、生きてきたのに……!』
タチアナも、婚約が決まった幼少時から、常軌を逸するほどに父に執着していたという。もし父が、タチアナだけを見ていれば、彼女は満ち足りた貴婦人だったのだろうか。そしてユーナも、人の痛みがわかるまっとうな大人に成長していたのだろうか。
しかし父は、病的な愛情を見せるタチアナに耐えられず逃げ出した。
(私も……ユーナから逃げた。父と同じことを、繰り返してしまっているの……?)
今のユーナは、どう考えても異常だった。リリーを苦しめるためだけに、見知らぬ相手との結婚をたやすく決める。何でも利用し、そこに葛藤はない。タチアナを病院に送った時もそうだ。彼はいったいいつから、こうだったのだろう…
リリーと一緒に居た時すでに? それに思い当たってリリーはぞっとした。
「ねぇ…もし私がすべて言う通りにしていれば…あなたは変わっていた?」
リリーは、そう尋ねずにはおれなかった。
「とつぜんどうしたの? 心変わりでもした?」
「もしもの話…私がずっと屋敷にいたら、あなたはまっとうになっていたのかしら」
彼はふっと顔をゆがめて笑った。
「僕がまっとうじゃないって?」
リリーは畳みかけた。
「田舎貴族のあなたが、こんなに短期間で出世したのはなぜ? 帝室に出入りするために、どんな悪いことをしてきたの? 村にとどまっていた方が、あなたはまだ…ねぇ、お母様はどうなったの?」
「ああ、去年神に召されたよ。言ってなかったっけ?」
なんでもない事のように言う彼が、おそろしかった。自分の弟はもう、手遅れなのだろうか。リリーは手で顔を覆った。
「私が死んでも…きっと同じことを言うのね」
「そんなわけないでしょ。リリーは僕の大事な…」
リリーはその言葉を遮った。
「あなたは屋敷に戻って、ちゃんとあなたを見てくれる人と家族を作るべきよ。それしか、あなたが救われる道はないわ…」
一つだけ確かな事がある。彼はイラリオン家にとって不快な存在であるはずのリリーに懐いて、後をついてまわっていたのだ。昔からきっと、彼は飢えていた。誰か一緒に居てくれる人を欲していた。リリーが去ってその飢餓感が満たされぬまま大人になった彼は、欲望のまま簡単に何でも奪う大人に成長してしまった。
だけど腹が満たされる事はない。そしてさらに欲しがって手を汚す。さながら、飢えて地獄をさまよう悪魔のように…。
しかし、彼をまるごと引き受ける事ができないリリーが何を言っても、無意味なことだ。案の定、彼は痛いほどの力でリリーの手首をつかんだ。
「何それ。救うってさ、修道女気取り? 今の自分を見てごらんよ。バレリーナで愛人のくせにさ」
手首は痛かったが、リリーは我慢して彼の言葉を聞いた。
「だいたい君は、ちゃんと僕を見てくれてるわけ? 自分ができないくせに、無責任な事を言うのはやめてほしいな。いつもいつもリリーはそうだ。言うだけ言って、逃げていく」
彼はリリーの手を乱暴に離し、その手をリリーの首に伸ばした。
「僕をまっとうにしたいなら、君がしてくれればよかったんだ! 君がさ……!」
あの日、行かないでと泣いた彼に、リリーはきっぱりと出ていくと告げて突き放した。正直に伝えた方がいいと思ったのだ。リリーも余裕がなかった。彼に優しくできなかった。
もし、彼を傷つけないように――もっと時間をかけて別れを告げていれば…。
ずっと忘れていた罪悪感が、鮮やかによみがえった。
「ごめん……。突然出て行ったこと、悪いと思ってる」
次の瞬間、首をつかんだ手にぐっと力がこめられた。リリーは身構えたが…
「なんで謝ったりするのさ…今更」
そういってユーナは、力なくリリーの上に倒れた。
「…重いよ」
ユーナはそのままリリーの横にごろりと体を投げ出し、乱暴に目をぬぐった。
「いくら目の前にいても…君は遠くにいるって気がする。昔からそうだ」
リリーは天井を見たまま、何も言えなかった。
「ごめんリリー…怒った?」
ユーナが顔色をうかがうようにこっちを見た。その目は濡れている。リリーはため息交じりに言った。
「泣きたいのはこっちだよ。怒鳴られて、首しめられて」
お互い話が通じない。彼は聞く耳を持たないし、リリーは彼の言う通りにはできない。平行線だ。二人は昔から変わらないのだ。しょうがなさすぎて、リリーは思わず笑ってしまった。
「ごめんリリー」
そう言いながら、彼は再びリリーを上から見下ろした。リリーはあきらめて、目を閉じた。
(…帰らなきゃ)
隣でユーナがうとうとし始めたのを見計らって、リリーはベッドから出た。だけど彼はしっかり目を開けて、リリーの手をつかんだ。
「なんで帰るの?」
「明日も早いから」
「ここから劇場に行けばいい」
リリーはその手を外して、帰り支度を始めた。
「噂になったら困るもの」
「そんなの嘘。あの娘にばれるのが嫌なんだ」
彼の目は鋭くリリーを射ていた。
「あの娘が大事なんだ。そうでしょ?」
痛い所を突かれたリリーは、彼を冷たくはねつけた。
「どうだろうと関係ない。家があるのに外泊を繰り返すような、だらしない事はしたくないだけ」
「リリーは意地悪だ。ぼくがこんなに頼んでいるのに。いつも自分のわがままを通すんだ」
反論したかったが、これ以上時間を無駄にしたくない。リリーはさっと部屋を出た。が、少しの罪悪感が胸に残った。
(…彼に同情なんてして、どうするのよ)
リリーは自分に苛々して、早足で歩いた。
(もうやめにしたい、こんな事…だから嫌だったのに…)
しかし、やめられるものなら最初からここにはいないのだ。彼はリリーの退路を断つため、手段を選ばなかった。マーガレットを抑えられたリリーに抵抗は許されない。できることはせいぜい…
(彼が早く私に飽きるよう、仕向ける事くらい…)




