彼女は一体何をしたのか
「しない。そんなことしたら、バレエは続けられないわ」
マーガレットは少しムキになった。
「でもバレリーナとして舞台に立てるのは若い間だけよ。年を取ったらどうするの」
リリーは紅茶を一口飲んだ。炒った茶葉の香ばしい香り。まろやかな温かい苦みが舌の上を通過した。白い花の形のお皿に盛られていたジャムは、いちごとさくらんぼを混ぜた贅沢なものだった。高価いものは、おいしい。
「だからできるだけ現役の間にたくさん稼ぐわ。一生困らないくらいに。そのためには売れっ子にならなくちゃね。引退したら先生になりたいわ。そしたら時々こうして贅沢もできるかもしれない」
「…そんなところまで考えてるの」
「私は帰る家がないからね。自分でなんとかしなくちゃ。お金がたまったら、家も欲しいわ」
「家? 女なのに買えるのかしら」
「払えれば売ってくれるでしょ。そんな大きな家じゃなくていいわ、女一人だもの。アパートだっていい。自分の家があれば、とりあえず誰に頼らなくても帰る場所があるわ」
「…いいわね、それって。私もそうしたいわ。結婚するなんて嫌」
「じゃ、あなたも一緒に住めばいいわ」
リリーは深く考えずにそう言った。すると、マーガレットの顔がぱっと輝いた。
「そうね! それいいわ! あ、ふたりで一つの家を買うっていうのは、どう?」
「いいわね。あなたのご両親が許せばね」
マーガレットは少しうつむいた。
「許すも何も。あの人たちは私の事、普段は忘れているもの。何をしたって気にしないはずよ」
「そうかしら。だってあなた、一人娘なんでしょう」
「ええ。あとは男の子だけ。まだ赤ん坊だけど」
「そう…じゃあいい婿候補が現れればあなたが引き出される可能性が高いじゃない」
「婿候補…」
「あなたは美人だし、バレエもできるし、お家にとってはこれ以上ない強いカードなんじゃないの? よくわからないけど」
マーガレットは顔をしかめた。
「嫌よ、そんなの。まるで物みたい」
「でも、そうなれば一生安泰よ。住む場所も食べるものも困らないわ。それって幸運なことよ」
「でもそのかわり…自由はないわ。家のためにいいなりになって、子供を産まなければいけないのよ。男の子が生まれるまで。バレエなんてもうできっこない」
「そうね…どっちを取るか、それはあなた次第ね」
マーガレットは何も答えなかった。何か考えているようだった。
「さ、そろそろ帰りましょう。暗くなる前に」
立ち上がったリリーを、マーガレットが止めた。
「待って、手袋はめなさいよ。そのために買ったのよ」
座りなおしてリリーは包みを解いた。しっとりとした、秋の夜空のような、深い紺色の手袋だった。薄い生地で嵌めるとなめらかな指通りなのに、しっかり暖かい。
「…ありがとう。こんな良い物を身に着けるのははじめて」
リリーは礼を言った。マーガレットふんとそっぽを向いた。
「手袋をもってないなんて、この国であなたくらいでしょうよ」
私は苦笑いした。
「持ってはいたんだけどね…」
あれは、結局弟にかしたままだ。この上等な新しい手袋を見たとしたら、彼はどう思うだろう。リリーはきゅっと拳を握った。
(…もうやめよう、彼の事を考えるのは)
何度目かわからない決心だったが、今度こそは実感を持ってそう思う事ができた。自分に頼る場所はないし、この先二人の人生が交わる事はない。彼はあの地で人生を送っていくだろうし、自分は自分で、幸せを手に入れるのだ。母のように、バレエを辞めたりなんかしない。舞台の上に、自分の幸福はある。幻想のさくらんぼ畑の光景を、リリーは振り払った。
残りの数日、二人は自主練をしたり、本を読んだりしてのんびりと過ごした。がらんとした校舎の中で、まるで姉妹のようにずっと一緒だった。
しかしすぐに休暇は明け、学校は活気を取りもどした。リリーとマーガレットが普通に話しているのを見て、ハニーたちは良い顔をしなかった。が、ハニーやアリーナがそばにいる限り、マーガレットは私に近寄ろうとしなかった。おかげでリリーのそばには常にだれか友人がいて、一人になる時間は前にもましてなくなった。
休暇中は少し良くなったように見えたマーガレットの体調は、また悪化しはじめたようだった。
「ねぇ、お腹は大丈夫なの」
「別に平気」
「まだ怖い事は起こるの?」
練習中、私は心配で質問を重ねたが、ミス・レガートの鋭い声が飛んできた。
「サイクラス! 私語をする余裕があるとは」
「すみません…」
レッスン後、ロッカーで私はマーガレットに声をかけた。
「ねぇ、このままでは駄目だわ。一緒に自主練しましょうよ」
「あなたのお友達と一緒に? 楽しいでしょうね」
「2人でよ。ペアなんだから、その部分をもっと練習したいわ。あなたの様子も心配だし…」
「ハンナたちが許さないでしょうよ」
トゥシューズをぬいでくつに履き替えながらマーガレットは気だるげだった。
「そんなこと…」
言いかけたリリーははっと彼女の足に目をこらした。履き替えた彼女のタイツの足先に、じわじわと赤いシミが広がっている。
「いやっ…!」
彼女は慌ててくつを脱ぎ捨てた。
「大丈夫?!血…?」
リリーは彼女のくつを手にとって確かめた。内側のつま先の部分に、赤いインクがべたりと溜まっていた。
「…平気。別に血じゃないわ」
驚きは一瞬で、マーガレットはタイツを脱ぎながらうんざりしたように言った。
「ここのところ毎日よ。あなたが話しかけたから油断してタイツ駄目にしちゃったじゃない…」
そういう彼女の目の下にはクマが浮かんでいる。あきらめたような声からは、以前のようないきいきとした張りが消えていた。
「しっかりして! 毎日? 一体だれがこんな嫌がらせを…」
「だから言ったでしょ、人間じゃ…」
その時、ハニー達が更衣室に入ってきた。
「どうしたのリリー。一緒に自主練する約束でしょ」
リリーは彼女たちに向き直った。
「ちょっと待って。マーガレットのくつに…」
ハニーはつかつかとマーガレットに近づいて言い放った。
「悪いけど、あなたの問題にリリーをまきこまないでちょうだい」
マーガレットは下をむいたままだった。
「巻き込んでなんか、ないわ」
「白々しい。リリーに少しでも手だししたら、私が許さないから」
「…しないわよ」
「あなたのしたこと、誰も忘れてないから。思いどおりにはさせない」
ハニーの目は怒りに燃えていた。今にもつかみかかりそうだ。リリーはあわてて2人の間に入った。
「どうしたのハニー。私は平気よ。落ち着いて」
ハニーは無言でリリーの手をつかんで更衣室を出た。アリーナも続いた。
「リリー、この際はっきり言うわ。彼女と仲良くするのはやめて。危険よ」
リリーはとまどった。
「でもペアなのよ。仲たがいなんてできないわ。それに…」
アリーナが私の言葉を遮った。
「ええもちろん。ペアとして協力して練習していかないとね。でもそれ以上に彼女と付き合うのはよくないわ。私たち、心配なのよ」
リリーは迷ったが、とうとう聞いた。
「彼女は一体…何をしたの? 今、彼女に嫌がらせしているのは、誰なの? まさか…違うわよね?」
最後は訴えるようにリリーは2人を見た。ハニーの表情は険しく、アリーナは困ったように唇を噛んでいた。ハニーの声は震えていた。
「ずっと一緒にいた私を、疑うの…? あの女は、何の罪もない生徒を一人、殺したのよ。…私が言えるのはそれだけ」




